パスカル・ボニゼール インタヴュー

重要なのはバルザックを映画に翻案することではなく、
映画をバルザックに翻案することです

取材・構成 田中竜輔、松井宏

ジャック・リヴェットの最新作『ランジェ公爵夫人』が岩波ホールにて公開され、そのリヴェットのほぼ全作品を上映するレトロスペクティヴが、フランス映画祭2008の関連企画として3月の半ばからユーロスペースと東京日仏学院で始まっている。このレトロスペクティヴ開催に合わせて、リヴェットのミューズであるビュル・オジエ、そして脚本家であるパスカル・ボニゼールが来日し、いくつかの作品の上映の機会に、私たちにリヴェットの創造にまつわる秘密を語ってくれた。
今回、その貴重な機会に重なったさらなる幸運として、パスカル・ボニゼールにインタヴューさせていただく機会を得た。自身も映画作家であり、かつては「カイエ・デュ・シネマ」において先鋭的な批評家として活動していたボニゼールの幾つもの興味深い話の中からひとまずここでは、リヴェットの作品としては例外的ないくつかの条件が重なったという最新作『ランジェ公爵夫人』についての談話部分をお届けする。

——『ランジェ公爵夫人』の企画はどのように始まったのでしょう?

パスカル・ボニゼール(以下P.B.):実際はいつものように始まりました、というのも我々の最初の出発点はバルザックの『ランジェ公爵夫人』の翻案ではなかったからです。ジャック(・リヴェット)が出発したのはまずジャンヌ・バリバールとギヨーム・ドパルデューと共に仕事をするという欲望で、そのためにまったく別の企画を考えていました。『来年、パリで』という一種のスパイもので、ちょっと複雑な形式を持ち、シナリオを書くのにもかなり苦労しました……。しかし我々の作ったこの企画の粗筋というか骨組みでは、資金調達の合意をどこからも得られませんでした。方々で却下されました。ただジャックはジャンヌとギヨームとの共同作業を諦めませんでした。彼らふたりもこの企画に非常に乗り気でしたから、別の何かを探すことにも賛同してくれました。

——バルザックの他にヘンリー・ジェイムズも候補にあったと耳にしましたが…。

P.B:ええそうです。バルザックと同じくヘンリー・ジェイムズは我々が幾度も立ち戻るレフェランスです。たとえば『美しき諍い女』では、バルザックの『知られざる傑作』と同様にジェイムズの『嘘つき』が主要なインスピレーションでした。今回は最初の企画が頓挫してから、ジャックは自分の慣れ親しむ作家に主題を求めたのですが、偶然というか必然というか、自宅の本棚を漁りながらこのふたりの作家に当たったわけです。結局はバルザックになりましたが……。つまり『美しき諍い女』では同時にジェイムズ<と>バルザックでしたが、今回はジェイムズ<か>バルザックだったわけです(笑)。こうして我々のエクリチュールの作業はかなり遅れて始まりました。ただ逆説的に、私の印象ではこの翻案作業はかなり速く進みました。私自身の新作の撮影も迫っており、時間も限られていましたからね。たしか決定稿——会話からなる持続的なかたち——までは3週間かそれ以下でした。

——『ランジェ公爵夫人』の撮影とあなた自身の監督作の撮影が重なってしまったという理由から、今回はリヴェットとの共同作業において初めて、撮影前に予めシナリオを完成させたわけですね。それによる変化は何かありましたか?

P.B.:きちんと形式化され、ページ数も定められた「完全な」シナリオがあったことで、役者たちを始め資金面のパートナーたちまで、全員が一種の満足を感じたようです。もちろんこれはジャックの他のフィルムにはなかった新しい感覚でしょう。今回は皆がちょっとした安心感のなかにいたのです。ただ逆にいつもの変わらなかったのは、シナリオの執筆の時間がかなり短かったことでしょう。その点に関しては、いわゆる一般的なシナリオ執筆とは相変わらず異なっていました。普通は数ヶ月、下手したら1年もの時間を要することもありえますからね。

——とはいえ撮影に参加できなかったあなたには…、ある種の不安や不満のような何かがあったのでは?

