見えない境界線を突き破る

特集上映「生誕130周年記念特集 ジャン・ルノワールの現在をめぐって」三宅唱×濱口竜介
『捕えられた伍長』アフタートーク 2024/10/5@東京日仏学院

司会:坂本安美
構成:梅本健司
採録:板井仁、松田春樹、山田剛志

坂本 本日はまず上映されたばかりの『捕えられた伍長』(1962年)について、それからルノワールのフィルモグラフィ全体についてもお話を伺いたいと思います。

濱口 今回『捕えられた伍長』でトークを、と言われた時にどうしようと思いました。というのも、前にも見ているのですが、その時はそんなに印象がなかった。しかし、結果的にはこれを選んでいただいてよかったと思っています。今日含めて複数回見返したのですが、どんどん好きになっていきました。初見時から印象に残るのはバロシェ(クロード・リッシュ)ですね。最初に伍長たちと脱走を試みる時に、彼がのび太くんのようにメガネを落とすんですが、あとでその行為が裏切りだったとわかり、普通に「えっ」となりました。最終的な見せ場の場面では、バロシェが逃げるさまを、離れたところにいる伍長たちが想像することで、我々観客も想像するように誘われて、彼が塀を越えた、と皆が想像した瞬間に銃声がする。これは初見の時にも見事な演出だと思いました。想像をスクリーンの中の境界を越えるような形で共有して、そこで悲劇を起こすとこんなにも響くものなのかと。
 それと全体としてはいわゆる「脱走もの」としては緩い話として記憶していた。でも、見直して、それは間違いないとしても、その緩さのうちに本質があるという気がしているのが現在です。

三宅 さきほど控室で「つい迂闊なことを口にしちゃいそう」と濱口さんに弱音をこぼしたところ、「口にしちゃおうよ、それを訂正していけばいいんだから」と励ましてくれました。訂正する、やり直すというのはジャン・ルノワールの映画そのものがそういうことかもと勝手に感じいりつつ、ここに座った次第です。それで、今濱口さんがバロシェの話をしてくれましたが、緩い話という指摘と関連して、僕も簡単な感想を三点ほど喋ります。
 まず、休戦中の話、というのが最初の驚きでした。驚きと言いますか、ひっかかりがあって、戦争映画に対する自分の先入観に気づかされた。冒頭、休戦したので家に帰ろうとしたら、止められる。「えっ、だめ?」ってあの登場人物と一緒に驚くような感じ、そこから映画がはじまる。他にも似たような設定の映画はあるのかもしれませんが、休戦中という少し特殊な期間を描いたこの映画は、他の戦争映画ないし反戦映画と比べて何が一緒で何が違うのだろう?という問いとともに全編を見ていました。
 二点目は、ラストの場面で到着するパリの天気が悪いことです。人の気配もないし、船の音も続いてるし。ダダダダダダ……、みたいな不穏な音。思い返せば、冒頭から大雨、その後も曇天ばかりで、これは当然、狙って撮られた天気だと思うのですが、一体これはなぜなのか?
 さらにもう一点、ジャン=ピエール・カッセル演じる伍長が良い。いわゆるヒロイックな男ではなくて、ちょっととぼけたところ、困った顔なんかがいいですよね。初見時から「バスター・キートンみたいな顔でいいなあ」と楽しんではいたのですが、今日見て好きだったのは、一度捕まって戻ってきた時に、もはや裏切り者としてしか見られないバロシェにシチューを食べさせて貰って、「でもうまいっ」と言って泣く。そしたら虫歯になったのか歯医者送りになる。そういう人間臭い──というと迂闊なワードな気もしてしまいますが、伍長の魅力に引っ張られ続けました。

濱口 「休戦中」で少し話を広げておくと、おかげでその緩さに拍車がかかる。『捕えられた伍長』は、「脱走」が主題として含まれている、いわゆる「プリズンもの」だと思うのですが、大体そうしたジャンルは緊密に語られる。一体どうやって守衛の裏をかくのか、とかその目配りが律儀に画面化されたりする。しかし、この映画には、そういった要素がほぼないですよね。パイプを吸いながら労役をしている連中もいたりして、別にこのまま牢屋にいていいじゃないかと思う人たちも一定数出てくる。そのような緩さの中でわざわざ脱走を企てるからこそ、伍長という人間がより際立ってくるわけですよね。このままでいい、という考えを抱くこと自体が本当に囚われることなのだと思います。『大いなる幻影』(1937年)という前例はあるとしても、本作ではそうした状況が、ジャン・ルノワールが描き続けてきた「自由」をより強調することになっている。

