安井豊作:映画批評家/映画作家

安井豊改め安井豊作による初の映画批評集『シネ砦 炎上す』(以文社)が2011年12月7日に発売された。25年間にわたる全評論が掲載された本書。多くの映画監督や批評家、観客、あるいは映画とは別の分野の人々が、安井氏の文章に影響を受け、自らの活動の糧としてきたことは間違いない。もちろん「nobody」という雑誌もその例外ではない。またこの貴重な批評集の発売に合わせて、青山真治監督プロデュースによる安井豊作監督作で、法政大学学生会館をとらえたドキュメンタリー『Rocks Off(未完成版)』の上映も行われた。その際、同じく法政大学学生会館をとらえた『マリコ三十騎』の真利子哲也監督との対談も実現した。2012年しょっぱなで、安井豊作をめぐる小特集をお届けする。

安井豊作×真利子哲也 (司会:杉原永純)
2011年12月12日 @オーディトリウム渋谷

――いま皆さんには真利子哲也監督の『マリコ三十騎』(04)をご覧いただきました。真利子さんは当時2003年、法政大学の日本文学学科に在籍中にこの作品を撮られました。これから皆さんには安井豊作監督『Rocks Off』をご覧いただくわけですが、この2本を並べたのは、どちらも法政学館を画に収めているからです。まず安井さんから、初見のこの作品への感想を伺えればと思います。

安井実はもうちょっと「園子温」的なものを想像していたというか……。いまや若い人たちにとっては人気のある監督になってしまいましたけど、園子温監督も法政学館に出入りしていた時期があるんです。でも『俺は園子温だ!』(85)みたいな、「自己表現したいんだ」というパフォーマンス映画ばかり撮っていて、「やってもいいけど人に迷惑をかけないでね」と、そういうイメージがあった。ですが真利子くんの映画はちゃんと「場所」があって、ドン・キホーテ的にフンドシ一丁で走り回る。ましてや祖先が海賊であったという、血の問題として語っているので、ドン・キホーテ的闘いとしてはとてもよく健闘したなと思って見ていました。ひとつ質問で、最初と最後に粒子の粗い映像が出てきますが、あれは?

真利子8ミリですね。基本的に自分にとって重要だったのは「学館」というよりも8ミリなんです。当時、ちょうど2000年ぐらいからデジタルビデオをみんな買うようになって、その代わりにシングル8がなくなってしまったわけです。それと自分にとっての学生会館とがリンクしていて、どちらかというと「8ミリで撮った」「8ミリのことを題材にしたかった」という方が強かったんですね。

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『シネ砦 炎上す』を読んだ  黒岩幹子

私が初めて安井豊作さんが書いた文章を読んだのは二十歳の頃でした。最初に読んだのがどの文章だったのかは、この『シネ砦 炎上す』に収められた文章のどれかではあるでしょうが、憶えていません。よく憶えているのは、「あるものはある」という文章を読んだ時のことです。その頃、大学に通っていた私は、本書でも何度かその名前が出てくる梅本洋一さんのゼミを受講していました。そのゼミでは、「カイエ・デュ・シネマ」を創刊したアンドレ・バザン、そして彼のもとに集ったヌーヴェル・ヴァーグの作家たちが書いた批評を毎週ひとつずつ読むという授業をやっていて、毎回ふたりの学生が一緒にレジュメを用意してきて発表することになっていました。そこで私が発表を担当したのがジャック・リヴェットの「ホークスの天才」というハワード・ホークス論で、参考文献のひとつとして指定されたのがそのリヴェットの文章について書かれた「あるものはある」だったのです。レジュメを作るためにまず文章を一読した私は文字通り頭を抱えました。そして一緒に発表を担当することになった友人Sの目黒のアパートに丸二日泊まりこんで、ウンウン唸ったり奇声を発したり呆然としたりしながら、そこに何が書かれているのか理解しようとしました(当時使っていた掲載紙のコピーが手元に残っていたのですが、無節操に引かれたアンダーラインはともかく、余白を覆うように書きこまれた謎の円や矢印、“表象”“あるもの”といった単語の走り書きが不気味で、当時の困惑ぶりが窺い知れます)。結局どのようなレジュメを書き、発表の際に何を言ったのかはびっくりするほど憶えていないのですが、映画体験ならぬ映画批評体験と呼べるものがあるとすれば、私はそれをあの時の体験を抜きに語ることはできません。なぜならば、私はあの時初めて自分の言葉で映画というものはいったいどういったものなのかを真剣に考えようとしたのだと思うからです。もっと言えば、おそらく私はそれまで映画というものを、自分が見ている映画というものを疑ったことがなかったのです。

