この排他的な世界で、いかにして非排他的な関係が可能か

特集上映「生誕130周年記念特集 ジャン・ルノワールの現在をめぐって」木下千花×角井誠
『ゲームの規則』アフタートーク 2024/9/15@東京日仏学院

司会:坂本安美
構成:梅本健司
協力:安東来、作花元至、芳賀祥平

坂本 まずは、本日『ゲームの規則』(1939年)の4Kレストア版をスクリーンでご覧になったご感想からお聞かせください。

角井 角井です。本日はよろしくお願いします。ルノワールの130歳の誕生日を、こうして皆さんと一緒にお祝いできることをとてもうれしく思います。『ゲームの規則』、何度も見ている作品ですが、今回の4Kレストア版ははじめて拝見しました。これまでのレストアよりもぐっと暗く、フィルムの質感に寄せた画面になっていて、黒が深く、引き締まった印象ですね。

木下 木下です。よろしくお願いします。実はオンラインでこのバージョンを見たことはあったのですが、大画面で見てより感動しました。相互補完的な意見を言うと、白が綺麗だなと。クリスティーヌ(ノラ・グレゴール)とリゼット(ポーレット・デュボスト)が鏡の前で愛人がいるかどうかと話をしている時のクリスティーヌの背中が白く輝く様子や、金髪の人が出てくると三点照明でしっかりと髪を綺麗に見せている。そのような細かい照明に目がいきました。
 それと『ゲームの規則』は見るたびにお気に入りのキャラが変わっていくのですが、今回お気に入りになったのはかなり重要な役であるロベール(マルセル・ダリオ)でした。あとで話しますが、やはりロベールが面白い人だなと、彼の印象が鮮明になりました。
 はじめて見る場合、よくわからなかったという感想も多い『ゲームの規則』ですが、角井さんは初見の時はいかがでしたか。

角井 DVDで見たのが最初だったと思いますが、映画史の傑作と言われていたので、そう思って素直に見てしまったという感じでしょうか(笑)。

木下 私もこれが傑作なんだという感じで、だけど何が起こっているのかあまりわからなかった。これはマイルドな方で、暴力的な感じや演技が最低で耐えられなかったという感想を持つ人もいますよね。

角井 大学の授業で学生に見せると、残念ながら、必ずしもいい反応が返ってこないんですよね。

坂本 わからない、というのは普通と言えば普通というか、はじめて見ると何が起こっているか追いきれない、というのはわかります。繰り返し見ることで面白さが増していく映画なんだと思います。それは他のルノワールの作品についても言えることですよね。  いまでは『ゲームの規則』が映画史の最高傑作だという人も少なくないわけですが、とはいえこの作品がどのくらい日本で語られてきたのか、あるいは上映されてきたのかというと、とくに最近は上映機会があまりなかった。なので専門家の角井さんにまずはこの映画の誕生についてお話しいただければと思います。