三宅 そうですね。見えている鉄条網そのものではなく、別の見えないところに境界線が存在するんだということを、冒頭から意識させられる。大雨が降っていて、向こうからギヨーム(ジャン・カルメ)と呼ばれる牛飼いの彼が手前に来る時に、キャメラもスッとトラックバックして、歩哨が二人立っているのが見えてくる。この動きによって、見えなかった境界線が見えるようになる、それが、ニュースリール後の実質的なファーストショットとして演出されていました。もうここから、見えない境界線がどこかにある、という話としてこの映画が立ちあがるように思います。

濱口 境界線が浮かび上がる瞬間を三宅さんが言語化してくれたわけですけれども、一方で脱走が成功する瞬間は、むしろ境界線などなかったのではないか、と思わせるようにスルスルと彼らは出ていく。こんなにも緊張感がない脱走シーンは映画史的にも稀なのではないだろうか。境界線があるような、ないような感じはずっとルノワール作品にある気がします。伍長を含めた三人が巻尺で距離を測るフリをして脱走しようとする場面、カメラは彼らに寄らず、そのせいで三人はカメラから遠ざかり、どんどん些細なものとして映るようになっていく。映画がもっとも盛り上がるかもしれない瞬間を強調しない。最も緊張感高まる瞬間を弛緩したものとして映し、我々の抱く固定観念を崩してしまう。それはおそらくジャン・ルノワールが繰り返しやってきたことなのではないかと思います。

三宅 戦争状態の「天気の悪い世界」とそれに抗う「笑顔の素敵な伍長たち」、あるいはナチス対フランスなど、そういう理解しやすい二項対立の境界線を引いてこの映画を受け止めようとすると、それはそれで一つの解釈として否定はできないけれど、モレてしまうものがたくさんある映画だと思います。そうとも言い切れないエピソードが多々あった。たとえば、エリカという女性との出会いの場所に関して、ちょっとしたロマンスだけがそのシークエンスの目的であれば、別に歯医者の設定である必要はないと思うんです。でも、なぜ歯医者の場面が描かれたのか? 歯が痛いというのは本人にとってはとても大きいことであって、コントロールできない不愉快なものが外側にあるのではなく、自分の内側にもあるんだ、ということだと思うんです。歯医者の受付でも「ロシアに勝ったぞ、これで戦争が終わるんだ」とドイツ兵が言っているのに対して、「いや今それどころじゃないから」ともう一人が痛みを我慢しながら返したり。

濱口 何がその人にとってもっとも重要かは他人からはまったく測れないことですよね。他人の価値観を操作することはできない、それがおそらくジャン・ルノワールの世界観でもある。だからこそ一人一人のキャラクターが急に個人としてせり出てくることも多々ある。初見の時は伍長とバロシェぐらいしか記憶していなかったけど、繰り返し見ると、こんなにも多種多様な人物たちが周りを彩っているのかということに気づきます。最初そのことにあまり気づかないのは遠くから撮られているからだと思うんですよね。伍長とバロシェが印象に残るのは最初に切り返しがあるからで。

三宅 そうですね、雨の中、テントの中で揉みくちゃになって伍長がぶちぎれていたら、バロシェを見つけた瞬間にわーっと笑顔になる。あの笑顔をわざわざ寄りで撮っている。しかも大雨降らしという面倒くさい状況で、わざわざ。だから、これは絶対に必要な切り返しだったんだなと思いました。

濱口 それがあるがゆえに、あの二人が特別なものとして見えてくるのだけれども、同じような強度が実はどの人物にも常に与えられていて、たとえば「吃る人」(ギイ・ブドス)や「左寄り」(マリオ・ダヴィッド)と言われている人。一人一人が自分自身の価値観を持っていて、その人たちと伍長との関わりも一つ一つ面白い。とくに脱走する時に、正体がバレた仲間を切り捨てる速(笑)。薄情なように一瞬思えてしまうけれど、彼らの中ではおそらく合意ができていることなんですよね。吃りの彼だけが捕まる瞬間では、彼がほんの一瞬だけ仲間を見送って、微笑んでいる。

