監督 万田邦敏 interview
言葉から犬へ

映画をつくること、すなわち映画監督の仕事とはいかなるものか。その複雑さを万田邦敏監督は、すでに自身の最初の商業映画『宇宙貨物船レムナント6』、そのセルフ・メイキング『プロダクツ オブ レムナント6』において実直に語った。現実と虚構、意図と偶然、言葉と身体といった様々な対立が、ふとした瞬間に様々な思惑を超えて瓦解し混じり合ってしまう瞬間こそ、映画という出来事において生まれうるものだ、と。人と犬、女と男、ファンタジーとリアル……『イヌミチ』もまた、二項対立では解決し得ない様々な事柄の間を、手探りで掴むような試みにおいて生まれた作品であるだろう。「犬を演じる女性」である響子役を演じた女優・永山由里恵さんにも同席して頂き、万田監督の新たな探求の経過について率直に伺った。

――『接吻』以来の長編である『イヌミチ』は、映画美学校の脚本コースの修了作品の中から選ばれた伊藤理絵さんの脚本から出発された作品と伺っています。ひと組の男女が犬と主人の擬似的な関係を結ぶという物語を、まずはどのように映画化されようと考えられたのでしょう。

万田邦敏最初に脚本を読んだときは内容が軽いなって思ったんですよ。主人公の女性である響子に、仕事に対しても生きていくことに対しても、真剣さがなさ過ぎない?って意味でね。脚本を書いた伊藤さんにも最初に言ったんですが、漫画のような印象を受けた。主人公の響子の画があって、吹き出しのなかに「ワン!」って書いてあるような。あるいは初稿ではモノローグがいっぱいあるんですが、それも漫画における吹き出しではない地の文で表現されるモノローグみたいに読めて。そういう画の繋がりをイメージしてしまったので、この内容だと漫画のほうがフィットしてて、この軽さで実写はもつのだろうかというのが、最初の正直な印象でした。

――『イヌミチ』の響子という登場人物は、『UNLOVED』の光子や『接吻』の京子のような、現状に甘んじることを苦とも何とも思っていないような人々——本当は内に葛藤を秘めながらそれを平然と抑圧している人々でもあるのですが——と異なり、自分をとりまく環境への疲れや飽きをそのままに出している人物であるように思えます。

©2013 THE FILM SCHOOL OF TOKYO

万田『UNLOVED』や『接吻』は僕の妻(万田珠実)が脚本を書いていて、光子や京子は基本的に世の中とか社会、その社会というのはいわゆる男社会だと思うんですが、それに対し生きづらい気持ちを持っている。そういう不満を持った人たちに何かさせるとどうなるかっていう映画だったわけですが、『イヌミチ』の響子にはそういう不満はきっとない。彼女にあるのは、とにかく仕事が大変、めんどくさい、疲れたというくらい。たぶんそれじゃないかと思うんですよね、僕が最初に感じた軽さというのはね。 ただそれは今の若い人、響子くらいの人たちが現実に抱えている気持ちであり、脚本の伊藤さんもほぼ同じ年代で、そういう気持ちを脚本にぶつけていたってことでしょう。それまで僕が撮った映画、妻が書いた脚本のなかの女性っていうのは、物語の世界ではあり得る人なんだけど、現実にはいない人たち。「こんな人いないでしょ、今」みたいな。だから基本的に女性には嫌われる映画を作っていたんですけども(笑)、『イヌミチ』の響子は「あ、こういう人いる、今」っていう人で、じゃあそれはやっぱり映画にしなきゃいけない、そこを映画にすることが『イヌミチ』を映画にするってことなのかなと。

――中心的な舞台である日本家屋は、ともすれば密室劇となるこの映画に空間的な広がりを生み出している大きな要素ですね。

万田もともとの脚本での西森の部屋のイメージは、はある種のリアリティにのっとって、あるマンションなりアパートなりのワンルーム、あるいは部屋がふたつくらいある程度のものでした。ただ撮影のことを考えると、今回はフィクション・コースの学生たちを使ったカリキュラムのなかで映画をつくるということでしたので、あまり狭いと必要なスタッフ以外は中に入れない。そういう状況は避けたいと思い、だからちょっとリアリティを外しても、もっと広い場所を想定できないかと。そうしたら制作部がこの日本家屋を見つけてきてくれて、すごくいいお家だったわけです。ロケハンに行くと、部屋がいっぱいあってそれぞれの部屋が面白い。洋間もあればキッチンもあり、畳の広い部屋もある。それぞれの部屋を廊下がつないでいる。そういった部屋と部屋をワンちゃん(響子)がウロウロする映画なんだなっていうイメージは、ロケハンのときに出ましたね。

この映画を初めて見るお客さんはもちろんその間取りは全然知らないわけで、画面が映る順番によって、この部屋の向こうにあの部屋があるのかとか、いま映ってるこの部屋はさっき映っていた部屋から廊下を曲がってこっちのところにあるのかとか、そういうことがイメージされる。今まで僕はそんなことあまり考えてなかったんですけど、『イヌミチ』では犬のふりをした響子があの廊下をトコトコって歩くところを撮ると、それが同時に部屋と部屋の繋がりを撮ることになる。『イヌミチ』であの家の間取りに混乱する人はあまりいないんじゃないかな。 ただ、きちんとした映画なら必ずそういうふうにできているわけですよ。小津(安二郎)の映画でもひとつの家の中では複雑に部屋が繋がっているわけですが、それらは必ず人が歩いてフレームアウトして、次フレームインして入ってくるみたいに撮られて、この家で生活している人たちはこういう動線でこういうふうに動いてますよ、それがこの人たちの日常ですよと、きちんとわからせるようにつくってある。『イヌミチ』もそんなことを試せたかなと、我ながらうまいことしたなとは思いましたね。

――この家は平屋ではなく階段があります。2階を使うという選択肢はなかったんでしょうか。『イヌミチ』は人の目線の高さで撮られたショットが中心で、そもそも監督は俯瞰という視点をあまり想定されないと伺いましたが、階段の上から響子を捉えたショットは、例外的な高さを有しているものでした。

万田2階はね、あまり人数が多いと床が危なかったんじゃないかな。だからそこを舞台にするということは最初の段階からなかったですね。 たまたま高所があればカメラを高いところへ持っていけるんですが、何にもない場所でそれをやるのは時間も予算もかかる。余裕があればイントレ立てたりクレーン使って撮ったこともありますけど、『イヌミチ』みたいな時間のない撮影だとそれはもういいやと。あの階段はロケハン行ったときに階段から撮れるな、撮りたいなって、それはもう決めてたんですが、実際に撮ろうとしたら本当に狭い階段でものすごく大変だった。ちょちょっと登ってささっと撮れるんじゃないかと思ってたんだけど(笑)。

©2013 THE FILM SCHOOL OF TOKYO

――『UNLOVED』も『接吻』も男性ふたりと女性ひとりの関係を映した映画でしたが、『イヌミチ』は男性と女性が一対一の関係をつくる映画です。そこに仲村トオルさんのような調停者がいないことは、作劇における大きな変化だったのではないでしょうか。

万田きっと『イヌミチ』のふたりの関係は、調停者を必要とまではしない関係だってことじゃないですかね。あのふたりをほっといても、非社会的、反社会的な方向に行ってしまいはしない。『接吻』ではやっぱり常識的な仲村さんみたいな人、「そんなことしちゃダメだよ」って言ってくれる人が必要で、そこにまたドラマが生まれてきたわけですが、でも『イヌミチ』のふたりの関係は、言ってみればごっこ遊びなんで、勝手にやらせとけばっていうね(笑)。

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