第1回 ディアゴナルと「1970年代フランス映画」(上)

『女たち、女たち』からのディアゴナル誕生

ジャン=クロード・ビエットとポール・ヴェッキアリ

1976年9月、フランスの映画監督ポール・ヴェッキアリ(Paul Vecchiali)はその3年前、作家アルベール・カミュに関するドキュメンタリーを共同製作したセシル・クレルバル(Cécile Clairval)とともに新たな映画会社を立ち上げる。「ディアゴナル(Diagonale)」、すなわち「対角線」と名づけられたこの会社は、以後約10年の間に『マシーン』(La Machine、1977)、『身体から心へ』(Corps à cœur、1978)、『階段の上へ』(En haut des marches、1983)、『薔薇のようなローザ』(Rosa la rose, fille publique、1985)、『ワンス・モア』(Once More/Encore、1988)といったヴェッキアリの諸作品、及び、彼の許に集まった若い批評家たちの長編監督デビュー作、例えば、ジャン=クロード・ビエット(Jean-Claude Biette)の『物質の演劇』(Le Théâtre des matières、1977)、ジャン=クロード・ギゲ(Jean-Claude Guiguet)の『美しい物腰』(Les Belles manières、1978)、マリー=クロード・トレユー(Marie-Claude Treilhou)の『シモーヌ・バルベス、あるいは淑徳』(Simone Barbès ou la vertu、1979)、ジェラール・フロ=クターズ(Gérard Frot-Coutaz)の『晴れのち夕方は荒れ模様』(Beau temps mais orageux en fin de journée、1986)などを世に送り出した。

商業映画はもちろん「作家の映画」も含め、監督自身が自分や他人の作品の製作者を兼ねるケースが歴史的に極めて稀なフランスにおいて、1930年生まれ、すなわちヌーヴェル・ヴァーグ世代のヴェッキアリは、活動の初期から現在に到るまで一貫してインデペンデントな映画作りを目指してきた。その最初の試みは1963年、まだ長編と短編を一本ずつ監督しただけという経歴ながら、ヴェッキアリは「Les Films de Gion」を設立する。「Gion」はフランス語で「ジオン」と発音されるが、言うまでもなく「祇園」を指す。溝口健二を敬愛し、『山椒大夫』(1954)を世界一美しい映画と呼ぶフランス人監督らしい会社名であった。「祇園映画」は短命に終わるが、ヴェッキアリが「糞ったれだが、友達だった」と語るジャン・ユスターシュの初期作品、『わるい仲間』(Les Mauvaises fréquentations、1963)と『サンタクロースの眼は青い』(Le Père Noël a les yeux bleus、1966)という2本の中編を製作したことで、フランス映画史にその名を刻んだ。

1970年には、ギイ・カヴァニャック(Guy Cavagnac)とリリアーヌ・ドゥ・ケルマデック(Liliane de Kermadec)とともに「ユニテ・トワ(Unité Trois)」を興した。シャンタル・アケルマンの『ジャンヌ・ディールマン』(1975)にも協力したユニテ・トワは、ヴェッキアリ作品としては『絞殺魔』(L’Étrangleur、1970)や『女たち、女たち』(Femmes Femmes、1974)、『手を変えるな』(Change pas de main、1975)を製作している。なかでも『女たち、女たち』が、後のディアゴナル成立の発端となる。ヴェネツィア映画祭で上映された際パゾリーニによって激賞されたにもかかわらず、パリで封切られた当初それほど話題にならなかった『女たち、女たち』は、次第に少数だが熱狂的な支持者を獲得していく。カルト映画、あるいは、ジャン=クロード・ビエットの言葉を借りれば「秘かな古典」と見なされるようになった。

