※映画『砂の影』は2月29日まで渋谷・ユーロスペースにて上映されている
登壇者:たむらまさき、筒井武文(映画監督)、越川道夫(『砂の影』プロデューサー)
筒井:たむらさんの今までの映画人生の流れをまとめてほしいと言われたのですが……恐ろしいことなんです。この膨大な作品歴を見てどう言えばいいのか。小川プロのドキュメンタリーから始まり、東陽一監督作品『日本妖怪伝 サトリ』で劇映画に出られた後は、何本もの劇映画、時おりドキュメンタリー的なものも撮られ続けて、現在に至っていらっしゃる。今日は最初に『空華koo-ghe』(オムニバス“短編 TAMPEN”のなかの1本)と『海流から遠く離れて』(青山真治監督)を観ていただいたので、この2作品のことからお伺いしていこうと思います。まず『空華koo-ghe』ですが、なぜ監督のいない映画を作ろうと思われたのでしょうか。
たむら:“短編 TAMPEN”は他に3つの作品があるんですけれども、私を含めた4人とその他の人たちが集まって呑んだときに、酔っぱらった雑談の中から出た話です。さしたる流れや考えがあってやったことではないんですが、やってみたらやってみたで面白かったですね。でも、監督いないと駄目だね(笑)。今はもうしません、ああいうことは。
筒井:『空華koo-ghe』の脚本は越川さんが書かれていらっしゃいますよね。
越川:女優の渡辺真起子さんから「短編をやるからちょっと書いてくれないか」って頼まれまして。そのときは詳しいことはまったく聞かないまま別れたんですけど、その後しばらくして「できた?」って電話がかかってきて、「あ、本当にやるんだ」と(笑)。それが監督がいない4本の作品を作るという企画だったんですね。
たむら:「やろうやろう」とは言ったものの、私は何をやったらいいかさっぱり浮かんでこなくて。で、「こりゃたむらに任せていたらどうしようもない」ってことで、『空華koo-ghe』に出ている渡辺真起子さんが頼んだのかな?
越川:そう、筒井さんの家であった忘年会で頼まれたんですよ(笑)。
たむら:しかもあのロケセットは筒井さん家。すごく荷物が多くて、勝手に片付けてしまったね。
筒井:あまりばらさないでください(笑)。でもあの古いマンションはこの夏取り壊しになるので、いい記念になりました。
越川:先ほどたむらさんは何をやったらいいか浮かばなかったとおっしゃいましたけど、その時渡辺真起子さんからは「たむらさんは、川上弘美の『蛇を踏む』のような話をやりたいんだよ」と言われましたね。
たむら:あの頃の川上弘美は好きだったんですよ。ただ実際に蛇を踏むわけにはいかないし。
越川:それで、夢なのか現実なのかわからないものがやりたいんだな、と勝手に理解して書いた記憶があります。
筒井:幽霊が出てくる話ですが、生きている人と死んでいる人をどうやって撮り分けるか、どこかで考えていらっしゃるのでしょうか。
たむら:あれは映画のお得意なところですからね。映画に出てくる人が全部生きているとは限らない。幽霊との共演関係はいくらでもありますから。生きてるのか死んでるのかわからない。劇中ではいないようないるような設定ですけれども。
筒井:監督がいないということは、端的に言うと演出する人がいない、ということですよね。役者が一見勝手に演じている感じはあるんですけれども、たむらさんは何をしているのか。たむらさんの撮り方を見ると、カット割りは確かにあるんですけれども、物語的に割り切れるものではないと感じたんですね。
たむら:『空華koo-ghe』ってのはないものをあるように見るってことだから、越川さんからいただいたあらすじを利用して、こういうことになってもいいんじゃないかな、と思ったんですよね。監督がいないのを幸いにそういうことをした、と。起承転結も曖昧で、変な作品になっていると思いますけれどもね。監督はいたんだけれども映っていただけですから(※青山真治が出演)。から始める必要を感じました。もしかしたらそれは、Hi8や8ミリで撮っていたことと関係があるかもしれない。ちょっとサイレントに近いからかなあ。
筒井:『空華koo-ghe』では監督がいないわけですから、ご自身でOKを出されていたと思うのですが、他のたむらさんが撮影された作品を見ていると、どちらかといえば、厳密にガチガチに絵コンテを決めてくる方より、どう撮るのかわからない監督と組むほうが面白いものを撮られているというイメージがあります。
たむら:どちらかというと(絵コンテを)決めてこない方が多いですね。監督とコラボ的に映像を生み出していくのはスリリングです。約1名がっちり決めて来た人がいましたけど(笑)、それはそれで仕方ない。その時は、私はオペレーターをやっていればいいわけですから。ただ私はオペレーターは好きじゃないし、そんなにうまくない。
筒井:オペレーターとは決められた通りにカメラを動かす人ですよね。
たむら:決められた通りにカメラを操作する名人ですね。日本ではそういうシステムはないですけれども、ハリウッドではあるそうです。
筒井:もう1本ご覧いただいたのは『海流から遠く離れて』ですね。これは何作もコラボレーションを続けておられる青山監督との作品で、横浜国立大学の紹介映画と言えばいいのでしょうかね。
たむら:僕もよくわからなかったんです。でもどうもそうらしい。非常にラフな台本はあったんですけど、それだけですね。絵コンテはありません。
筒井:ほとんどたむらさんに委ねられているということですよね。
たむら:うーん、しかし青山のことだからイメージはかなり決めてきてました。
筒井:研究棟のところでカメラが前進したり下がったり、人物の動きにあわせて動きますよね。ああいう動きはどのように決められるのですか?
