――最新作の「Tonnerre」はどういった作品なのでしょうか?
GB前半は喜劇のような楽しげな展開ですが、後半に入ると急に推理小説のように暗い展開に移っていくような筋の作品になりました。ヴァンサン・マケーニュの父親役を、ジャック・ロジエの作品に出ていたベルナール・メネズに演じてもらっています。彼は観客たちに感動を与えることができる役者ですよね。この作品は、男女の熱い情熱の話でもあるのですが、一方で父と息子の関係もひとつの大きなテーマとなっていて、シナリオを書くために共同脚本のエレーヌと私は小津安二郎の作品をたくさん見ました。小津の『晩春』(49)と『麦秋』(51)は本当に素晴らしい作品です。現代の日本の映画では、諏訪敦彦監督の作品が私は好きですよ。フランス映画祭での上映後のセッションで、『女っ気なし』のシルヴァンの姿はとても日本的なものを感じさせるという方がいましたが、「Tonnerre」にも、もしかするとまた日本的な何かが映っているのかもしれません。
――以前、ギヨーム監督はカイエ・デュ・シネマ誌上で、ヤン・ゴンザレスなどと共に若い世代の才能ある映画作家として取り上げられていました。現在のフランスでの若手の中で注目している監督などはいますか?
『遭難者』© Année Zéro - Kazak Productions
GB残念ながらヤン・ゴンザレスの作品はまだ見たことがないんですが、あのカイエ・デュ・シネマの特集で取り上げられていた監督の中では、私はジュスティーヌ・トリエ(Justine Triet)が好きです。今年のカンヌで上映された『La Bataille de Solférino(ソルフェリーノの戦い)』(13)はまだ見ていませんが、彼女が撮った中篇は本当に素晴らしいですよ。ただ、カイエで取り上げられている監督以外にも才能ある若手がたくさんいるので、私はそちらの方にも興味があります。
――ギヨーム監督は「アネ・ゼロ」(Année Zéro)という自身の製作会社で今回の2本の作品をつくっていますね。
GB『遭難者』も『女っ気なし』も、自分の会社があったからこそ撮ることができました。低予算で時間をかけずに、自分の好きなように撮れるという自由がありますからね。他の会社のプロデューサーがいたらこの映画は撮れなかったはずです。でも「Tonnerre」は自分たちの会社だけでお金を集めて撮るのがとても難しい規模の作品だったので、製作を自分でやることは諦めました。ただ、この会社は一種のセキュリティのようなものです。これがあることで、何か低予算で撮りたいと思ったときは、いつでも自分ひとりで撮ることができるわけですから。私はフェミスでは監督の勉強をしていたわけではなくて、製作分野の勉強をしていました。監督業はひとりで学んだようなものです。ただ、映画のどこにどれだけのお金が掛かるのかを知っていることは、やはりとても大切で、それを知っていることは映画製作をしていくうえでとても有利なことだと思っています。自分の映画をつくるために何年も待たされている映画監督たちはたくさんいますからね。たとえば、そのことを良く理解していたのがエリック・ロメールでした。彼は自身の製作会社を立ち上げて、低予算で定期的に自分の作品をつくっていました。ホン・サンスもそうです。
――最後に、もし「ヴァカンス映画」という形式があるとしたら、それはいったいどういったものだと思いますか?
『女っ気なし』© Année Zéro - Nonon Films - Emmanuelle Michaka
GB以前、私は学校で映画の授業を担当していたのですが、そこで私は生徒たちにまさに「ヴァカンス映画」というテーマで、さまざまな映画の一部を見せていました。たとえばロメールの『緑の光線』(86)、ジャック・ロジエの『アデュー・フィリピーヌ』(62)や『オルエットの方へ』(71)、それからジャン・ルノワールの『ピクニック』(36)やクロード・ゴレッタの『レースを編む女』というイザベル・ユペール主演の映画などです。ヴァカンスというのは、おそらく日常から抜け出る一瞬であって、その短いあいだに人々はとても濃い時間を過ごすことになります。映画はたいてい90分ですが、ヴァカンスと同じで、そういった特別な時間、日常から抜け出た非日常的な時間は、やはり普段の日常よりも面白いわけですよね。ヴァカンスでは、人は仕事のことなどを忘れて集中して楽しむことができますから。なので、ヴァカンスという題材は、映画には最適なもののひとつだと思っています。
取材・構成:高木佑介、増田景子
写真:鈴木淳哉(ポートレート)