三宅 あの一瞬はスクリーンでなければ見えないかもしれないなあ。

濱口 一方、登場人物たちがさまざまなあだ名で呼び合っているのに対し、伍長は最後まで伍長としか呼ばれない。他の兵隊たちとの間で結ばれている強い友情はあるんだけれど、その背景に実は階級が存在している気もする。

三宅 他の人間たちがそれぞれ職業を持っていることが冒頭で時間をかけて説明されますね。途中でバロシェもガス屋だということがわかるけれど、伍長の元々の生業はわからない。どうやら労働者ではない。

濱口 一緒に脱走しても、パリに行ったら別れ別れになってしまう。だからここ(収容所)にいた方がいいんだというセリフがラストに効いてきますよね。
 批評家の廣瀬純さんの最近の著作(『監督のクセから読み解く名作映画解剖図鑑』彩図社)に倣いつつ、ルノワール全体に話を展開すると、まさに「ゲームの規則」というのがジャン・ルノワールのクセなのではないか。今回の場合、たとえば最初にドイツ軍の将校が言うわけです、壁を越えたら歩哨が撃ってくる、一般市民とは話してはいけない、ドイツ人の女性と交際してはいけない、と。この規則が、かえって規則に反する行動をどんどん活性化させていく。最初は伍長を中心に脱走という行動が起きて、中盤にはそれがギリギリ成功しそうなところまでいく。後ドア一枚を通り抜ければ、というところまでいくけど、失敗する。そこで二ヶ月の懲罰をくらって、心身ともにやられてしまう。規則にめったうちにされたところで、一方、「ゲームの規則」にすっかり順応していたバロシェと再会する。伍長もまた「ゲームの規則」とはこういうものかと、休戦中の収容所を過ごすのであればそんなに頑張る必要もないと一時は思い、そこに順応していく。しかしまた別の規範が活性化する。歯医者に行くと、ドイツ人の女性が出てきて、伍長から脱走の話を聞く。当然彼女とは、規範を破って仲良くなっていく。そして彼女に「奴隷じゃない人が好き」と言われたら、伍長がキリッとカメラ目線になって、また脱走を決意する──決定的な展開とはこれでいいのだと(笑)。
 基本的にジャン・ルノワールの映画にはまずそのような不動の枠組みがあって、その枠組みがかえってその外側に逃げ出すような力を強調したり、むしろ生み出したりしている。『ゲームの規則』(1939)のクリスティーヌは不倫関係を黙認するのが上流階級の遊びのルールだと納得することが出来ず、その向こう側に飛び出していこうとする。そのような運動が恋愛じゃなくても、演劇でもある。『黄金の馬車』(1953)だと、カミーラが「演劇と人生の境界線はどこなのか」と言ったりするんですが、最終的にはまさにその境界線に彼女は立って、映画が終わる。演劇という枠組みを導入することによって、演劇と人生、フィクションと現実の境界線のなさ、その境界線を突き破っていく力がより描かれる。

三宅 もうちょっと聞きたい(笑)。たとえば、今日お昼に上映があった『浜辺の女』(1947年)の「ゲームの規則」は何なのでしょう?

濱口 『浜辺の女』は最初に好きになったジャン・ルノワールの映画です。これはなんて爛れたいい映画なんだと。
 最後に「過去に縛られていた」とチャールズ・ピックフォード演じる画家が言いますよね。この場合は、過去であり、画家とジョーン・ベネット扮する妻が過ごしてきた幸福な時間であり、それは絵画として形象化されている。絵画がその幸福な時間を表現したり、売ることでより良い生活に移行できるアイテムとして、彼らの執着を刺激し、縛り付ける規範のようなものとして機能している。そこから逃げ出そうとする力がロバート・ライアン演じる主人公を引き込んでしまうのだけれども、結果的には絵を燃やして二人だけで解決して、主人公のロバート・ライアンはどこか別の次元に飛ばされてしまったかのようになる。たぶん彼の50年代の傑作群の中に消えていったんだと思います(笑)。

