ミシェル・ロンズダール、マルグリット・デュラス、
寺山修司、イエール国際映画祭、1975年。
――1971年に初めてイエールでプログラムを組んだときの反応はどうだった?
MMその話をしていいんだったら、また感動的なエピソードがある。モーリス・ペリセがどれだけぼくのことを信頼してくれていたかわかるエピソードだよ。ぼくが初日の上映に選んだのはジガ・ヴェルトフ集団の『ウラジミールとローザ』で、閉幕を飾ったのはマルグリット・デュラスが小説『ユダヤ人の家』をみずから映画化した『太陽は黄色』だった。映画祭側とは何の問題もなかったんだけど、イエール市のお偉いさん方にはクロージング・パーティがえらくスキャンダラスに映ったんだね。翌年からそこから20キロほど離れたトゥーロン市に映画祭は飛ばされてしまったんだよ! それでもデュラスはぼくらを信用してくれて、映画祭に何度も遊びに来てくれた。
イエール市にもう一度ぼくらが戻ることができるのは1977年のことで、社会党の議員が市長になったからだ。いずれにせよ、トゥーロンで開かれていた映画祭は刺激に満ちあふれていた。一般の観客はもちろんのこと、批評家、映画作家、配給業者、みんながこの映画祭を楽しんでいた。どの上映も活気にあふれんばかりだった。元気な観客たちが自分の意見を大声で叫ぶものだから、上映がさながら「新旧論争」の舞台となって、保守派と急進派とが対立して激しい議論が交わされていたものだ。社会のなかで何かが変わっていくのが感じ取れる、素晴らしい経験だった。モーリス・ペリセはもっと伝統的な映画を好んでいたにもかかわらず、この過激な雰囲気を鎮めて、観客に時代の流れを理解させるために映画祭の「別の映画」部門を続けることを死守してくれた。彼は二つの部門を映画祭のなかに設けることで問題を解決しようとし、ジャック・ロベールが「今日の映画」部門を担当するために選ばれ、ぼくは1983年に映画祭が終わるまで「明日の映画」部門を担当することになった。このぼくの部門が1974年から「異色映画」部門という名前で活動することになる。
モーリス・ペリセ、マルセル・マゼ、1983年。
(ここで、マルセルの話を聞きながら個人的に思ったことを書かせていただきたい。彼が「1983年度の最後の映画祭」の話をするとき、彼の声には感傷的というより、ほとんど悲痛ともいいうる響きがいつも感じられた。この点に関して、私は個人的な質問をしてみることにした。)
――1983年に映画祭が終わりを迎えたとき、お父さんが亡くなったときと同じようなショックを受けたのではないかしら? 突然終わっちゃったわけでしょ?
MMそういうふうに考えたことはなかったけど、そうかもしれないね。孤児にでもなったような気がしたのは確かだよ。そのときまですべてが刺激的で、何かがどんどん生まれていくような感覚をいつも抱いていた。素晴らしい作品をつくる世界中の映画作家に会っているうちに、こちらも自然と何かしたくなってくる。
70年代、80年代のインディペンデント映画作家の活躍はその後大きな影響を与えることになる。新しい世代の歴史家や大学教授、批評家が、イエールで上映されていた多様な作品に関心を示すようになったんだよ。ある意味では、思想家に影響を与えることにもなったし、芸術家についてもそれは言えることだ……。多くの人がこの種の映画を理論化しようとして文章を書き連ねはじめ、大学の授業で扱い、次の世代に伝えていこうとしてくれた。フランスではこのような種類の映画について何も論じられていなかったわけだから、すべてが未開拓で、イエールは実験映画を発見する大事な場所のひとつになっていったんだ。たしかに、かけがえのない喜びを感じながら、素晴らしい映画を上映し、映画作家や思想家と接してきたぼくの12年間は突然終わってしまった。家族がばらばらになってしまったような気持ちがしたのは嘘じゃない。立ち直るのに数年かかってしまったよ。
――映画祭が終わってから、CJCの活動はどうなっていったの? 保管していた作品もすでに多くなっていたんじゃない?
