濱口 今、安美さんがルノワール、侯孝賢、三宅唱をパーティーという観点から繋がれたわけですけど、それは本当に私も思っていることです。ジャン・ルノワールの映画を見ている時に、侯孝賢を思い出すことがあるし、三宅さんの映画の登場人物たちが多様に行動しているのを思い出す時もある。そこで「どうやったらこんなものが撮れるのだろうか」と単純に思うわけです。そして、そういうのが撮れる人たちは理由を明らかにしてくれない。でも、その本質はたしかに決して言語化できない何かだとは想像するんですよね。先に上映されたドキュメンタリー『規則と例外』の中で、「雰囲気を捉まえることを学ぶようになっていくんだ」とルノワールは言っている。それは映画を見ればわかる。けれど、具体的にどうやっているのか全然わからない。ただ、『ゲームの規則』をあらためて見直して驚いたのは、むちゃくちゃ複雑な動きが展開されるなか、カメラが180度パンすると、ルノワールが演者としてフレームの中にいて、もしかしたら出演者の演技を見ていないかもしれない、ということでした。少なくとも、自分が映っているショットのすべてを見るのは不可能なわけですよね。だとすれば、一体OKの判断はどこでしているのか。おそらく雰囲気と呼ぶしかないものであって、少なくとも視覚的なものだけではないわけですよね。とはいえ判断の根拠として、聴覚的なもの、音声的なものがあったというのは、大いにあり得るのではないか。基本的に我々は視覚的に物事を考えたり、配置したりしてしまうけれども、そういうものではない何かを掴もうと常にしていなければ、こういう映画づくりはできないはず。
三宅 『捕えられた伍長』だと、ベッドの上で三人が並んで話している時に、フレーム外から音楽が聴こえてくる。そういった音環境のようなものを、編集段階で後付けするのではなく、撮影前からフレーム外を準備して立ち上げている。
坂本 『浜辺の女』でも、冒頭のシーンでロバート・ライアンが悪夢にうなされている時に、外でハーモニカを吹いている青年がいて、その音が微妙に重なる描写があって、常に音の層があります。ルノワールの作品には音で見せて、映像で聴かせるといった側面がありますよね。
濱口 ルノワールは視覚表現に優れたサイレント映画をいくつも撮っていた人なのだけれども、それでもルノワールはトーキーが出てくるのを待望していた。サイレント期に活躍していた他の映画作家たちは、必ずしもトーキーの到来を喜ばなかったわけですが、ジャン・ルノワールはトーキーになることによって映画が完全なものに一つ近づいたと言っている。音響によってフレームの外を描くこと、フレームの外から音がして、その外にある何かに反応してフレーム自体が動いていく、それはルノワールが映画で世界を描くことでやりたかったことの一つであったのはたしかでしょう。
三宅 『捕えられた伍長』は実際の戦地の映像からはじまって、パリなどの各都市の状況がラジオの音声によって示されますが、その音が微妙に次の大雨の場面にまたがって、劇伴が変わるんですよね。その音のブリッジ。だから冒頭は、映像以上に、ダダダダダといった音からグッと戦争が入ってくるという感じがある。収容所では聴こえない、つまりフレームの外にある戦争の音がずっと響いているわけですよね。あとはやっぱりラスト。天気が悪いのは必然だし、あの川には船の音がずっと聴こえていなきゃいけない。FINが出た後も音が続く。
濱口 そうね。画が終わっても音は続く。
三宅 電車の音まで聞こえてきましたね。
坂本 あそこで終わるのが本当にカッコいい。
濱口 このラストを見た時は、胸を打たれると言いますか。「気高い」と思わずにはおれませんでした。
