「nobody」本誌にて好評連載中の小出豊監督に執筆頂いている映画時評「○○のすべてを○○するために」シリーズ。その特別篇として「nobody issue39」に掲載されたのが、万田邦敏監督『イヌミチ』の撮影現場ルポルタージュとして執筆された「世界のすべてを肯定するために/特別篇 映画監督は撮影までをどのように段取るのか――万田邦敏の場合から一」というテクストだった。
ひとりの若き映画作家が強く信頼し尊敬する年長の映画作家に向き合い、その演出作法に対する実践的な分析と批評的な読解を織り成した、まさしく「万田邦敏演出論」と呼ぶべきそのテクストに、その主題であり対象となった万田邦敏監督ご本人からの返信が届いた。本テクストは、小出監督の記したルポルタージュに万田監督による返信を重ね、新たな一片の対話的テクストとなるよう、再構成したものである。
(※小出豊監督によるテクスト全文は「nobody issue39」に掲載)
最初の撮影場所はキッチン。集合時間にお邪魔すると、既にスタッフは忙しく準備を始めている。と、しばらくして台本をもった万田がやってくる。その台本を覗くと、そこには書き込みが一切ない。なんとなく監督の仕事なのかと考えられている画コンテも字コンテもなく、事前に書かれた割り線もない。事前準備なしで現場に出向く。これが最近の万田のスタイル。
最近と断ったのは、彼は処女長編『UNLOVED』(02)まで、詳細な絵コンテを書いていたからだ。当時の彼の台本は他の人よりひとまわり大きなものだった。というのも、通常の台本にある余白部では絵コンテが収まりきらないので、台本を自ら拡大コピーして、そこに絵コンテを書き込んでいたからだ。 そんな当時の彼は、自分の頭の中だけでフレーミングやカット割りのすべてを事前に作って現場に挑んでいたそうだ。 がしかし、万田はそのことにつまらなさを抱えるようになったようだ。(小出)
と、ぼくはよく言っているのですが、これはどうも我ながら正確な表現ではないと思うようになりました。「つまらなさを抱えるようになった」というより、事前にカット割りを考えることに「面白さを見出さなくなった」ということかもしれません。一見、同じことのように聞こえますが、僕の気持ちとしては別のことのようです。自主映画を作り始めた当初は、カット割りが映画の演出だと思ってましたし、映画ファンが映画を作り出す時は、今も昔も誰しもカット割りがしたいから映画を作り始めるんだろうと思います。そういう気持ちのまま、自主映画を経て『極楽ゾンビ』から『UNLOVED』まで撮ったわけですが、結局、一度も自分で満足できるカット割り(編集)ができていないという敗北感があったんでしょうかね。全部が全部ではないですが、下手くそだなあ、と思ってしまったり。しかしそれはカット割りの問題だけではなく、芝居の問題でもあるということに気づいたんです。カット割りは芝居と連動しているのではないか、カット割りだけを独立して考えてはダメなんじゃないか、と思うようになったということでしょうか。それで、芝居の質も変わっていった、のかな。同時に西山洋一君(映画監督)が芝居について言及し出しましたし。つまり、カット割りより、芝居を撮るということの方に興味の対象が移った、それでカット割りに(カット割りだけに映画の面白さを追求することに)以前のような面白さを見出さなくなった、ということでしょうか。(万田)
そして真逆に翻り、何も準備せず当日現場で演出を考えるという方途を採用するようになった。映画監督の仕事は自分の思い描いたイメージをフィルムに定着することではない。さしてそのコントロールの秘儀を知らずに、自分のイメージばかりを押し付けるヌケのよさがない作品に少なからず触れたから、それもわかるのだが、かといって台本に書き込みがないまま現場に出向くのは、よっぽど勇気がいる。真逆に翻ってしまう彼にもっとも欠けている資質は中庸だと思う。(小出)