三宅 ずっと辛い人生だよ50年代のロバート・ライアンは(笑)。『浜辺の女』は過去にこだわっていて、具体的には額縁、つまりフレームを最後に燃やそうとする話なんですね。

濱口 フレームがジャン・ルノワールにとっては大事ですよね。ただフレームが大事なのはそこに閉じ込めてその外を廃棄するためではなく、フレームから逃げ出そうとする力を活性化させるため。もしくは、あるフレームに当てはめて何かを解釈する、その時に常にフレームに収まりきらないものが発生して、抑圧されたものが吹き出す、そういう力そのものを描こうとしている。

三宅 たしかにジャン・ルノワールのうまさは、何かをコントロールするものとしてフレームを使うのではなくて、コントロールから抜け出て自由にフレームそのものを食い破ってくれるような何かを探求するためにフレームを用いている、と言えばいいんでしょうか。そういう力を持った人間や自然そのものにキャメラを向ける。たとえばルノワールの映画といえば水と言われますけど、『浜辺の女』では水が横溢していました。
『捕えられた伍長』に話を戻すと、冒頭で雨が降っていて、兵隊三人が毛布を傘がわりにして喋っているんだけど、三人の距離はすごい近いのに、めちゃくちゃ声がでかい。雨が降っていることそれ自体も重要だけれど、大雨といういわば人間に不自由を強いるフレームの中だからこそ、それをものともしないかのような大きい声が顕在化する。そこでキャラクターがグッと立ち上がる。そういうフレームの使い方をして、映画を手玉にとる感じ。

濱口 なるほど。この機会に三宅さんに聞いてみたいのは、ジャン・ルノワールの俳優たちの演技ってどう思いますか。

三宅 おっと(笑)。

濱口 自分が感じていることを先に言ってしまうと、リアリズムからはずいぶん離れている。カリカチュアライズされた、強調されたタイプの演技であることは間違いない。ただ一方で、どのショットに映る人間も活気を失っていない。もちろん、沈鬱な場面では活気が失われることはあるけれど、それはそれで誠実にキャラクターの置かれている状況を表現している。溝口健二やカサヴェテスなんかは、「それまでのお前突き破ってこいよ」系の演技指導じゃないですか(笑)。ルノワールにそういう感じはあまりしない。俳優一人一人が持っているものを決して壊さない、持っているものを尊重しながら、その中でやったらいいじゃんという感じで演出を基本的にはしている。それは彼の階級に対する態度とも響き合うものだと思うんだけど、そうするとある時急に自発的に出てくるものがあって、それが最終的にフレームの中で蠢くものになっているような気がします。

三宅 『捕えられた伍長』で良いなと思うのは、伍長と一緒に逃げるクロード・ブラッスールのたたずまい。まるで目の前にキャメラなんかないかのように、自分の感覚で動いているように見えます。
 そして、最後の伍長の笑顔がどうやって引き出されているのかということです。伍長の笑顔は彼が一人で自発的に生みだしたわけではなく、一緒に演技するクロード・ブラッスールの笑顔から引き出されているように感じられる。あそこはカットバックなので、演者同士で相互作用が起きていたのか、はっきりしたことはわからないけど。

濱口 うん、でもここでは絶対ブラッスールは画面外にいるでしょ。

三宅 まあ、間違いなくいるか。伍長の笑顔は相手が共にいてはじめて出てくる。そういうものとしてあの笑顔にキャメラが向けられていると思いました。編集点としても、伍長の顔が見えない後ろ向きの状態からはじまり、一度ブラッスールが別れを告げてフレームアウトする。でもその直後、まさにフレームを破る形で「そういえば伍長さん」とまたブラッスールがフレームインしてくる。それによって別れのフレームじゃなくなるわけです。出入り自由なフレームになる。
 そして、伍長はまだしばらく、画面後方の川を眺めていて表情が見えない。ある時、彼が体勢を変えてふと顔が垣間見えた時はまだ固い表情をしている。ただ、寄りのショットでブラッスールが満面の笑顔で「また会いましょうね、伍長」と言うのが捉えられ、その次の切り返しショットでは、伍長の顔がニカっとなっている。ここが本当に良い。さっきも少し話しましたけど、冒頭のバロシェと再会するシーンの笑顔も、相手から与えられるものとしての感情であり演技、そういうものにキャメラが向けられている。それは、ルノワールの映画を見ていてとても楽しいことの一つです。