最後、なぜ曇っていなければいけないのか、ということですが、おそらく、最終的にゲームの中に帰っていく人たちの話だからだと思う。また捕らわれる可能性があるのはもちろん、なんだったら命を失う可能性があるところに彼らは帰っていく。もし仮にパリが晴れ渡って、ある種のゴールのようなものになっていたら、描こうとしているものに寄り添わないものになっていたのではないか。絶え間なく続いていくゲームの中に戻っていくということ、『ゲームの規則』のクリスティーヌもそうなんですけど、さっき言ったみたいに、「ゲームの規則」が、ある抑圧された例外的な力を生み出して、周囲の人間を傷つける結果を招く。ジャン・ルノワールは、そういう暴力性から目を背けたことがほとんどない。これは三宅さんが言った「暗さ」の理由の一つな気がします。『河』(1951年)でインドとアメリカのハーフであるメラニーという登場人物が「consent」という言葉で表現していますが、それは生まれてくる暴力や傷を受け入れ、同意したうえで、再びゲームの世界に参入していくということですよね。
三宅 今のお話を聞いていて、天気が悪くなければいけなかった理由もわかったし、その直前が例外的に晴れで、あの場面の寡黙な夫婦の重要性もわかるような気がするし、列車から降りた伍長の代わりに撃たれる男の不運と暴力の理由もよくわかった気がしました。凶暴極まりない世界でみんなギリギリ生きている。
坂本 先ほど三宅さんがおっしゃったように、ルノワールの映画には祝祭感覚とか官能の世界というイメージがあって、もちろんそれはルノワールの世界を形づくる要素の一つではあるのだけれども、それとは裏腹に、登場人物が絡みとられていく残酷さや、フレームの中で例外をいかに見出していくのかをめぐる闘争が常にある。ルノワールは自伝の序文で「映画の歴史、そして特にフランス映画の歴史は、ここ半世紀の間というもの、映画産業に対する作り手(作家)の絶えざる闘いに象徴される。私はこの勝利に輝く闘争に参加したことを誇りに思っている」(『ジャン・ルノワール自伝』西本晃二訳、みすず書房、3頁)とはっきり述べています。
三宅 戦い、というのは本当にそうだと思うんです。ラスト、画面が黒味になっても音が続くことで、フレームやスクリーンという境界線が一旦見えないものになる。でもどこかに境界線が存在する、ということをこの映画を通して経験してきたわけですよね。映画館の暗闇でルノワールの映画を見ることで、自分たちもその渦中にいるんだなと思うし、どういう境界線の中で自分たちは生きているのか、何と戦っているのか、何と戦わなければいけないのか、ということを意識させられるように思います。と同時に、いや、とはいえ一方で──うーん、この接続詞は何がいいのかわからないんですけど──映画を撮っていると、生きていると、楽しいこともいっぱいある。キャメラを向けると「わあ、こんなこと起きちゃった」という予想もつかなかったような面白いことがある。そういうもののために戦っている、なんて安直に言うとちょっとフォーカスがずれちゃうんですが、戦いとしての映画の中に、人生の中に、楽しいことも当然含まれるということを実践してくれているように思います。戦い続けた人と言えるような監督は他にもたくさんいると思うんですが、ルノワールのように楽しみや喜び、緩さとともに映画を作ったという人はあまりいないようにも思います。
濱口 戦いを継続し続けたジャン・ルノワールが、この映画で見せたような遊びの部分、ある種の緩みを持って物事を扱えるのが凄いということだと思うんです。このトークが始まる前、控室でお二人と一体どのようにしてジャン・ルノワールの映画を発見したのかというお話になりましたけど、自分は今かな、と。元々すごいとは思っていたんですけど、自分が認識していたよりも、遥かにすごかった。
見た後にすごく感動させられる一方、そのメカニズムが全然わからない。言ったように「脱走もの」としてはきわめて緩いんですけど、おそらくその緩さに本質がある。一つ一つのエピソードやショットが、いわゆるストーリーテリングに奉仕しておらず、それ自体で成立するようなものとして撮られ、それが並べられていくと、ある時急に登場人物が以前とは変化したように見える。バロシェなんかは特に変わっていく。それでも、なぜだかわからないけど、「この人はこういう人だったのかもしれない」と深い納得に至れるんです。そういう境界線のなさが、ルノワールの時間軸の中に存在している。ルノワールの映画は、強烈な一つの枠組みとして、見ている我々の人生に入ってくる。と同時に、はみ出してくる。