P.B.:ジャックが演出を開始する前に「完成した」何かがあるというのは、私にとってもある意味で一種の安堵でした。ただし撮影はかなり困難だったようです。なぜなら撮影中ギヨームが非常に不安定だったからです。台詞を覚える点での問題も含め、彼は非常に疲弊し、不安に囚われていたのです。おそらくその理由としては、時代ものを演じるということ、そしてモンリヴォーという非常に強烈な人物を肉体化することなどが挙げられるでしょうし、それから今回は「完全な」シナリオがあったことも…。『恋ごころ』の俳優セルジオ・カステリットがこんなことを言っていました。ジャックの映画作りの原理――つまり日に日に場面ごとにシナリオを発見してゆくやり方――というのは、大きな恐怖を俳優にもたらすのだが、同時に安堵感も与えてくれると。なぜならそこでは間違えることができる。不確かさに囲まれているがゆえに、間違える権利を持つことができるのです。ギヨームの場合はそうではなかったわけです。

——このフィルムはリヴェットにとって『嵐が丘』以来となる古典の翻案ですが、その作業はどのように進んだのでしょう?

P.B:リヴェットにおいて古典の翻案は初めてではありません。『嵐が丘』、それ以前にはディドロの『修道女』があります。おそらく『ランジェ公爵夫人』の翻案は『修道女』のそれにもっとも近いと思います。なぜなら『嵐が丘』はかなり自由な翻案でしたし、『美しき諍い女』にいたっては、舞台を現代に移し替え、原作とはまったく関係ない要素も多くあり、つまり完全に自由な翻案だったわけです。今回の原則は、コスチュームプレイを作りながらできる限り原作に忠実であることでした。それと同時にできる限りバルザックの作り出した会話を、彼の言語をそのまま用いる…、つまり重要なのはバルザックを映画に翻案することではなく、ある意味で、映画をバルザックに翻案することです。会話の場面が多いわけですが、非常に劇的な要素も数多く存在し、それらは難なく映画に移し替えられます。ただ同時にバルザックの文体が生み出す修辞的な描写も多くあり、また王政復古やアンシャン・レジームに関する考察、つまりランジェ公爵夫人のアヴァンチュールを通じて読まれる政治的な考察も色濃く存在するのですが、それらを映画に移し替えるのは不可能ですし、実際のところ興味に欠けるはずです。とはいえそれでも当時の社会の描写を入れようと努めました。ランジェ公爵夫人はこの社会にもっとも魅惑され、またもっとも魅惑を与える人物です…。私にとって問題だったのは、原作を読みながらこう感じたのです、これは確かに非常に美しく魅惑的な物語だが、しかし何も起こっていないと。もしこの書物をフィルムに移し替えるなら、おそらく何も起こらない物語を語ることになるだろうと思いました。前半部にみられるのは、モンリヴォーを待機させ、そして毎日拒否しつづける公爵夫人だけで、非常に単調です。やがて例の誘拐と脅迫が起こるわけですが、しかしその後はまたしても何もない。なぜならモンリヴォーは彼女を手に入れるためのチャンスを逸してしまうわけです。逆に数年後の出来事であるプロローグとエピローグは非常に劇的かつ映画的ですが、それらに枠取られた主要な部分では何も起こらないのです。我々の心配は原作に備わる緊張感を感じさせられるかどうかでしたが、同時に、説話自体に備わるこの不毛さに寄り添おうと努めました。これは今回の翻案に固有の困難でしょう。

——このフィルムの大半はフラッシュバックで成立しています。これは原作通りとはいえ、しかしリヴェット作品においては珍しいことです。

P.B.:バルザックは文学におけるフラッシュバックの発明者だとジャックは言います…。『地に堕ちた愛』にはフラッシュフォワードがあり、『セリーヌとジュリーは舟でゆく』にあるのは幻視でしょう、それがフラッシュバックに対応しています。そこで重要なのは過去の場面であり、それが反復して現れるからです。
つまり実際のところ彼は時間軸の混ぜ合わせを嫌ってはいません。ただ通常の意味でのフラッシュバック、つまり現在において進行する説話に過去の様々な瞬間を挿入するやり方ですが、それはバルザックの小説には当てはまりません。たしかにプロローグは主要な物語の5年後に位置していますが、しかしあれは説話の導入部です。だから『ランジェ公爵夫人』に関しては、決して「フラッシュ」という意味での、つまり現在の語りの内部における短い挿入という意味でのフラッシュバックとはいえません。その観点からみれば、ジャックはこの形式にまったく反対ではないのです。それと、この小説の説話形式から導かれたのはインタータイトルの使用です。そもそもこれはジャックがいままで多くのフィルムで好んで使ってきたものですね…。

