©1939 Les Grands Films Classiques, Paris
角井 マルセル・ダリオの化粧は確かに気になりますよね。「演劇的」というお話がありましたが、ロベールだけではなく、この映画の登場人物たちの振る舞い、演技に関しては、リアリティを逸脱しているというか、過剰ですよね。みんなやり過ぎ。そもそも『ゲームの規則』という映画じたいが、演技の映画、パフォーマンスの映画であって、相手を説得するためにパフォーマンスをするというシチュエーションの連続でできているわけですけど、どの人物も過剰で、芝居がかっている。その中でも一番やり過ぎなのが、ルノワール本人です。ルノワールの身振り手振り、もう激し過ぎですよね(笑)。『規則と例外』でも手を動かしてしゃべっていて、ルノワールは普段から手を動かす人だというのがわかるのですが、『ゲームの規則』の中でのオクターヴの手の動かし方は尋常ではない。おそらくルノワールが自分で演じながら、「これくらいやってくれ」というのを他の演者に実演してみせていたのかなと思います。この作品における過剰な演技のモードを自ら示しているような。
木下 それで思い出したんですけど、序盤でアンドレ(ローラン・トゥータン)が運転する車が事故を起こして、その後土手の上で彼とオクターヴが口論しますよね。その時のオクターヴの身振りがすごく大袈裟で、しかも空がバックで何もないから他に目をやるところがない。
坂本 舞台みたいですよね。
木下 ルノワールがワシャワシャしているのを見るしかないっていう状況なんですよね。この映画は当初上映時間が98分だったんですが、不評だったので公開した1週間後にルノワールが自分で81分まで切っているそうです。長いあいだその81分バージョンしか見られなかったんですけど、そこではあの土手の場面が切られていたらしい。オリジナル版ではルノワールが出ているところがとくに不評だったのと、監督としては自分の出演場面を切るのが一番心が痛まないということもあったのかなと思います。復活したのは1959年のレストアの時ですね。私は決して嫌いではないですけど、何かすごいものを見てしまったという感じはします。
坂本 私はあのオクターヴ大好きです。
角井 僕もオクターヴ大好きです。81分のバージョンでは、土手のところもそうですが、とくに後半のオクターヴとクリスティーヌの場面、橋の上で「自分は失敗者だ」と語る場面やその後の温室のキスシーンなどもカットされていたようです。オクターヴの見せ場の一切ない81分版は、全然印象の違う映画だったんじゃないかなと思います。
坂本 俳優が監督をしている映画は好きなものが多いんですけど、この作品もその一つです。カサヴェテスとかイーストウッドとか、タイプは違っても俳優だからこそ他の俳優たちと密につくっていける部分があるんじゃないでしょうか。オクターヴはある種トリックスター的な存在で、途中までは様々な人の間を常に運動し続ける存在だったのに、最後にいきなりヒーローのようになりますよね。
角井 ルノワールにとっての理想はやはりチャップリンやシュトロハイムなので、自ら演じたい欲望は強かったんだと思います。サイレント時代にも自作や他の監督の作品に出演していましたが、とくに30年代半ばになると、『ピクニック』でのレストランのおやじの役、『獣人』での浮浪者の役というふうに少しずつスクリーンに姿を現すようになり、ついに『ゲームの規則』で大きい役をやることになるわけですね。もう一点付け加えると、ルノワールは『獣人』みたいなかっちりとした構成の映画を撮り続けることに抵抗があったようで、「このままこの路線で続けてはいけない」、「自分の映画を刷新しなくてはならない」というのを強く感じていた。そして、そのためには自分で出演して内側から演出を刷新しないといけないとも考えていたようです。