それで言うと自分は全然戦いが足りないなと思うんです。でも、ルノワール流にいくと、いつどこで急に誰と戦うことになるかわからない。そういう時が来ることを覚悟しながら、準備するように生きたいです。
坂本 ルノワールは『捕らえられた伍長』について、ジャック・リヴェットとフランソワ・トリュフォーが『カイエ・デュ・シネマ』で1962年に行ったインタビューの中で、「登場人物についての映画であり、背景についての映画ではない。私のヒーローたちは、彼らそれぞれの中に真実を秘めている。登場人物の発見にはちょっとしたサスペンスもある。臆病者なのか勇気のある人間なのか、などなど。私たちは彼らが何者なのか本当のところは知らない。実際、最後になってもわからない。人はしばしば自分たちが誰であったのか知ることなく死んでいく」と述べています。もしかしたら、その「何者なのか本当のところはわからない」という部分は、見る人から「なんだかよくわからなかった」と言われてしまうような理由になりかねないですよね。この人は良い人とか、この人は臆病者とかがはっきりしないから。
三宅 多くの場合、映画全体を支えているイデオロギーを表現する形で登場人物の心変わりが使われていると思うんですけど、ルノワールの映画では登場人物の心変わりと映画全体のイデオロギーがまったく関係ない。
濱口 そうですね。そして、若い頃はそれについていけないことも正直あった。迂闊なことを言いましょう。だからこそ年をとればとるほどジャン・ルノワールの映画は面白い。
三宅 お、言ってくれた! 多分ルノワールには、前の映画でやったことを「あれ、違ったんじゃねえか」って、例えばこの映画の場合、『大いなる幻影』のリメイクという側面においては、完成度を上げるというのではなく反省を込めて撮り直す、訂正する、といった意識があったのではないか。年をとる、これはコントロールできないことなわけで。凶暴な時間の流れを生きる過程では、変わっていくことも当然あるよね、と。
濱口 ごくシンプルに、『捕らえられた伍長』には、謎を含んだままの登場人物が多数登場している。とはいえ、単に謎なだけではなくて、謎を持った登場人物がある時に何かの傾向を示す。そうすると彼からこれまで自分が見ていたのと全然違う印象を持って浮かび上がってくる。それに気づくのが自分の年齢のせいなのか、単純に見返した時今まで見えてなかったものが目に入ったからなのかわからないけど、ルノワールの映画はその都度まったく違うように見えてしまう。見返せば見返すほど、登場人物の新たな顔が入ってきて、この行動をしている人とこの行動をしている人が同じ人だったということがようやくわかったりもする。年をとればとるほど、という言い方が正しいかはわかりませんが、見返せば見返すほど本当に面白くなっていくのがルノワールなんだなと思います。
坂本 『ゲームの規則』のオクターヴも見る度に印象が変わってくる登場人物の一人ですよね。公開当時、このオクターヴを演じたルノワールの演技が下手だと批判が集まったとのことですが、その「下手さ」、つまり登場人物と俳優との間のミスマッチこそがルノワール映画の面白さなのでは。
濱口さんの映画にもオクターヴ的な人物、「演技の下手」な人物が中心に置かれているところがありますよね。
濱口 「演技の下手」な人(笑)。たしかにオクターヴの見え方が毎回変わるというのは本当にそうですよね。最初はルノワール本人ということを意識させつつ、あれ、ちょっと他の人よりも演技が大きくないか、ていうか下手なんじゃないか、と見える一時期がありました。しかし、いやこれはむしろ狂言回しに徹しているのだ、とも思えてくる。そこを通過すると段々、キャラクターに備えられた深い悲哀みたいなものが見え隠れする。『黄金の馬車』なんかもそうだけど、演技とは何か、いい演技とは果たして何か、ということまで考えさせられてしまう。
ここで一つだけ付け加えると、私の映画では、むしろ「生きるのが下手」な人が中心に置かれがち、なのです。
三宅 そうですよね、『偶然と想像』(2021年)の渋川清彦さんが演じた教授とか生きるのが下手すぎるでしょう(笑)。
濱口 そうそう(笑)。ありがとうございます。
坂本 濱口映画の「生きるのが下手」な人、好きです。では、ご感想、あるいはご質問をお願いします。