濱口 三宅さんが言語化されたものは、そこまでわかりやすくカット割りされていない状況でも、おそらくあらゆるところで起きているのではないだろうか。

三宅 大雑把に言うと人物たちがそれぞれ勝手に動いているのが基本で、時に思いもしなかった反応が生まれてくる。笑顔とか。それを絶対にルノワールは撮り逃さないんだと思います。

濱口 ルノワールがある程度、即興的な演出をしているのは間違いないと思いつつ、今回『恋多き女』(1956年)などを見直して、『ゲームの規則』で確立した形式的な部分をより突き詰め、発展させた映画だと思うんですけど、本当に人がよく動く。そして、それぞれの演者が好き勝手やっているように見える。しかし、勝手にやっていてこんなに上手く収まるはずがない。そこには「精密な活気」を感じるわけです。一体どうやったらこんなものが映るのか。

坂本 『捕えられた伍長』でカフェのギャルソン役のジャック・ジュアノーという俳優は、『恋多き女』でイングリッド・バーグマンの婚約者の息子を演じています。いちばん破茶滅茶に動き回って、自分のお母さんになるかもしれないバーグマンにキスをする場面があったりする。ルノワールは彼のことが大好きで『フレンチ・カンカン』(1954年)にも使っています。彼のように動ける俳優の存在も大きいですよね。『ゲームの規則』だと密猟師を演じたジュリアン・カレット。逃げ回る彼の姿を見ているだけで楽しい。ルノワールの映画は、演技の質がまったく違う俳優を配することで、それだけ人間の幅が大きいということを見せてくれます。

濱口 本当にそう思います。結局、自分がキャスティングするとなると、真に多様な人物たちをキャスティングするのは相当難しいことだと思います。それこそ、脚本に強く要請されないかぎり、自分が付き合いやすそうな人ばかりを選んでしまう。もちろん、ルノワールもそうだったのかもしれないんですけど、ルノワールの映画における登場人物の多様さ、レイヤーの多さはすごい。

坂本 三宅さんはアルノー・デプレシャンの『二十歳の死』(1991年)について書かれた文章の中で『ゲームの規則』のことを「パーティー映画だ」とおっしゃっていました。そして、パーティー的な映画を撮れる監督として、他には侯孝賢監督の名前を挙げていらっしゃいます。三宅さんご自身の映画もパーティー映画ですよね。『夜明けのすべて』(2024年)では人物たちの多様さに驚かされました。

三宅 映画を熱心に見はじめた最初の頃にジャン・ルノワールの作品に出会ったのはとても大きかったと思います。その文章で書いたことですけど、学生の時にはじめて買ったDVDが紀伊國屋から出ていた『ゲームの規則』でした。そのリーフレットに野崎歓さんが、正確な引用ではないですけど、「現実の生そのものの厚みがスクリーンに祝祭感覚として溢れ出ている」というようなことを書かれていて、「これだ!」って思った。それが僕の映画作りの出発点の一つで、「自分も生の祝祭感覚を撮ってみたい!」と。ただですね、いざ真剣に他のルノワール作品を見てみると、「あれ、結構暗くね?」という印象も持った。まあ『ゲームの規則』も暗いんだけど、祝祭感覚って言葉に引っ張られていたと思うんですが、二十代の頃は、この暗さがよくわからず、モヤモヤした気持ちでした。今もまだうまく言葉にできないですけど、そのあたりが最近になってようやくわかりはじめてきた。たとえば、なぜこの映画では天気がずっと悪いのか。確実に天気が悪くなきゃいけなかったと思うんです。最後パリが晴れていたらきっと駄目だった。そして、大雨からはじめるその暗い雰囲気の中で、サイレント映画のようなコメディ演出がなされている。この二つのことの関係性が、切実なものとして、自分事として、ちょっとずつ考えられそうかな、という段階です。

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