角井 『ゲームの規則』は、その成立じたいが波瀾に富んでとても面白いです。映画がつくられたのが、第二次世界大戦の前夜。1938年のミュンヘン協定で英仏がファシズム陣営に譲歩するのを見て、人民戦線政府に失望したルノワールが、友人たちと製作会社を立ち上げてつくった映画、ある種のインディペンデント映画です。元々ルノワールは、前作『獣人』(1938年)に出演していたシモーヌ・シモンで映画を撮ろうとしていました。2本続けて同じ俳優で撮ろうとするけれど実現しないで全然違う映画になってしまうというのがルノワールにはよくあるんですが、『ゲームの規則』もまさにその一例です。シモーヌ・シモンで、ミュッセの戯曲『マリアンヌの気紛れ』を映画化するというのが当初の企画。『マリアンヌの気紛れ』は、セリオという若者が司法長官の妻マリアンヌに恋をして、友人のオクターヴに仲介役を頼むというお話です。そのオクターヴがマリアンヌと恋仲になって、自分とマリアンヌとの逢い引きにセリオを代わりに行かせるというような流れで、あらすじだけ聞いても『ゲームの規則』の土台になっているのがわかるかと思います。そのマリアンヌの役をシモーヌ・シモンに演じさせて、ルノワールは自分でオクターヴの役をやろうとした。ルノワールは『獣人』にも端役で出演していましたが、いよいよヒロインの相手役を演じようとしたわけです。ただし、いきなりそんなことを言うと俳優たちが引いてしまいかねないので、最初は、兄のピエール・ルノワールが演じると言っていました。そして、ある日、ルノワールはついに自分がオクターヴをやると打ち明ける。すると当初キャスティングされていた主演陣がみんな降りてしまうんですね。企画そのものがいったん頓挫しそうになってしまう。
 そんな時に出会ったのが、クリスティーヌを演じることになるノラ・グレゴール。彼女は「素人」だとか「演技が下手」だとかひどいことを言われたりもしますが、立派なキャリアを持つ俳優です。オーストリア出身で、マックス・ラインハルトの劇団に参加し、カール・ドライヤーの『ミカエル』(1924年)やハリウッド映画にも出たりしている、本格的な舞台俳優、映画俳優です。さらに、エルンスト・シュターレンベルクという貴族出身の政治家と結婚していて、本物の「プリンセス」でもあったんですね。ナチスによるオーストリア併合を受けてフランスに亡命し仕事を探していたタイミングで、ルノワールと出会うことになった。ノラ・グレゴールに興味を持ったルノワールは、「ちょうどよい役がある」と嘘を付いて彼女を主演にキャスティングし、フランス人で弁護士の妻という設定だったマリアンヌを、オーストリア出身のクリスティーヌに書き換えてしまうんですね。マルセル・ダリオが演じるその夫も侯爵という設定に変更になります。現実とフィクションを混ぜ合わせてしまうわけです。『ゲームの規則』のキャスティングはとても面白くて、この作品の人物とそのキャスティングというネタだけで600頁くらいある分厚い博士論文を書いた人もいるぐらいです。
 そして、撮影に入るのが39年の2月で5月、6月まで撮影が続く。ルノワールというと、おおらかな「即興」の演出家だと思われがちですが、実はしっかりと脚本を書いて、カット割りまでちゃんとつくる厳密な監督です。『「ピクニック」の撮影風景』(1994年)をご覧になった方は、ルノワールの演出の細かさに驚かれたかもしれません。綿密に準備しつつも、それを偶然、現実にうまく適応させていく、その厳密さと柔軟さの共存こそがルノワールの創造の核心だと思うのですが、『ゲームの規則』に関しては、いまお話ししたような経緯もあって、準備が不十分なまま撮影に入ることになった。その意味で、普段のルノワール作品よりも即興の割合が多い作品になっているんじゃないかと思います。

木下 キャスティングに関しては、一般にルノワールはミスキャストをすると言われていますよね。クリスティーヌとロベールもその一例だと思います。マルセル・ダリオ自身も、先ほど上映された『現代の映画作家シリーズ 我らの親父ジャン・ルノワール』 第3部「規則と例外」(1966年)の中で、なぜ自分なのかと尋ねていました。とはいえ、いまとなってはこのキャスティング以外あり得ないとも思わされる。そこが面白いところだと思います。
 私は溝口健二の研究者なので、39年というと溝口の『残菊物語』を思い浮かべます。『ゲームの規則』は同時代には日本で公開されておらず、フランス以外のヨーロッパやアメリカでもその時は公開されていません。ようやく日本で公開されるのは82年ですよね。なので直接的な影響関係はもちろんないのですが、ミスキャストという観点から見ると、花柳章太郎が『残菊物語』では19歳の役を45歳で演じていて、その次の島耕二のリメイクでも47歳の長谷川一夫が演じている。とても19歳には見えない、というか元々の設定が彼らを見ただけではよくわからなくなってしまっている。それほどではないにしても、『ゲームの規則』には似たようなところがあって、クリスティーヌとオクターヴでは少し年齢が違うというくだりが劇中にありますが、二人を見るとあらピッタリねと思う。そこにキャストと役のギャップを感じる。とはいえルノワールのミスキャストはアンドレ・バザンたちがつくり上げた神話なんですよね?