——予め完成したシナリオと、できあがったフィルムとの間に差異はなかったのでしょうか?
たとえば現場でリヴェットが演出によってシナリオを書き直してしまうことなど…。

P.B:ジャックは完全には完成していない何かを愛する人間ですが、いちどシナリオに書かれてしまえば、それをどこまでも綿密に実現させようとする人間でもあります。『ジャンヌ』の撮影の際にそれを目の当たりにしたのを覚えています。シナリオのなかで私は、ジャンヌが囚われの身になった際、ブルゴーニュ公がサクランボを食べるという場面を書きました。しかし撮影当時サクランボを見つけるのはまったくもって不可能だったのです!なぜならあの頃フランスでは深刻なサクランボ不足で、ほとんどをチリから輸入していましたし、そもそもフランスに限らずヨーロッパのどこでもサクランボの季節ではなかった…。しかしジャックは固執しました。私には大した問題には思えず、代わりにイチゴでいいだろうなどと考えていたのですが(笑)、彼はどうしても拘り、最終的には蒸留酒用のサクランボを探しに行かせたのです。そのおかげで何度かのテイクでサクランボを食べ続けるうちに、俳優は完全に酔っぱらってしまいましたよ(笑)。まあちょっとした逸話ですが、「いちど書かれたもの」に対する彼の過剰な細心さがこれで分かるでしょうか。

——今回撮影に参加されなかったあなたにとって『ランジェ公爵夫人』はどのように映りましたか?

P.B:私にとっては何よりもまず、ひとりの演出家とひとりの俳優との驚くべき出会い、それがこのフィルムです。ジャンヌ・バリバールという女優に関しては、すでに彼女はジャックと仕事をしていますし、もちろんこの映画でも素晴らしい。原作のランジェ公爵夫人はとても若く、つまりジャンヌはこの役よりも少々年齢が高いが、それでもフィルムのなかでは目を見張るような存在となっている。だが真の驚きというか、このフィルム自体の力が因っているのは、ジャックとギヨームが出会い、作業したその方法だと思います。ギヨームは多くの不安と、そして暴力性とともに、モンリヴォーという役を何とか掴みとって我がものとし、それゆえに非常に大きな力強さをフィルムにもたらしたのです。撮影に参加しなかった私にとって、まったくの発見でした。彼にモンリヴォーを演じさせるというジャックのアイデアは本当に見事だったわけですし、ギヨームの演技自体もまったく素晴らしい。それに当時は、誰も彼と仕事をしようとは思わなくなっていた状況でした、なぜなら不幸にも、彼には「扱いにくい」という評判が立っていたのです。しかし今回の役によってこの俳優の稀有な才能が明らかとなり、彼のキャリアが再び開始されたと言えるでしょう。
(以下は本誌次号にて掲載予定)


(c) 2006 Pierre Grise Productions - Arte France Cinema - Cinemaundici

『ランジェ公爵夫人』
監督:ジャック・リヴェット
原作:オノレ・ド・バルザック
脚本:パスカル・ボニゼール、クリスティーヌ・ローラン
撮影:ウィリアム・リュプチャンスキー
出演:ジャンヌ・バリバール、ギヨーム・ドパルデュー、
   ビュル・オジエ、ミシェル・ピコリ
2006年/137分/ヴィスタ/カラー
4月5日(土)より岩波ホールほか全国順次ロードショー
配給:セテラ・インターナショナル
(c) 2006 Pierre Grise Productions - Arte France Cinema - Cinemaundici
公式HP:http://www.cetera.co.jp/Langeais/


『ランジェ公爵夫人』
集英社3月5日刊
著者:オノレ・ド・バルザック 訳:工藤庸子
定価1890円 本体価格1800円

ジャック・リヴェット レトロスペクティヴ 秘密と法則の間で
東京日仏学院(http://www.institut.jp/)にて開催中!(~4/27まで)

取材協力:セテラ・インターナショナル、岩波ホール