全編に渡り、キャメラポジションはあらかじめ佐藤監督、三宅さん、四宮さんの三者で了解があるようだが、俳優の演技との兼ね合いやら、その他諸々を考慮しつつ四宮さんが細かな修正を施し、最終決定し、監督の了承を得る。了承と言っても、監督はほぼ彼の選択にOKを出すだけだ。四宮さんにとても信頼を寄せているのがわかる。カットを変えるには、当然キャメラを動かし、照明も動かす。こちらから見ていると、何より四宮さんの照明作りの的確さと手際良さに感心させられる。夜のシーンがないこの作品。だが日程上、陽が暮れて以降も撮影は続けられる必要がある。そこで重要となるのが、もちろん照明だ。太陽と入れ替わりに四宮さんの作業は増えてゆく。

 そして見ていて新鮮だったのは、佐藤監督が俳優に対して細かく演出を施していくことである。監督自ら手本として台詞を読み、指示を与えてゆく。『シャーリー』のときにはもっと段取りとしてテンポよく撮影していた印象が強かったのだが、ここでは俳優のテンションの高さやリズム感、動き方など納得するまで粘る姿が見られる。助監督の三宅さんに後々聞くと今回のテーマとして、そこは時間がかかってもこだわってやっていこうという話があったとのこと。
 佐藤監督が役者さんたちに投げかける言葉はもちろん様々。だが今回もっとも特徴的だった指示は「抜けを良く」やら「もっと軽く」などの類いだったと思われる。監督本人も仰っていたが、やっぱりこの作品は明白に「コメディ」なのだ。だからこそ役者さんたちへの指示がより必要となるし、役者さんたちにとっても難しさが生まれる。なぜなら「軽さ」というやつほど演技にとって難しいものだ。
 また役者さんたちに、台詞と身振りとを明確に分けるようたびたび指示が出されていた。これは実際のシーンではなくひとつの例だが、たとえばある男と女が同じ方角を向きながら前後に並んでいる。そこで男が後ろを振り向き、彼女の頭をコツンとやる。「心配するなよ。俺は死なねえよ、馬鹿野郎」と言う場面があるとする。そのときこの現場で用いられる演出は、台詞を言った後に、後ろを振り向きコツンとやる方法だ。台詞を言いながらではなく、台詞と身振りを分ける。この指示は、素人目には一瞬「なぜ?」と写る。監督に伺うと「台詞が流れてしまうから」とのこと。たしかに。それを意識してその後の役者さんたちの演技を見ると、はたと膝を打つ。言葉と身振りをコンビネーションで同時に繰り出すのは、実際、役者さんにとってかなり難しいことなのだ。すぐに互いが互いを相殺してしまい、演技がぐだっとなってしまう。こちらの素人考えは、やはりあくまでも素人考えなのだった。
 だがもうひとつ、この指示には効果があるように思えた。つまり、よりフィクション度を高めることだ。というのも、まず「軽さ」とは、この作品に限らず佐藤監督のキモのひとつだろうし(『シャーリー』でもそれはわかるはずだ)、どうやらそれこそが、彼の指向する「フィクション」へと繋がるように思われるのだ。いや、なにも佐藤監督そのひとが嘘に塗れた軽薄な人物だと言いたいのではない。重要なのは軽さばかりか、同時に、軽さをどのように支え、どのように持続させるか、その決意と方法論なわけで、その意味で佐藤監督は詐欺師というより軽業師に近い。

 たとえコメディでなくとも、ある作品に軽さを導入することで、そのフィクションの純度を高め、どこかへ突き抜けること(どこかとは、果たしてどこか?)。物語、役者さんたちの演技、カット割など、すべてがそこに関わってくるだろう。と同時に、これは、どのように現場(の雰囲気)を作るかという、その点にも関わると思われる。スタッフ&キャスト全員が、軽さを支え、持続させるべく働くのだ。たとえば、疲れた身体を軽くさせるためにスタッフたちが発していた、あのキテレツな裏声は、その一例として存在していたはずなのだ。何のことかと耳を疑った、あの男たちの裏声は、実のところ周到な戦略として機能していたわけだ。それによって、重く澱みにはまりそうだった場が、ふっとその軽さを取り戻す。彼ら自身も軽さを取り戻す。それはフィクショナルな軽さかもしれないけれど、でもだからこそ、彼らはそれを支えようと手足頭を動かす。そこに悲愴感はない。単にガッチリ支えられた軽さがある。ゆえに、わたしたち邪魔者も邪魔者としてそれなりに軽さの支えに協力できたのではないかと、ふとそう思うのは傲慢というものか。

 こうした「軽さ」がいかに画面に映し出され、作品に刻み込まれているか。11月7日の上映をぜひ楽しみにお待ちいただければと思う。

『葉子の結婚』

監督:長島良江、佐藤央、小出豊、粟津慶子、矢部真弓、万田邦敏
2009年/約90分/DV/カラー
日曜日の葉子の結婚式まであと6日。式に出席する人々の、月曜日から土曜日までを6人の監督たちが描くオムニバス映画。

写真=鈴木淳哉