坂本 続いてクリスティーヌにも関係するルノワール映画における恋愛についてお聞きします。批評家の中には、この作品が当時のブルジョアや貴族たちの挑発的な姿を描いているから観客にショックを与えたということだけじゃなくて、実は恋愛におけるロマンチシズムをある意味否定して終わっているところがみんな頭に来たんじゃないかという意見もあります。
角井 これについては木下さんが先日の『群像』(2024年10月号)の濱口竜介特集でお書きになった作家論と絡めてお答えしたいのですが、そこで木下さんは、濱口竜介を論じる前段階で、ルノワールの『牝犬』とそれをリメイクしたフリッツ・ラングの『スカーレット・ストリート』(1945年)を比較されています。そこで問われているのが「モノガミー」(一夫一妻制)の問題、つまり男女の「パートナーシップにおける排他性」の問題なんですね。『牝犬』と『スカーレット・ストリート』では、女性の専有をめぐる排除と選別の物語が語られている。面白いのは、そこに、もう一つの選別・排除の体系としての説話論的な体系が重ねられているところです。映画の説話論的な持続の中では何かが顕在化したら何かが引っ込むわけですから、そこにも選別と排除がある。パートナーシップにおける排他性と説話論的な体系における排他性はある種結びついている。そこで、ラングとルノワールの話になるわけですが、「『スカーレット・ストリート』は過剰なまでにモノガミーの法を堅持し、そのためにはリアリティを軽んじることも厭わないのに対し、『牝犬』の緩さはすなわち性愛における排他性の希薄さでもあることがわかる」と書いていらっしゃいます。まさに仰る通りで、排他性の希薄さ、排他性への抵抗というのがルノワールの本質の一つだと私も思います。その緩さというのは説話や表現のレベルでもあって、ルノワールの映画は内容、形式の双方において選別と排除から距離を置くものだと言える。
『ゲームの規則』に戻ると、カレットがダリオのネクタイを直しているところでハーレムの話をするのが象徴的です。男女の問題に関してイスラム教徒は一夫多妻制という正しい答えを出したと。つまりモノガミーじゃなくて「ポリガミー」というか、占有と排除じゃない関係が示唆されている。さらにオクターヴの有名な台詞として「この世界で恐ろしいのは、人間誰しも道理があることだ」というのがありますが、それに対してもロベールは「私は壁にも柵にも反対だ」と答えているんですね。壁や柵のある社会、排除と選別の社会にノーだと言っている。モノガミー反対だと。しかし他方で、『規則と例外』の中でルノワールが言っていたように、社会というのは「犠牲」の上に成り立っている排他的なものであるわけですね。つまり、ルノワールにおいて、欲望の非排他性と、社会の排他性とが葛藤状態にある。この排他的な世界の中で、いかにして非排他的な関係が可能か。恋愛に限らず、それがルノワールの一貫したテーマなのかなと思います。とくに後期の作品はそれに対してアクロバティックとも言える解答を出していく。
木下 読んでいただいてどうもありがとうございます。いま仰ったこともその通りだと思います。先ほどのペアの話とも関係するんですが、『ゲームの規則』が面白いのは、ロベールに愛人がいるというような、男性から見たパートナーの非排他性だけじゃなくて、クリスティーヌについても言えるということだと思います。クリスティーヌは不透明な人物だと先ほど言ったんですが、もしかして不透明なのは、角井さんが仰った社会・世界の枠の中から見る限りにおいてかもしれないわけですよね。
クリスティーヌがアンドレに「いままで認めてこなかったけど、あなたのことが好きだったの」と言い放つシーンが好きです。酔っぱらって衝動的に言っちゃったのかもしれないけど、途中まで彼女はもっとずっと真面目でモノガミーな人だと思っていた。でも一枚服をふっと外してみたら、いや、やっぱりあの人に惹かれてたんだって、それにいま気づいたの、というふうにも理解することもできる台詞ですよね。だから必ずしも男性だけの話じゃない。
角井 それこそ『黄金の馬車』(1953年)もそんな話ですよね。
木下 『ジャン・ルノワールの小劇場』(1970年)もまさにそう。
坂本 遺作になったその作品の一番最後のエピソードで、結局誰か一人にとどまるっていうことはないんだと言っていますね。
角井 そうですね。ルノワールにとって人間は、その瞬間その瞬間を率直に生きていて、そのすべてが真実であるような存在、緩いというかおおらかというか、一つに定まらない非排他的な存在なんですよね。これは、ルノワール自身も含めてです。それが排他性を重んじる世界から見ると、謎めいて見えてしまうのかもしれない。そう考えると、「この世界で恐ろしいのは、人間誰しも道理があることだ」というのは、そうした人間のありようとモノガミーの世界との葛藤を端的に表していたのかもしれません。