あるいは、単に事前にカット割りを考えることが面倒になった、というだけのことかもしれません。しかし、事前にカット割りを考えて撮った「夫婦刑事」シリーズを見直したりすると、これはこれで映画としてやっぱり面白いと思ったりもするし、事前にカット割りを考えなければできない映画の質(鈴木清順や加藤泰の面白さ)というものも確かにあるので、次回は芝居と連動したカット割りを事前に考えて現場に臨む、ということをやってみたいと思ったりもしています。(万田)
そんな万田が現場でまず行うのが、自ら動いてみること。役(/役者)の位置に立ち、役(/役者)の位置からいったい何が見えるのか、役(/役者)の位置からこの空間はどのように見えるのか、自分の体を使って探っている。後日万田に聞いたところによると、それを探る中で、どのように動いていくかという、動線のアイデアが見えてくるそうだ。監督が、役(/役者)を見る客観的な立場から、自ら役(/役者)の位置に立ち主観的に見るという視点の変換を導入して、演出を発見する手がかりにしているらしい。
映画を見る愉しみのひとつに、その物語人物に憑依して物語世界を生きることで自分自身という暗所から解き放たれる開放感を愉しむというものがあるが、それを映画制作の最中に体験し、暗所からの解放を企ているということだろうか。(小出)
この点は撮影後にも言いましたし、後に小出くんも触れてくれていますが、このやり方は、ぼくが映画を作り始めた頃から一貫して行っていたことで(というか、多くの演出者はそうしているんじゃないかと思うのですが)、できたら今回は、最近立教のワークショップで体験している方式でやってみたかったのです。それは、まず役者自身に動いてもらって、その動きがぼくに気づかせてくれるものを拾っていく、という方式です(ただしこれも多くの演出者がやっていることだと思います)。役(╱役者)が見ているものを、事前に直接ぼくが見る(見てしまう)のではなく、役(╱役者)の演技を通して、彼が見ているものを想像し、彼の目を通して現場を見直すこと、その上で芝居を膨らませていく(役の気持ちをつかみ直し、整理し直し、気持ちの流れを身体の動きとして構成し直す)やり方。立教のワークショップでは、監督も役者も学生が担当しているので、始めはぼくは何も言わずに、ただ彼らがやることを見ているのですが、そうすると彼らのどこが間違っているのか、どこをどう直せばもっと面白くなるのか、どこに芝居が膨らむ可能性があるのか、そういうことが見えてくるんです。学生が煮詰まってしまった頃合いを見計らって、ぼくが気づいたことを、直接ではなく、彼ら自身が思い付くような語りかけで誘導していくのですが、それはとても面白い体験で、今回も時間があればそういうことを実際の製作現場で試してみたかったところです。(万田)
動線というアウトラインを決めるなかで、その線を役者が無理なく動けるように練る。主なアイデアとして万田は頻繁に小道具を利用する。急に冷蔵庫を漁りだした万田は、見つけたケチャップを使って、それを食卓から冷蔵庫に返却する動線を作る。また、小棚を指さした万田は、この家の普段の食卓塩の置き場はそこだとやにわに措定して、使用後の塩を返却する動線を作る。そんな風にしながら、座っていた人物が立つ、または立っていた人物が座る、またはAからBへ歩くなど、次々に動線を引いていく。役(/役者)位置に入り見る、そして動線を探した万田は、この際とかく動いている。万田の演出へのアプローチは常に動きを通してなのだ。
ところで、演出に対して対照的なプライオリティーをもつ監督と先日話す機会があったので紹介する。この対照は万田演出を考えるいい補助線になるし、その監督の考えは演出そのものを考える上で重要な指摘でもある。
その監督とは西山洋市(註)だ。彼が演出を構築するためにまず行うのはホン読み。時間の許すかぎり幾度もホン読みを繰り返し、声のリズムや抑揚を作っていく。また、声はその発声の際の体の形を規定するものなので、声を作っていく中で自ずと体の形が決まってくるという。つまり、西山はまず、一歩も動かないところから演出を構築していくのだ。まず、自ら動いて動線を描くことから、演出を思考していく万田とは非常に対照的だ。(小出)
