筒井:たむらさんはどうでしたか? 8ミリでやったことの面白さに関しては。
たむら:フィルムで撮るということはこういうことなんですね。最近は性能がいいビデオカメラがたくさんあるわけですけれども映画ではないですからね。私は映画を撮ったわけですからね、フィルムで。それだけです。電気カメラは映画ではないですからね。動く映像ではあるけれども。
筒井:要するに影ですからね。
たむら:影ですね。24コマで、その間には黒もあるわけですから。それが映画。で、フィルムで撮る。ビデオではそれができない。フィルムは粒子でできているんです。ビデオみたいにぴっちり並んだピクセルではない。今回も映画がやることをやっただけです。
筒井:先ほど観た『海流から遠く離れて』はビデオで撮られていますが……
たむら:あれは映画と言われてないですから。だってビデオで撮っているから映画ではないんです。映画のように撮っていますが、映画ではないです。
筒井:ちょっと意地悪な質問をしますよ。例えば今度劇映画に入ったとして、それをフィルムで撮る、あるいはビデオで撮るというときに、たむらさんの撮り方は具体的に変わってくるんですか?
たむら:映画をビデオでは撮らないでしょう。
筒井:最近はハイビジョン撮影が増えて困ったもんなんですけど……
たむら:やりたい人はやればいい。私はやらないですね。映画を撮るのであれば、オファーが来ても断るでしょうね。今の24Pは大きいだけで非常に扱いづらいから、まあ、当面は使いません。もうちょっと言うとね、24Pで撮ったとしたら24コマになりますよね。でも、その1コマはフィルムで撮った1コマとは違うんですね。映画のコマには流れやぶれがありますから。
筒井:1コマに時間が映っているわけですよね、ぶれも含めて。
たむら:コマが連なっていったときに出てくるものは違うと思いますね。試しに同じものをハイビジョンとフィルムで撮って比べたら、違いがはっきり出てくると思いますが。
筒井:たむらさんって、どんどん超自然体になっているようなイメージがあるので、たぶん技術の差なんて問題ではないのだと思ってしまうのですが、やはり技術的にもすごくこだわられていらっしゃるんですね。
たむら:フィルムには情が映りますからね。ビデオはただ写るだけです。
筒井:『砂の影』もビデオでは絶対こういう表現にはならないですもんね。
たむら:多分ならないですね。もし(ビデオで)撮ったらきっとぎょっとしますね。表現範囲が狭いですからね、ビデオは。物理的に写るだけなんです。悪口言ってますけど、ビデオだって扱いようによってはなるときはなるんですけど。
越川:今回の8ミリフィルムは幅が小さいだけで、基本的に35ミリにもある種類のフィルムなんですけれども、映写をすると当然(8ミリのほうが)粒子が大きく出ますよね。そういう点も含めて、フィルムで撮るということについて、もちろん現場でもたくさん考えているわけですけれど、撮影が終わって完成した映画を観るたびにさらに多くのことを考えてしまいます。答えがあるわけではないんですが、妄想めいたことも含めて考えるわけです。それがこの映画を観る楽しさのひとつでもあるんです。粒子の話をすると、フィルムで撮った映画って“もの”なんだと思うんですよね。デジタルで撮ったものは情報なわけですけど、例えば、画面の中の粒子の動きをコントロールすることなんて誰もできないじゃないですか。それは、たむらさんであってもできない。たむらさんは、それを“化学だからだ”とおっしゃるわけなんですが、映画というものは“もの”なんだ、情報ではないんだということにすごく意識的になります。フィルムという“もの”と、そこに映っている影をどうつき合わせていくか、ということを、8ミリであるがゆえにより意識的に考えたり感じたりします。
たむら:見え方からして違うわけですよ。ビデオは通常はディスプレイで観ますよね。これは影でも何でもない。映画というのはどんなときでもスクリーンに映る影です。影というのは非常に儚い。でも、映画のない太古から、影に対して人が本来持っている反応があるはずなんです。観る人が想像するんですね。観せられるのではなく、観るんです。そこには観る人数ぶんだけの何かがあるんです。その違いじゃないですか? 二次元の影だけれども、三次元に想像しちゃうんですよ。そうやって観ているんですよ。映画は写真と違って時間もある。四次元まで想像しちゃうかもしれませんね。24回、黒と交互で映されていることの意味は。ビデオの場合はもっとベタに映されている。大きく違うんですね。ビデオが悪いのではないんです。本当の違いをちゃんと知って扱えばいいんです。
越川:昨日たむらさんと話していて思い出しましたけれども、映画美学校でフィリップ・ガレルが講演をやったときに印象的だったのが、「フィルムを手放してはならない。モノクロを手放してはならない。デジタルというのは経済の罠だ」と言っていたことなんですね。きれいに映る、ということに技術のすべてがいってしまっているんですけれども、それが本当に想像力を誘発するのか。それが本当に正しい映像なのかというと、実はそうではないんだと思うんです。デジタルとかクリアに向かうのは、言ってしまったらファシズムみたいなものであって、そういうことではないと思うんです。つまり、物が想像力を誘発するのであり、そこにリアル、つまり現実が生まれるということだと思うんです。確かに、僕らはき“きれいな映像”を宣伝するコマーシャルを毎日見ているわけですから、“きれいな映像”に対するファシズムに、自分もやられいているのが分かる。『砂の影』のラッシュを見た時も、8ミリですから撮影段階でも現像段階でもゴミやキズがつくわけだし、カメラも小さくフィルム走行も不安定だからフレームが揺れたりする。そうすると「あ、これはきれいにしなきゃいけないのか。直さなきゃいけないのか」と一瞬思いますよ(笑)。でも、それは僕がクリアな映像に毒されているんだと思い直すわけです。映画というものはフィルムに映る“もの”であるのだから、その“もの”=オブジェをよく見ていくべきであって、単にきれいにしたり、揺れを直すということではない、と思い直す。そうすると、ゴミがあることもハレーションを起こしていることも、ひとつの表現として映画が取り込んでいくんですよ。映画って、偶然に起こること、“もの”が引き起こしてしまう偶然を、ウワバミのように飲み込んでいくタフな表現なんだな、と思いました。もちろんフィルムを妄信するということではありません。ただ、8ミリでやる、フィルムでやるということは、単にデジタルに対してアナログを対峙させるということではないということです。
たむら:「きれいな映像とは何なの?」ということなんですよね。きれいとはどういうことなのか。じゃあ今は汚いのかといったら、そうじゃないですよね。そのことをちゃんとわきまえないと。きれいというのはかなりやばいことですから。(了)
2008年1月22日、映画美学校にて
協力:スローラーナー