木下 ラングとの対比で言うと、ラングは複数のパートナーが同時にいたタイプの男性でありながら、すごくリニアな映画をつくるという点で、実生活と映画の形式が必ずしも直結するわけじゃないけど、ルノワールの場合は現実と映画の距離が近い。
角井 そうですね。ルノワール自身の女性関係もあわせて考えられるかもしれない。現実と映画とのあいだに柵がなく、緩くなだらかに繋がっているような。でもそれが必ずしもナルシスティックにはならなくて、世界、社会についての深い洞察に繋がっていくのがすごいところです。
坂本 この作品の中で、「僕は自分の家にいるんだよ、どこに行けって言うんだ」というロベールの発言に対して、「何をそんな所有所有って」というジュヌヴィエーヴの台詞がありますが、おそらくルノワールは「所有」ということほど好きじゃないものはなかったんだと思います。さて、ここで会場の皆様からのご感想、ご質問を受け付けたいと思います。
質問者 本作において、オクターヴを演じるルノワール自身が作品内で女優とキスをしていたり、他の作品においても少し無理矢理なキスシーンが多いように思います。ルノワールのそうした場面に対する批判はいままで為されてきたのでしょうか。あるいはルノワールの現場では性的搾取などがあったのでしょうか。
角井 性的な搾取がなかったと100パーセント確実に言うことは不可能です。ただルノワールは「映画において最も重要なのは俳優である。だから俳優を尊重しなくてはいけない」ということをサイレントの早い時期からずっと一貫して言っている人で、じっさい彼の映画に出た人の多くが、ルノワールに寄せる篤い信頼を語っている。だから、俳優に無理強いをする、ましてや性的搾取をするということはなかったのではないかと思います。少なくともそのような事実は伝わっていません。
ルノワールにおけるジェンダー表象は、現代の観客にとって躓きの石になるところもあるかとは思います。ルノワールには19世紀的な部分が少なからずあるので、女性の表象に関しては古臭いと感じられる部分があるのは否めません。フランス映画のジェンダー表象については、ノエル・バーチとジュヌヴィエーヴ・セリエが『フランス映画の奇妙な性の戦争(1930−1956)』(未邦訳、1996年初版/2019年改訂版)という本を書いていて、30年代から50年代ぐらいまでのフランス映画におけるジェンダーの表象を徹底的に分析しています。そこでは、フランス映画にはある種ミソジニー的な部分があって、ルノワールのような作家もまたそれを免れているわけではないということが指摘されている。もちろん、それほど単純でもなくて、『牝犬』についてはミソジニーが指摘されているかと思えば、『ランジェ氏の犯罪』についてはある種の家父長制批判があるということで肯定的に評価されていたり、『ゲームの規則』については性的関係と社会的関係を結びつける政治的な鋭敏さが賞賛されていたりもする。ルノワールにおけるジェンダー表象を論じるには、慎重な作業が必要でしょう。かといって無理にミソジニー的な部分を否定する必要もないんじゃないかと思います。偉大な映画作家もまたその時代から完全に自由であるわけではないという当たり前のことから出発して、ルノワールをそのまま受け止めること。そこから、いま、ルノワールについて考えることは始まるのではないかと思います。
木下 『女優ナナ』(1926年)には『牝犬』と違ってフェミサイドはないですが、カトリーヌ・エスラン演じる女性が、『マッチ売りの少女』(1928年)は可愛いんですけど、『女優ナナ』では本当にひどい女として描かれており、ジュヌヴィエーヴ・セリエとノエル・バーチのその本では、彼女の扱いじたいが非常にサディスティックであると指摘されています。
ルノワールの現場で何があったかはそこまで詳しくはわからないですが、ルノワールが役者を尊重する人であるということは、『ゲームの規則』でも見られるように、相手の反応などにセンシティブな感じからもわかる気がします。
坂本 ありがとうございます。最後にお二人から一言ずついただきたいと思います。
角井 ルノワール生誕130周年を、まさにその誕生日に皆さんと一緒に過ごせたということだけで、もう感無量です。自慢の自動オルガンを紹介してはにかんでいるロベールのような気分です(笑)。
木下 ルノワールの誕生日を祝えたこともそうですが、こんなに楽しそうな角井さんとルノワールについてお話しすることができてうれしかったです。