質問者① 何度も見返すたびルノワール映画には発見があるというお話に関連すると思うのですが、公開されてからしばらくして、その魅力が発見される映画とはどのような映画なのでしょうか。

濱口 ざっくり言えば「曖昧な映画」なのではないでしょうか。「曖昧なものを含んでいる映画」です。これはある程度作り手が自覚的にやらないと、良い形で曖昧さというのは含まれないんです。決然とした意志を持って、「ここわからないんですけど」って言ってくる人たちを撥ね除けながら選び取らないと、曖昧なものは残せません。ある種の芯を持った曖昧さというものが存在する、と私は思うんです。
 それを含んだものは、時間を超えて理解された時に新たに眼差しを向けられて、発見される要素が多くある。自分にとっては、良い映画と言われている作品は大体そうです。例えばそれは『晩春』(1949年、小津安二郎)の原節子です。そういうものを見ると戸惑います。一回目で「いいな」って思えた経験というのは、実は極端に少ないかもしれない。そういうのは、見返すことで、本当に多面的な魅力を持つようになるんです。

三宅 曖昧というのは、実はあまりに厳密ゆえにそう思える、ということはあるかもしれません。例えば、悲しみと怒りのどちらかにすんなりハマるのではなく、その間の微妙なところを厳密に作ると、悲しみでも怒りでもない何かをはじめて目にする、それが曖昧なものに見えてしまうこともある、という。だから、「曖昧なもの」に対して、すぐに「つまらない」と評価を下してしまったら、そこで思考がストップしてしまうので、その引っかかりを忘れずにいることではないですかね。
 自分にとっては『イタリア旅行』(1954年、ロベルト・ロッセリーニ)が、なぜ傑作と言われているのかがずっと分からなかったのですが、20年ぐらいかかってやっと分かってきたということがあります。

質問者② ルノワールの自然や風景の撮り方について、お二人にお伺いしたいと思います。ルノワール映画の波打つ水面や風に揺れる木々を見るといつも感動します。こうした感動は、ジャック・ベッケルの『肉体の冠』(1952年)の川辺の場面などにもあるのですが、ほとんどルノワールの作品でしか得られない。それはなぜなのでしょうか。自然の撮り方が技術的に継承されていたりはしないのでしょうか。

濱口 技術的に継承できるものなのかどうかは分かりませんが、単に自然を撮ることであれば、実はある程度誰でもできるのだとは思います。しかし、その自然がルノワールやベッケルほどには感動的ではないのだとしたら、彼らの映画には自然の画以外の仕掛けがあるはず。一番わかりやすいのは『ピクニック』だと思うんですけど、「泣きそうになってしまう」と言うシルヴィア・バタイユを介することによって、より観客がそこにある自然を深く享受できるようになっている。『捕えられた伍長』でも、雨が降って水たまりがたくさんできた場所のぬかるんだ感覚は、そこを歩く人たちの身体を通してよりこちらに伝わるようになっていますよね。

三宅 「仕掛け」と聞いて、まさにそうだなと思いました。YouTubeに小津の実景ショットだけを切り出した映像があるんですけど、それを見ても、本編を見ている時の感動がない。前にどんなショットがあったか、その一歩前にまたどんなショットがあったか、そうした組み合わせの「仕掛け」で、初めて自然が立ち上がってくる、あるいはただの映像が「ショット」として立ち上がってくるのだと思います。

坂本 最後に私からもう一つ質問させてください。先ほどのフレームのお話と繋がると思うのですが、ルノワール映画における恋愛について二人のお考えをお聞かせください。

濱口 ルノワールが恋愛をどこまで描こうと思っていたのかは分からないです。ジャン・ルノワールがやっていたことは、常に、「言語化できない、形象化できない〈力〉を、いったいどうやって映画に定着させるか」ということだったと思います。例えば印象派の画家たちは、筆触分割によって、現実とはちょっと違う、いわばそれ自体抽象化された色を用いて現実を描くことで、それこそがまさに動きであり、時間であり、世界であるものを絵画上に再現した。ルノワールもそのように、さまざまな誇張された要素を使いながら、究極的にはある種の〈力〉を描くことに執心していたのではないでしょうか。恋愛というのはあくまでその一形態に過ぎない。ただそこには「人を所有したい」という極めて強い欲望と、必ずそれを規制する道徳や倫理などの規則が同時に存在する。その葛藤から〈力〉がもっとも生じやすい場の一つが恋愛、とも言えます。だから、ルノワールは「愛とは何か」みたいなことに関して興味を持って恋愛を描いたわけではなく、むしろ「この世界にある力」を描きたいというのが本丸で、恋愛はそれに最も適した題材の一つ、だったのではないか、というのが私の見立てです。

三宅 僕が今日のこの場で一番はっとさせられたのは濱口さんから出た階級という単語だったんですが、恋愛は、おそらく歴史的にたいていの場合は階級を越えていくものとして描かれてきて、もちろん階級の強固さを証明してしまうオチになる悲劇もたくさんあるわけですが、それでも恋愛はやはりいろんなものを当然のように乗り超える力強いものとして、もうたくさん証明されている。恋愛はそりゃフレームを超えちゃうよね、と。歯医者の場面で伍長とエリカが仲を深める場面はあっさり省略されて気づいたら当然のようにあの仲になってる、それぐらいのノリ。じゃあ、階級を超えた友情はあり得るのか。友情は恋愛より弱い力のものかもしれない、いや果たして本当にそうかという意味で、今回の『捕えられた伍長』でより切実だったのは、ラストの場面に見られるような友情、あるいはそのような共同体の実践や証明だったのではないか、と自分は受け止めています。

坂本 ありがとうございます。やはりルノワールの映画は今だからこそ見直さなきゃいけないと、お二人のお話をお聞きしてあらためて思った次第です。

三宅唱

1984年北海道生まれ。監督作として『夜明けのすべて』(2024)、『ケイコ 目を澄ませて』(22)、『きみの鳥はうたえる』(18)など。

濱口竜介

映画監督。近年の監督作に『偶然と想像』(2021/第71回ベルリン国際映画祭審査員グランプリ)、『ドライブ・マイ・カー』(2021/第74回カンヌ国際映画祭脚本賞、第94回米アカデミー国際長編映画賞)、『悪は存在しない』(2023/第80回ヴェネツィア国際映画祭審査員グランプリ)がある。2024年、映画に関する講演・批評等をまとめた著書『他なる映画と1・2』(インスクリプト)を刊行した。

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