角井 そうですね。シモーヌ・シモンだったら違ったんでしょうけど。ミスキャストの話題が出たのでお話ししておきたいのが、「ルノワール嘘つき問題」です。「嘘つき」は語弊があるかもしれませんが、ルノワールの発言はある種「パフォーマンス」として受け取られなくてはいけない部分がある。ルノワールはとにかく話し好きで、興が乗ってくると相手を楽しませようと結構いい加減なことを言ってしまうところがあるんですね。それがルノワール研究者を長らく悩ませてきた。なかでも「即興」と「ミスキャスト」は、ルノワールをめぐってつくられた二大神話です。アンドレ・バザンや『カイエ・デュ・シネマ』の批評家たち、フランソワ・トリュフォーやジャック・リヴェットらがそうした即興のイメージを打ち出して、ルノワール自身もそれに乗っかっていたところがある。たとえば『ピクニック』(1936年)で、雨が降るくだりがありますよね。ルノワール自身は、脚本では晴れのシーンだったけれど、雨が降ってきたから雨に変更した、即興の産物だと言っています。しかし、困ったことに、脚本を読むとちゃんと雨が降ると書かれているんですよ。『ゲームの規則』だと、クリスティーヌが双眼鏡を覗くシーンは現場での発見だと言っているんですが、これも脚本の段階で書いてあります。ルノワールが即興の例として挙げるものは、大抵、脚本に書いてある。研究者泣かせです。とはいえ、だからといってルノワールが即興の演出家ではないかというと必ずしもそうではなく、そういう雨とか双眼鏡といったわかりやすい例とは違う、俳優の演出などもっと別のレベルでの即興はあると思います。
 ミスキャストの話に戻ると、アンドレ・バザンが「フランスのルノワール」という素晴らしい文章で、ルノワールのキャスティングは「役から外れて」なされると書いているのが有名ですよね(アンドレ・バザン『ジャン・ルノワール』奥村昭夫訳、フィルムアート社、1980年)。それを『カイエ』の批評家たちが繰り返していき、ルノワールもそれに乗っかっていったふしが多分にある。しかし調べてみると、元々ミスキャストを狙っていたケースはほとんどないんですよ。先ほど触れた『ゲームの規則』のキャスティングについての博論も、まさにミスキャストという神話の脱神話化を試みるものでした。マルセル・ダリオが「なぜ私に貴族をやらせたのか」と言っていましたが、彼がキャスティングされた時点ではロベールの役はまだ貴族という設定ではありませんでした。弁護士だった。貴族だから彼を選んだのではなくて、むしろノラ・グレゴールに合わせて彼の役柄が変えられたんです。

木下 そのロベールに関しては化粧が気になりました。それは役を演じているマルセル・ダリオの化粧が気になるというよりも、ロベールという登場人物がしている化粧が気になる。みんなこれを化粧だと思わないよね、ってことでしている化粧ではないはずですよね。また溝口になりますが、『新・平家物語』(1955年)では市川雷蔵の眉毛が気になる人が多いのですが、あれは化粧しているという設定じゃなくて、そもそもああいう眉毛だっていう設定です。それに対してロベールは化粧をしている。化粧はマルセル・ダリオがロベールを演じるためのものではなく、ロベールがロベールという人を演じるためのものだという気がします。つまり彼は演劇的な人物なわけですよね。『規則と例外』でルノワールが褒めていた巨大な自動オルゴールが出てくるシーンは、まさに演劇的なシチュエーションに置かれたロベールの葛藤のようなものが垣間見える。

坂本 とくにレストア版で見てみると、アイブローがすごくはっきり描かれているのがわかるし、髪の毛もポマードでピシッとなっていて崩れない。

木下 途中でジュリアン・カレットが演じているマルソーという密猟者が登場しますが、ロベールは何だかわからないけれど彼と気が合う。暗い廊下でマルソーがロベールのネクタイを直してあげるシーンがありますよね。あれは、ロベールが舞台に上がって巨大な自動オルゴールを紹介する前に置かれていて、舞台に上がるための衣装を直してあげていたのだとあらためて気づきました。そう思って見ると、より素晴らしいシーンです。

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