オクターヴはとても複雑で、味わい深いキャラクターですよね。彼は、表向きはすごく人付き合いの良い、人畜無害な人物なんですけど、失敗者、落伍者として複雑な思いを抱えている。若い頃は、オーケストラの指揮者として成功して、叶うことならクリスティーヌと一緒になって……ということをおそらく夢見ていたのだけれど、どれも実現しなかった。そのあいだに、クリスティーヌは蒐集家のロベールと結婚して彼の「コレクション」になってしまった。飛行士のアンドレはそれに納得いかず彼女を奪おうとするけれど、何者でもないオクターヴはクリスティーヌにとって庇護者、兄的な存在にとどまるしかない。自発的な去勢とも言うべき状態に自らを置くしかないわけです。だから、どこか自分の叶えられなかった欲望を、現代の英雄であるアンドレを代理人として叶えようとしているところがある。しかし城館のテラスで指揮者の真似事をしたあたりから押し込めていたものが噴き出していき、どんどん変わっていく。
坂本 ルノワールがそれを自分自身で演じながら、作品じたいも変えていくのが面白いですね。
角井 先週もここで講演をさせていただいたんですが、そこで「ルノワールの人物には表と裏がある」という二面性の話をしました。たとえば『牝犬』(1931年)のルグランは表ではおとなしいサラリーマンをやっているけれど、裏では芸術家志望で若い女性を囲っている。あるいは、『ランジュ氏の犯罪』(1936年)のランジュも表では控え目な出版社の校正係をやっているんだけど、実は作家志望で内にいろんなものを秘めている。これはアメリカ時代の『この土地は私のもの』(1943年)や『コルドリエ博士の遺言』(1959年)などにも受け継がれていく特徴ですが、ルノワールはそういう二面性のある人物を好んで描いている。オクターヴもまさにそういう人物ですよね。だからルノワールが、オクターヴに愛着を抱いて自分で演じたいとまで思ったのはわかるような気がします。
木下 にもかかわらずルノワールがあまりナルシスティックに見えないところはすごいなと思うんです。もちろん人によって意見が違いますが、個人的にはドワイヨンは自分で出演しているとナルシスティックに見えちゃうんですよね。役者のナルシシズムが魅力になることも多いんですけど、ルノワールの場合は自分が当時気の合った女性と一緒に主演を務めて、キスシーンまで演じているのに、その感じがあんまりしない。と同時に、異物感もすごくあるんですよね。それが両立しているところが面白い。
坂本 オクターヴがほんの一瞬だけ、愛する女性と人生をやり直せるかもしれないという希望を持ちますよね。でもアンドレに声を掛けられるや否や自分の中の舞い上がっていた気持ちが引いていく、あの瞬間は本当に切ない。
木下 あそこは鏡ですよね。冒頭でも触れたクリスティーヌとリゼットの最初のところも含めて鏡のことは多くの方が指摘していますが、やはり何と言ってもオクターヴの決断の瞬間だと思います。あの時彼は帽子を探していて、鏡の前に立っている。そのあいだリゼットが彼に向かって若者は若者同士がいいとか、あなたにはお金もないとか忠告する。他の監督だったらもっと長い時間を使って鏡と切り返すようなことをするかもしれないですが、そうじゃなくて、オクターヴが鏡を見たかどうかもちょっとわからないくらいの瞬間に奥からアンドレの声が聞こえてしまう。そこでサラッとものすごい決断が描かれてるんですよね。
坂本 決断の速さがすごいです。
角井 フレームの外からアンドレの「クリスティーヌはどこ?」という声が聴こえて、カメラがさっとパンをして彼をとらえる。切り返されるとオクターヴは「彼女は君を待ってる」と即答しちゃう。ここもすごいですが、その後アンドレを見送って外に出て行くと、ロベールが後ろ姿ですっとフレームに入ってきて、「お前も彼女が好きなのか」と聞くんですよね。
坂本 あのタイミングもすごいですね。少し戻って仮装パーティーの話に行きましょうか。かなりの長回しとパンフォーカスで撮られているすごいシーンですけれども、どのくらいカット割りなどは事前に決まってたんでしょうか?
