Photo © Marc Ulrich
この種の映画には、あるいはビデオには、定義などいらないのだと私はいいたい。見ればわかるからである。
それにもかかわらず、これもまたひとつの映画のあり方なのだと、ひとつのビデオのあり方なのだということはできる。映像と音響をもちいてまったく自由な表現をおこなっているからである。
まずなにより神聖不可侵の古代ローマに囚われていないという意味で、自由である。伝統的なルールを重んじて、何らかの物語を語る必要はない。つまり、主語-動詞-補語というふうに文章を組み立てて、架空の物語を信じさせる必要などもはやないわけである。
またタブーとされる主題に囚われていないという意味でも、自由である。文化や美学、政治、社会、性など、どのような領域でもタブーを気にしない。個人的な問題を扱うこともある。過去・現在・未来、どの時代においても自由でありつづける。
つまり、創造を呼び込む源泉は無限に開かれている。
ドミニク・ノゲーズは言っている。「操縦席に居座っているのは形式である」。
映画やビデオの技術、あるいはマルチメディアの技術がこれを可能にした。したがって、世界中でもう何年も前からつくられている「異色な」作品の多様性を見るだけで十分である。見るだけで、納得できるはずだ。
繰り返し使われてきた手法は捨ててしまおう。だいたい凡庸な方法なのだし、産業の側がつくる商業映画などたかがしれている。カメラはどの方向に動かしたってかまわない。映像がぼやけてもいいし、引きのばされたっていい。フレーミングも、トラヴェリングにも制約はない。多くの資金がつぎ込まれた映画には到底できない運動がある。時系列に沿って編集をおこなう必要などない。物語を語るために従属する必要などどこにもない。映画で小説をやろうなんてバカげている。もっとも自由な方法で表現せよ。つまりもっとも的確に作者の意図を伝えることが肝要である。
どのような形態であってもよい。上映時間の制約もない。
異色映画、実験映画、前衛映画、他の映画、インディペンデント映画、個人映画、それでも映画、新しい映画、アンダーグラウンド映画、独特な映画、創造の映画、芸術映画……。
呼び方はいくらでもある。途方もない豊かさが、映画やビデオの実践の多様性がこのような無数の呼称に現れている。
芸術映画、第7芸術といいたいのであれば、まさしくこれこそそれに値する!
興味深いことに、表象的でない絵画、抽象画やミニマル・アート、また音楽、彫刻、建築の分野においてもこの種の試みは社会的に認められているにもかかわらず、映画となるとその評価がぐっと下がってしまう。
しかしシネマトグラフによる「記録」が始まってから、芸術家は独創的な作品を作るために映画の技術を応用しはじめた。1920年代のことである。
ところがそれと同時に、産業の側も映画技術に手を出し、消費の対象として、資金回収のできる商品を作りはじめた。映画批評家ジャン=ルイ・ボリーは、巨大組織が生みだす製品を「マンモスのうんこ」といってのけた。
産業は多く、芸術は少ない。
われわれは「毎週土曜の夜に大通りの映画館で死んでいく映画とはおさらばする」ことを望む(マルグリット・デュラス、ドミニク・ノゲーズ、寺山修司、イエール国際映画祭、1975年)。
多くの映画作家やビデオ作家をはじめ、理論家や批評家、大学教授もこのような主題についてますます筆を費やすようになっている。彼らの書いたものを読まなくてはならない。 この種の映画を上映する施設も増えていく一方である。しかしまだまだ足りない。これらの作品を見に駆けつけることがぜひとも必要とされている。
※この文章は2001年12月4日~9日にかけて開催された「第3回パリ異色映画祭」に際して起草された。
Marcel Mazé, « Différent ! Vous avez dit “différent” ? », in la brochure du troisième Festival du Cinéma différent de Paris, 2001, pp. 1-2.
1940年生まれ。コレクティフ・ジューヌ・シネマ代表。2012年死去。