「まず、一歩も動かないところから演出を構築する」というのが、まさに上に書いた、今回ぼくが試したかったことです。ぼくはそこまでできたことがないので(せっかちなので、つい自分から動いてしまう)。しかし、西山君が本読みで探ろうとしていることのひとつが、声(発声?)と体の形の関係(連動?)だということは知りませんでした。毎度のことながら彼の発言は、ためになります。(万田)
ちなみにその西山が演出の際に大切にするもうひとつの要素が瞳の動きだ。彼はその瞳を動かすために瞳の対象物を動かす。つまり瞳の先にある相手の人物を動かすという。同じように瞳の動き、つまり視線を万田も重要視しているだろうが、そのプライオリティーは動くことよりも低く、万田ならば、まず人物を動かし、瞳の移動はそれに付随するものとなるだろう。(小出)
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これは成瀬でしょうかね。山中もそうなのかしら? 瞳の動きは、たしかにぼくはあまり考えていません。ブレッソン、トリュフォー、ゴダールの瞳の動きは大好きですが、西山君が言っているのは、ああいう瞳(視線?)の動きとは別のものですね。
芝居はアクションとリアクションの組み合わせ(連続)だと思いますが、ぼくの場合は、相手の瞳を動かすために瞳の対象物を動かす、のではなく、相手の身体を動かす(相手のリアクションを身体の動きとして導き出す)ために対象物を動かす(相手にアクションをしかける)、そういうことを考えています。身体の動きにこだわるのは、たまたま立教のそういう学科と関係を持ったからでもあるし、ドワイヨンの映画の身体(の動き)の不思議に、ある時期から感心(羨望)があったからです。 (万田)
段取りとは、シーン内での役者の動きを大まかに決め、カット割りとフレーミング、カメラポジションを決定した後、そのシーンをどのように効率よく撮影するか考えること。 その段取りの最初にすることが、先に引いた動線を俳優部に説明すること。台詞を発しながら動いてもらい、演出をさらに練っていく。ここで問題となるのが、動き出しや静止のタイミング。また、その際の姿勢や体や顔の向き。そして役者が肉体的にも生理的にも問題なくその動線を動けるかなどだ。
そこで万田が基礎としている考えは、気持ちの揺れを身体の揺れへと変換すること。実際に役者に動いてもらい、それを見ながら、登場人物の気持ちの揺れ、役者の気持ちの揺れ、シナリオ自体に潜在する揺れ、映画自体に潜在する揺れを発見し、それを動きに変換しているという。
万田が「気持ち」という言葉を発するのに驚く。10年前の彼は「気持ち」や「芝居」という言葉を口にしなかったように思う。カメラに映らない「気持ち」というものに頓着していなかったように思う。また「芝居」というものよりも、役者という人物がそこにあること、その人物が動いていること、その存在の核をフィルムに定着しようと試みていたように勝手に思う。(小出)
『UNLOVED』が立教の前田英樹教授や宇野邦一教授に受けたのも、その点なんでしょうね。いや、おふたりに限らず、ですかね。しかしぼく自身は、小出くんが指摘してくれたようなことは考えていなかったと思います。というか、そういう言葉では考えていなかった、と言った方がいいでしょうか。つまり、単にブレッソンと小津とストローブ=ユイレのような芝居と増村の芝居を合体させたかった、と考えていただけです。今はそういう無茶苦茶なことをしようとする気力が失せてしまいました。(万田)