MMCJCとイエール映画祭での上映活動は本当に密接につながっていたから、CJCを運営し、イエール以外の場所でCJCに登録された映画を上映するために配給業者をみつけるのはそう簡単なことではなかった。それに、ぼくはそれまでやっていたみたいにCJCの映画作家を助けていくのは自分だけでは無理だと思っていた。それでCJCの映画を1982年に設立された組織ライトコーンに登録することにした。1989年から1998年まで、ほとんど10年間はそうやってライトコーンの協力を得ていたんだよ。
――でも、CJCはいまみたいにもう一度独立した組織になる……。
MMその話をするためには、1995年に遡らなくてはいけないね。1995年に、ジャン=マルク・マナックが、実験映画が教えられていたパリ第8大学の学生を引き連れてぼくのところに遊びに来た。CJCとイエール国際映画祭の話をしてほしい、ということだった。ぼくたちは定期的に会うようになり、活発に議論を交わし、意見を交換するようになるんだけど、誰が言い出したのか、イエールでやっていたような映画祭をつくろうという話になった。それでイエールで上映した映画をもう一度パリで上映することにしたんだよ。そしてもろもろの法的な問題をクリアして支援を得るために、ダン・シネマ・ロートル(DCA)という非営利団体を設立した。いい場所をみつけるのに数年かかったけれど、パリの20区にあるコンフリュアンスという場所で定期的に上映会を行うようになったわけさ。ただ、こういう活動をしているうちに、CJCとライトコーンに登録した映画作家のなかには不満を漏らす者も現れてきた。まったく上映されないということはないにしても、もっと自分の作品を上映してほしい。約束と違う。それだったら、自分の作品の登録を外したいという人が出てきてしまった。
1997年にフランス通信社を退社してから、ぼくにはCJCと上映活動に打ち込む時間ができるようになった。国会に働きかけて、1980年のCJCの法的地位を復活させ、DCAを母体にして新しい映画祭を始めることにした。こうしてパリ異色映画祭が始まったのさ。
DCAは映画祭を始めるためにフランス国立映画センター(CNC)から補助金を得ることができた。それにCNCが配給も手伝ってくれることになった。万事上手くいったわけだ。ぼくはいい気になって、毎週上映会を開こうと思い、CJCのメンバーに手伝ってもらいながら、パリ5区の映画館ラ・クレで上映活動を再開することにした。ラ・クレはいまでもCJCの定期上映会の会場になっている。現役のメンバーの作品ばかりでなく、かつてメンバーだった映画作家の作品を紹介する場所になっているよ。
DCAのなかでも結局「内部分裂」が起きてしまったんだけど、そのあとCJCのメンバーに促されるかたちで、第二回目の映画祭のプログラムを担当することになった(2000年13日~17日に開催)。ぼくはこの映画祭をCJCの企画ということで開催し、映画の勉強をしている学生に手伝ってもらった。すると、この学生が国からの補助金をもらうのに成功してしまうんだ。CJCが国から補助金をもらうのは初めてのことで、これまで協力してくれた人たちみんなに恩返しができた。それにこの補助金がなかったら、CJCの運営を続けていくのは無理だったかもしれない。CJCに登録している映画作家も作品もどんどん多くなって、いまではカタログに1000本近い作品が集まっているのだから。
――CJCみたいな組織はいまの時代でも運営可能?
MMそりゃそうだよ! 実験映画、「異色映画」のためにやることはたくさんあるし、これからもずっと続けていかなくちゃいけない。なぜって、こういう映画には人生がそのまま現れているんだから! 異色映画っていうのは、歴史的にみてとても重要な芸術表現のひとつなんだ。一般的には、こういう映画に関心をもつ人が少ないとしても、いまでは実験映画について多くの文章が書かれているし、フランスをはじめ、世界中の大学で実験映画についての講義が開かれている。現代美術館やギャラリーなどでよく上映もされている。それに、CJCの映画作家は各国の映画祭に出掛けていって、こういう組織が必要なことをしっかりみんなに伝えているよ。CJCの映画作家の作品は、映画祭でよく招待上映されているよ。
私たちの会話はいつしかより個人的な話に移っていった。話題はパリから遠く離れ、彼の生まれ故郷ブルターニュ地方の話や、そこで過ごす時間のことについて彼は話しはじめた。彼はよく故郷に帰り、家の近くの浜辺を散歩して、打ち寄せる波を見ながら物思いに耽る。彼が語っていたように、ブルターニュで過ごした幼年時代は平穏に満ちていて、彼はここに戻ってくると、いつでも穏やかな生活を取り戻すことができるのであった。
パリ異色映画祭はCJCによって1999年に始められ、2011年度は12周年を記念した映画祭になるが(2011年12月6日~11日)、この12周年はCJC生誕40周年を同時に兼ねている。CJCの40周年を記念したイベントを通して、私たちは実験映画とその発展のために費やされた使命感や考え、そしてそれを続けるだけの情熱や意志をまざまざと目の当たりにする。実験映画の辿ってきた変化を見据え、その死に、その再生に、その進化にしっかりと向かい合わなくてはならない。称賛の対象になることもあれば、無理解に苦しむこともあるこの種の映画を人々に発見してもらうことが何より必要である。
60年代にマルセル・マゼを魅了し行動へと駆り立てたのは、このような考えだった。そして彼はフランスの「異色映画」の大使になることを決意した。したがって、この40周年は単にCJCや異色映画のためのものにとどまらない。実験映画の存続のために、多くの情熱的な協力者とともに綿々と続けられてきた、溢れんばかりの活力へのオマージュである。
コレクティフ・ジューヌ・シネマはマルセルの芸術表現であり、彼の映画であり、彼のダンスであり、彼の著作であり、彼の絵画である。
……そして彼の子供でもある。
Viviane Vagh, “Keeping Experimental and “Different Cinema” Alive! An Interview with Marcel Mazé” in Senses of cinema, Nº 61, 2011. Available here.
Photos © Marcel Mazé, Viviane Vagh
映画作家、演出家、批評家。オーストラリア出身。パリ在住。