角井 城館の外側は実際にソローニュにある建物で撮られているんですけど、内側はセットです。雨の中みんなが車で到着して館の中に入って行くシーンはロケーションで撮られていますが、入ったところはもうセットで、外の雨とうまく繋げています。美術監督のウジェーヌ・ルーリエがジョワンヴィルの撮影所で二つのステージをぶち抜いて幅50メートルの巨大なセットをつくっています。それが、長回しとパンフォーカスを可能にしている。パーティーのシーンに関しては、どこまで綿密にカット割りが考えられていたかはよくわかりません。先ほどもお話ししたようにルノワールは本来ならカット割りを事前に用意する人なんですが、この映画ではそれが間に合わず、とくに後半のパーティーのくだりはクランクインの前に完成していなくて、紙の上ではしっかりとカットが割られていない。
木下 本当にどうやったんだろうと思います。先ほど『残菊物語』に言及しましたが、1939年の時点でハリウッドのような技術力がない日本とフランスであれだけパンフォーカスに近いことをやったということですよね。『市民ケーン』(1941年)ほど鮮明というわけじゃないけれども『ゲームの規則』も最後景から前景までかなりピントが合ってますからね。パンフォーカスにすると照明もかなり焚かなきゃいけないのに。そんな大掛かりな用意が必要だったのにもかかわらず突発的な感じが出ているのがすごい。
坂本 画面の奥の方の人までどのぐらい演技を付けていたのかも気になります。『規則と例外』で面白かったのは、『ゲームの規則』の中でクリスティーヌがアンドレとの関係をみんなの前で話す時に、彼女の後ろにさっとオクターヴとロベールが入ってきて顔芸をしている、そこの二重構造の話です。それよりもさらに三重、四重ぐらいの奥行きがあるショットもある。何か月かほぼ合宿生活のようにみんなで過ごしながら撮ったと言ってましたけど、そうして息が合ったからこそできたのかなという感じもします。
角井 クランクインの前にカット割りが決まっていなかったというだけで、その日に撮る部分に関してはちゃんと準備して撮っているとは思いますよ。
木下 日本の映画づくりだと前の日にカット割りができていればいいという感じですよね。溝口健二も前の日にはカット割りを自分でつくってたらしいです。
坂本 クリスティーヌの話題に戻りますが、あらためて見るとすごく微細に変わっていく表情や身体を揺らせる仕草が印象的でした。今回ちょっと字幕を見直させていただいていて、彼女の「私はこの何年間か嘘の上に生きてたのね」という台詞は、元々は「騙されてたのね」という字幕でしたが、「嘘の上に生きてた」という表現をそのまま使いたいなと思い、変えました。
木下 クリスティーヌ素晴らしいですよね。『規則と例外』でも言われていたように、ノラ・グレゴールのフランス語が外国人のフランス語であるということによって不透明なキャラクターにもなっている。さらに最後のほうは男三、四人のあいだで、あれでもいい、これでもいい、みたいに揺れ動いて、突然逃げていくし、ますます不透明になっていく。いわゆる女性の主体性の話とは関係ないと思いますが、すごく面白い。
それとミラ・パレリが演じるジュヌヴィエーヴ、彼女も素晴らしい。彼女たちのツーショットがありますけど、ルノワールの映画では仲の良い女性同士のシーンがほとんどないと角井さんが事前に仰っていて、そう考えると非常に珍しい関係だと思います。この映画だとリゼットとクリスティーヌの関係も親密です。リゼットは夫も愛人もいらないから奥様のところで働いているのが楽しいっていう女性で、実際すごく楽しそうにしている。
ジュヌヴィエーヴとクリスティーヌのツーショットでは「私たち助け合わなきゃ」とか話してはいるんだけど、同時にクリスティーヌが「でもあの人、子どもみたいで嘘を付けないでしょう」、そこまではいいんだけど、「ベッドでタバコを喫うところも嫌なのよね」って言うんですよ。そうするとジュヌヴィエーヴが「そうそう、あちこち灰を落とすでしょ」とか答えるんですが、あれは絶対二人の関係の確証をつかむためにクリスティーヌが誘導して言わせている。結構意地悪というか、ただ絆が結ばれているとも言えない場面ですよね。
角井 あのツーショットが誘導尋問だというのは、いま言われてはじめて気づきました。ある研究書では、女性同士が秘密を共有する微笑ましい場面として論じられていたりもするんですけど、一気に恐ろしい場面に見えてきました(笑)。
木下 クリスティーヌがジュヌヴィエーヴの扮装も考えてあげるわと言うところなども含めて興味深いです。