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『Rocks Off』安井豊作
天使は至る所に 田中竜輔

「彼は誰に話しかけているのでもなかった。私はなにも彼が私自身に話しかけなかったと言おうとしているのではない、そうではなくて、私ではない他の者、たぶんいっそう豊かで、いっそう広くて、そのうえいっそう特異な、ほとんどあまりに全般的な存在が彼に耳を傾けていたのだ、まるで彼の前では、かつて私だったものが異様にも《私たち》のうちに――共通の精神の現前であり一つに結ばれた力たる《私たち》のうちに目覚めたかのように。私は私より少し以上であり、少し以下であった。いずれにせよ、あらゆる人間より以上であった。この《私たち》のなかには、大地が、諸元素の力が、この空ではない一つの空があり、重みと静寂(おちつき)との感じがあり、そしてまたはっきりしない束縛の苦味もある。そうしたことすべてで彼の前の私はある、そして彼のほうはほとんどなにものであるとも見えないのだ」(モーリス・ブランショ、『最後の人』、豊崎光一訳)

わずかな照明の隙間を漂うように、黒づくめの服を身に纏ったその人は、長い髪を振り乱し、椅子を軋ませている。周囲に広がる闇は、あたかもその人の姿を溶け込ませているように見える。しかし私たちはその人自身の「顔」をはっきりと目にすることはない。その人によって弾かれるというよりは、叩かれ、あるいは撫でられることで、剥き出しにされた自らの機械仕掛けの身体を忙しそうに躍動させるピアノの音響が聴こえる。しかし私たちはその人自身の「声(言葉)」をはっきりと耳にすることはない。この「顔」と「声」を欠いた「背中の人」ははたして、「音楽を演奏している」のか、それとも「音楽に演奏されている」のか?

その人は、ファーストカットからただただそこに存在していて、何の前兆もなく音楽はすでにそこに生み出されている。その音楽を何かしらの出来事や事柄に接合する余裕は与えられない。その最初の一音から(しかしながらいったい「どの音」が「最初の一音」だと呼びうるのか?)、それに耳を傾ける私たちはどこまでも能動的な聴者であるほかない。ここに奏でられる音楽は、先行する一切の前提条件を、あるいは先在する一切の知を、記憶を、あたかも切り捨てるような、限りない肯定の響きを体現している。そこでは「沈黙もまた音楽である」などといった注釈など、当然不要だろう。  私たちは『Rocks Off』と名付けられたフィルムに映るその人に対峙する、あるいはそのイメージに対峙するどんな言葉を持っているだろうか。純然たる音楽家であり、演奏者であり、あるいはその空間の周囲を取り巻く破壊の象徴であり、まったき語り手であり、そしてひとりの歴史の証人である……云々。だが私自身がその姿に思い浮かべていたのは、マノエル・ド・オリヴェイラの『コロンブス 永遠の海』(07)のなかで、緑色の衣服を身に纏い、口元に薄い笑みを浮かべる、あの「天使」のことだった。その姿をキャメラの前に一切隠すことなく、しかし同じフレームの内部に併存する他の誰もそれに気づくこともなく、時空を超えて、つねに、至る所に偏在するあの「天使」の姿を、闇に溶け込むあの「顔」と「声」を欠いた演奏者の身振りに、垣間見ていたような気がするのだ。

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安井豊作(やすい・ほうさく)

1960年生まれ。映画評論家、プロデューサー。法政大学在学中に学生会館で映画上映企画「シアター・ゼロ」、音楽ライブ企画「ロックス・オフ」を組織。その後、アテネ・フランセ文化センターでプログラム・ディレクターをつとめるかたわら1986年から蓮實重彦責任編集の「リュミエール」で映画批評活動をはじめる。梅本洋一、稲川方人や現boid代表の樋口泰人らとともに「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」編集委員をつとめたあと、1997年から映画美学校の初代事務局長として、講師陣の青山真治、黒沢清、佐藤真、塩田明彦、篠崎誠、諏訪敦彦、高橋洋、万田邦敏など世界で活躍する監督・脚本家に影響を及ぼす。2006年から同校の講師として「シネ砦集団」を主宰し、機関誌「シネ砦」を発行。共著書に「ロスト・イン・アメリカ」(デジタル・ハリウッド、2000)「黒沢清の映画術」(新潮社、2006)など。黒沢清監督の『よろこびの渦巻』(92)、『大いなる幻影 Barren Illusion』(99)には俳優として出演している。2010年から「安井豊(やすい・ゆたか)」を現在の筆名にあらためる。