3. 大人のメロドラマ、あるいはファスビンダー

フランスの映画研究者ジュヌヴィエーヴ・セリエはフェミニズム批評の立場からヌーヴェル・ヴァーグを分析した『ヌーヴェル・ヴァーグ──男性単数の映画』のなかで、彼らの映画、そのメインストリームを、19世紀文学から受け継がれた、芸術性を男性性と同一視するイデオロギーに依拠した男性(異性愛者)たちの映画と定義した(註2)。良家の出身で裕福、かつ学歴も比較的高かった彼らだが、女性には奥手だったり、自分の容姿に自信がなかったりした(だからこそ彼らは、当時最高の二枚目アラン・ドロンではなく、先に挙げた決して男前とは言えない男優たちを分身として起用した、とセリエは容赦ない。ちなみに、ヴェッキアリはドロンとの企画を提案し、彼も関心を示したが実現しなかった)。

セリエは、戦後のウーマン・リブに脅威を感じた男性たちによる対抗としてヌーヴェル・ヴァーグを位置づけ、その作品にミソジニー(シャブロル)──前掲書では触れられていないが、これは1960年代後半から70年代の作品では、ステファーヌ・オードランが体現する恐怖として表現される──、謎めいた女性という理想化(トリュフォー)、幼稚化や少女化(ゴダールやリヴェット)──二人の作家性を尊重すれば「リリアン・ギッシュ化」、あるいは「ジャンヌ・ダルク化」とも言えるだろうか──を読み取っている。等身大の、仕事を持つ知的な女性は影が薄い、あるいは単に存在しない。『恋人たち』(1958、ルイ・マル監督)で「大人の女性」を演じていたジャンヌ・モローは、『突然炎のごとく』(1962、フランソワ・トリュフォー監督)では「女の子」に変貌する。一方、中産階級以下の女性たちにとって革命的アイドルとなったブリジット・バルドーは、ゴダールの「芸術映画」『軽蔑』(1963)で、芸術は男性の職分だとするイデオロギーを強調する役回りを演じさせられる。このような見方には異論もあろうが、映画史上最も有名な革新運動を興したのが保守的な男性だったという視点は興味深い。

ヌーヴェル・ヴァーグという「男の子の映画」に対し、ヴェッキアリをはじめ監督の多くが同性愛者だったと思われるディアゴナルは(註3)、端的に「大人の映画」であり、年齢を重ねた女性たちの夢や希望、苦悩や絶望にことさら敏感だった。『女たち、女たち』のエレーヌ・シュルジェールやソニア・サヴィアンジュ、彼女たちが他のディアゴナル作品で演じた役柄、あるいは『美しい物腰』のエマニュエル・ルモワンヌのように、無垢な純粋さを感じさせる大人の人物は登場するが、本当の意味での若々しさを感じさせる人間はあまり出てこない。少年や少女に到っては文字通り居場所がない。ヴェッキアリの『マシーン』(1977)は例外とも言えるが、そこでは少女がペドフィリーの犯人によって暴行されたうえ、惨殺されるのだった……。

『女たち、女たち』ポール・ヴェッキアリ

『身体から心へ』ポール・ヴェッキアリ


もう一つ、ヌーヴェル・ヴァーグとの違いとして、ディアゴナル映画のメロドラマ性が挙げられる。パリのシネマテークでは今年(2016年)、フランスのメロドラマ映画の特集が組まれた。その一環として、ゴダールの『女と男のいる舗道』(1962)やトリュフォーの『隣の女』(1981)が上映されたものの、プログラム責任者で批評家のジャン=フランソワ・ロジェは「[ヌーヴェル・ヴァーグの]異化や脱構築は、感情の表現とはおそらく根本的に対立する」と語っている(註4)。件の特集ではヴェッキアリの『身体から心へ』と『薔薇のようなローザ』(1985)が選ばれたが、ディアゴナル映画のほとんどすべては、ジャンル的にはメロドラマ、少なくともその要素を多分に含んでいる。

ところで、ヌーヴェル・ヴァーグ以後のメロドラマ映画作家として真っ先に思い出される人物と言えば、ドイツのライナー・ヴェルナー・ファスビンダーであろう。ほぼ同時期に撮られた彼の映画とディアゴナルの諸作品の間には、実はメロドラマ性以外にも興味深い共通点が幾つも見られる。例えば、同性愛者の視線、固定した俳優・スタッフによる早撮り──例えば、二本の映画を同時に撮影する試み。ファスビンダー・チームは『シナのルーレット』とウリ・ロンメル監督『アドルフとマレーネ』(ともに1976年)、ディアゴナルではヴェッキアリの『マシーン』とビエットの『物質の演劇』(ともに1977年)──、年老いた、あるいは「美しくない」俳優=人物たちの魅力(二人の看板女優として一方にハンナ・シグラ/マルギット・カルステンセン、他方にエレーヌ・シュジェール/ソニア・サヴィアンジュ。常連脇役のハルク・ボームとノエル・シムソロは、容姿も役どころも似ている)、往年のスターの起用、過去のメロドラマ映画の批判的読み換え(ファスビンダーにとってのダグラス・サーク、ヴェッキアリとギゲにとってのグレミヨン)、演劇性、ポルノ的側面……。

ディアゴナルのメンバーのなかでビエットとギゲは批評家としてファスビンダーを高く評価していたが、ヴェッキアリだけは冷淡だった。1980年代に彼らと、或るフランスの地方で開かれた映画祭に同行したピエール・レオンによれば、他のメンバーがファスビンダーについて語るのをヴェッキアリは苦々しく聞いていたという。筆者自身が立ち会った新作上映会でも、観客から「フランスのファスビンダー」と呼ばれることについてどう思うか尋ねられた際、ヴェッキアリは15歳年下のドイツ人監督の作品を「閉じている」と評し、それに対して自作は「開かれている」と優位性を強調した。しかし、例えば『ペトラ・フォン・カントの苦い涙』(1972)は、同様に女性たちの室内劇と言える『女たち、女たち』のように、閉じられているがゆえに開かれているのではないか。同族嫌悪? あるいは、「フランスのファスビンダー」ではなく、「ドイツのヴェッキアリ」だろうと言いたかったのかもしれない。

【註】

  • 2. Geneviève Sellier,La Nouvelle Vague. Un cinéma au masculin singulier, Éditions du CNRS, 2005.
  • 3. もっとも、ヴェッキアリの幾つかの作品を除いては、同性愛がセックスのような形で明示的に描かれることはむしろ少ない。
  • 4. http://www.cinematheque.fr/cycle/le-melodrame-francais-340.html

新田孝行(にった・たかゆき)

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