たむら:青山がああいうふうにしたいと言ってくるわけですよ。青山はかっちり絵コンテを描いて、この通りに撮れということはしない。ここはこういうふうに見せたい、このように移動したい、という提案の仕方をするんですが、そこから先は自由です。こちらの考えが青山を超える場合と超えない場合があるんだけれども、たいていは超えているから、(作品が)できあがっているのではないでしょうか。
筒井:簡単に言うと、監督の持っていたイメージが、撮影でより遠くまでいくということですよね。
たむら:イメージを具体化するということになりますけれどもね。具体化というのは映像になるということですね。
筒井:たむらさんと他のキャメラマンとでは、そこの回路が違うのではないかな、と常々思っているんですが。
たむら:他のキャメラマンがどうなのかはわかりませんが……。言われた通りするのではなく、言われたことはそういうことだな、と私が思って具体化するわけでしょ? コンセプトを与えられて映像にするのが私ですよ。要するに、ここからこのくらいの高さで、レンズは何ミリにして、というふうに監督から言われたら私は拒否しちゃうかな。要するに言われて撮るだけならオペレーターでいいわけですから。そうじゃなくて、とりあえずは監督と撮影で何かを作って行くわけですよね。
筒井:一般のキャメラマンは監督のやりたいイメージを具現化する、という発想でいると思うんですけれども、たむらさんはそういうイメージではない気がするんですよね。
たむら:監督の想いか何かを映像にするのではなくて、私自身もそこに描きたいというものがあるんでしょうね。当たり前ですけれども、私はそれを映像にするんですよね。
越川:どちらかというと、音楽のセッションに近い関係ではあると思います。例えば監督があるフレーズを出すと、それをハプニングがあったりしながらも、ひとつの音楽として膨らまていく…。そのセッションをたむらまさきというキャメラマンも望んでいるように見えるんです。たむらさんって、関数のブラックボックスみたいな部分があって、真数をその箱に入れるとひとつ膨らんだ答えが出てくるようなところがある。それは、ある監督とたむらまさきというキャメラマンがいて、そのお互いが想像し得なかったもうひとつの映像が出てくるということなんじゃないかと思います。
筒井:監督との間に相互の刺激が生まれるということですね。
たむら:越川さんは難しい言い方をしてますけど、そうですね。映像、ショットを撮ることが重ねられてひとつのシーンになり、さらにはシーンが重ねられて映画になるんです。そのショットを撮るのが私。さっきも言ったように、監督がそのショットをかっちり決められるものではなくて、そのセッションを経て、高め合ったり、時には足を引っ張り合ったりすることもあるかもしれないけれども、あるショットが生まれてくる。そのショットから次のことが膨らんでくる。全部決められたショットだと膨らみようがないですよね。それでも成り立つことは成り立つんでしょうけれども、私はそれだとちっとも面白くない。予想を超えていきたいんですよね。
筒井:単純にコンテ主義だから駄目だ、というわけではないんですよね。
たむら:コンテがよければそれでいいということではなくて、コンテというのは、とても自由なもので、そこから映像が膨らんでいくんですよ。よしんばフレームに画を描いたとしてもそれはただの目安で、それをそのまま撮るというのはただのオペレーターでしょ。描きたいことの伝え方はいろいろあって、フレームに絵を描くこともそうですし、文字でもいいし、現場でいろいろ示して合ってもいいわけです。だからコンテは自由なものであって、縛るものではない。俳優を含めた全パートがそこからどういう発想をしていくか、その目安になるようなものだと思うんですけれどもね。
筒井:まったくない監督というのも困ってしまうわけですよね。
たむら:まったくないという監督はまずいないですよね。もしそうだとしたらその監督は撮れないわけで。撮っていくということは何かある、何かを示しているわけです。ただ時に、それがなかなか伝わってこないという人がいますけど…、コミュニケーションの問題だとは思いますね。