揺れの発見とそれを動きに変換する作業を数回繰り返す。ここで苦労していたことは、変換された動きは、物語の登場人物にとっては無意識下の動きであるのに、役者にとっては有意識下での動きであるという齟齬。さらに、万田演出はその無意識下の動きが大きいので、(例えば半回転して相手に背を向けて、前に数歩動くとか)映画を始めたばかりの俳優部にとっては、どうして?という疑問が増大、ぎこちなさも大きくなっていく。人は常に意識して動くわけではない。人は自分と他人の距離を測定して、無意識の内に自分の立ち位置を変えることがあるのだが、万田は頭ごなしにそういうことがあると言い切ってしまうことなく、時間に追われつつも、どうやったら彼の体がその理不尽を受け入れられるのか、登場人物の気持ちや、小道具、あるいは自分がやってみせたりすることで、彼らを動かそうとしていた。
気持ちの揺れと動きの揺れを大まかに同期させた段階で俳優部が退去する。代わって、演出部がその動きを再現する。つまりスタンドインだ。スタンドインでの動きにあわせながら、監督がフレーミングとカット割りを発表する。確認のために演出部がそれを復唱する。監督の案を受けて、カメラの引きじり、機材、照明、撮影時間などを考慮し、そのプランがそもそも実現できるのか、さらにどのようにやればもっとも効率よく実現可能かをスタッフ間で検討し、撮影の順番が決められる。
このカット割りとフレーミングに時間がかかる監督がいる。芝居をつくるのと同時にフレーミングとカット割りを考えている万田とは違って、彼らは芝居は芝居で思考して、その後フレーミングやカット割りを考えるからなのかもしれない。ぼくにはフレーミングやカット割りなしに、独立して俳優部の動きを考えられることが不思議で仕方ないが、監督によっては、カット割りやフレーミングはキャメラマン任せという方もいる。
万田の基本のカット割りは構図/逆構図。彼が言うにはイーストウッドがそうだし、カット割りを考えるのが楽だからだそうだ。たしかに万田作品は、構図/逆構図の切り返しが多い。万田自身も、物語が高まれば高まるほど構図/逆構図の切り返しで視線が交換されているという大嘘をつきたくなると語っていた。それはおそらくこういうことだと思う。そもそも構図/逆構図の切り返しを通して、交わっているかのように見えるふたりの視線は、その撮影段階まで遡ると、まずあるひとりの顔とその瞳を撮影し、次に今度はもうひとりの顔とその瞳を撮影する。そして撮影された瞳をもつ顔を一度適宜裁断し、それを同じように裁断されたもうひとつの顔と再接合することで、はじめて視線が交わったかのように見える錯覚だ。この視線の再組織化は、映画の大いなるフィクションだ。万田は映画の大いなるフィクションである構図/逆構図での視線の交換を、もうひとつの映画の大いなるフィクションである物語の沸点にぶつけ、映画というフィクションの強度を高めてみようとしているのだと思う。(小出)
なるほど、そういうことか、と思い当たります。「フィクションの強度」と言うと聞こえはいいのですが、つまりは「リアル」であることから逃避し(続け)ているのではないか、とも思えます。「フィクション礼賛」の気力も、また衰えているのか。(万田)
物語の沸点を切り返しで切りとるなんて、あまりに普通すぎるかもしれないと多くは怖気づくのだが、これこそ映画の王道だと構図/逆構図に入っていくのが万田邦敏だ。(小出)
(註) 西山洋市…映画監督、映画美学校フィクション科講師。作品に『ぬるぬる燗燗』『稲妻ルーシー』『INAZUMA 稲妻』『kasanegafuti』(『コラボ・モンスターズ!!』の一篇)など。共同脚本作品に『蜘蛛の瞳』(98、黒沢清監督)、塩田明彦監督作『月光の囁き』(99、塩田明彦監督)など。
1974 年生まれ。映画監督、映画批評誌「シネ砦」団員。 映画美学校フィクション・コース修了。万田邦敏監督に指事し、『接吻』(2008)ではスクリプターを担当したほか、同監督の短編 TVドラマ『県境』(2007)、『一日限りのデート』(08)では脚本も担当 。『お城が見える』で第 4 回 CO2 エキシビジョン・オープンコンペ部門優秀賞を受賞し、CO2 エキシビジョン助成作品にして初長編 『こんなに暗い夜』(2010) が大きな話題を集めた。同作はその後再編集されており、再上映の機会が待たれる。
文=小出豊+万田邦敏
撮影=鈴木淳哉 『イヌミチ』撮影現場にて