映画界では監督として、あるいは「カイエ・デュ・シネマ」などの批評家として知られ、一部からはポリテクニシアンのシネフィルとして畏れられていたヴェッキアリだが、『女たち、女たち』の公開を機に、その周囲には映画に関する共通の趣味で結ばれた共同体が形成されていく。パリ郊外クレムラン・ビセットルの自宅に集まった10歳以上若い仲間たちの前で、彼は自作や自分の愛する映画のシークエンスを上映し、細部に到るまで分析してみせたという。そこで繰り広げられた議論は情熱的かつ真摯なものだった。「立っていても眠くなるまで映画を語り、映画を貪るように見て、映画に恋焦がれたのでした」とマリー=クロード・トレユーは当時を回想する(註1)

こうした熱気にディアゴナルは実際の映画という形を与えた。もともとは、『女たち、女たち』の製作段階で他の二人のプロデューサーと対立したヴェッキアリが自分の映画を撮るために立ち上げたディアゴナルだが、彼を慕う仲間たちが自作を撮ろうとした時に、見ず知らずの人物ではなく、ヴェッキアリにプロデュースを頼んだのは自然な流れだった。彼自身「自分ほど理想的なプロデューサーはいなかった」と誇らしげに語る。演出に口出しすることは避け、撮影現場を訪れることも極力控えたというヴェッキアリだが、その一方で、編集についてはほとんどのディアゴナル映画で関わっている。「ヴェッキアリが編集するとヴェッキアリの映画になってしまう」と恐れたビエットは、『物質の演劇』と『マンハッタンから遠く離れて』(Loin de Manhattan、1980)というディアゴナル製作の2本──もっとも、後者はパオロ・ブランコの要請でヴェッキアリが製作総指揮を引き受けたもので、ビエット自身はディアゴナルの映画と認めていない──でも、編集権を彼には譲らなかった。いずれにせよ、ヴェッキアリがプロデューサーとして監督の無理な要求にもできる限り対応したのは事実で、例えば、『シモーヌ・バルベス』撮影時に監督のトレユーが、用意されたルノーの車ではなくどうしてもボルボの車が欲しい──Volvoとvulve(外陰)という言葉遊びが目的だったらしい──と主張した際には、苦労して望み通りの北欧車を調達したのだった。

ディアゴナルは「節約こそスタイル」をモットーとしていた。ヴェッキアリにとっては「1930年代フランス映画」をやり直すためだったが、ビエットはそこに1950年代アメリカB級映画を再現する可能性を見出した。低予算ゆえ興行成績をあまり気にせず、またプロデューサーの干渉に妨げられることなく、監督たちは思い通りの映画を撮ることができた。その自由は、限られた条件で映画を仕上げるディアゴナルの諸々のノウハウに支えられていた。時間的・経済的な節約に関して、クレムラン・ビセットルのヴェッキアリ宅が果たした役割も大きかった。そこでは映画談義だけでなく、次回作の企画や撮影の打ち合わせといった事務的な会議も行われた。また、ヴェッキアリ自身の作品のうち何本かは、自宅やその近所で撮影されている。彼の評伝を書いたマチュー・オルレアンの表現を借りれば、自宅で撮影したのがカサヴェテスならば、ヴェッキアリはスタジオのなかで暮らしていたのだった(註2)。パリ中心部から47番線のバスで30分足らずのクレムラン・ビセットルは、何の変哲もないありふれた郊外にすぎない。しかし、当時のディアゴナルのメンバーにとっては映画の夢が即現実化へ動き出す魔法の場所だった。

歴史的に見れば、1950年代後半から60年代のヌーヴェル・ヴァーグによって一般化された映画的実践を、さらに純粋かつ過激に推し進めたのが1970年代のディアゴナルだったと言える。すなわち、批評活動の延長として映画を撮り始めたという点では同じだが、ディアゴナルの場合は、DIY的な徹底した自主製作によって、私的な映画談義を直接実創作に反映させたり、時には批評的言説が映画そのものとして展開されたりするような作品を生み出したのだった。この点については後でもう一度説明する。

【註】

  • 1 Marie-Claude Treilhou, «Par la petite porte en diagonale», catalogue du festival international de Belfort 2006, p.62.
  • 2 Matthieu Orléan, Paul Vecchiali, la maison cinéma, Montreuil, Éditions de l'Œil, 2011,p.84.

←前へ | 次へ→

最初 | 1 | 2