映画は何かにとって有意なものでありえるのか? もちろんありえる。ではつねに有意であるべきなのか?いや、かならずしもそうではなかろう。そして、たとえば『NINIFUNI』のなかにあるワンショットが立てる問いは、おそらく次のようなものだ。映画は有意なものでありえるがしかし、映画はまた徹底的に不真面目なものでもありえるのではないか? そして答えはイエスだと、その同じワンショットはすでに示す。
そのワンショットとは、この作品の基点となったというショット。砂浜で、死体のある車のなかから見えるアイドルグループ、という画である。文字にするとまるで今風の安手のホラー映画か何かの得意げなショットかと思われそうなので、もう少し書いてみる。夕暮れ時。車中で練炭自殺によって死んだ男(宮﨑将)の頭が画面手間に少し突き出ている。キャメラは車中にある。車のガラスを通して遠く、画面の中央帯あたりの砂浜にPV撮影中で踊るアイドルグループ(ももいろクローバー)がいる。そのさらに奥、夕焼けを反射した海の、砂浜に打ち寄せる波が見える。
実際ここにあるのはふたつの層ではなく、あくまでも3つの層だ(死体、アイドルグループ、そして波)。あるいは、やはりふたつの層だけがあると言った方がいいだろうか。つまり死体&アイドルグループの層と、波の層である。そしてこのショットの力学は後者の層、つまり波にこそあるのだ。というのも、そもそも「死体のある車の中から見えるアイドルグループという画」が極めつけの色物ショットになりえない理由など、どこにもなかろう。今風の安手ホラーでなくとも、それはかなりの可能性で過剰な効果や実効性狙いのイタイタしいショット(「どうだ、やってやったぜ!」的な)になろうものである。だが『NINIFUNI』がそんな事態から遠く離れているのは、そのショットの後景にたたずむ波のおかげなのだ。いや、より正確に言うならば、その波が体現する無関心さこそが、そのショットと作品全体を有意性だとか実効性だとかとは別の開かれた場に仕立て上げている。
これは物語設定にはほとんど関係がない。強盗を犯し、自ら死に場所を求めてさまよい、やがて自殺を成功させた男にとって、数十メートル離れた砂浜でPV撮影のため懸命に踊るアイドルグループなどもちろん関心の対象ではない。というか、そもそも死体なのだし。一方でアイドルグループにとっても、草むらに隠れる車なんて眼中に入らないわけだし、男が関心の対象になるはずなどない。あるいは映画史において数多に渡って都合よく利用され、豊穣な物語生産装置として、とりわけ1960年代あたりからだろうか、世界中の作品で機能させられてきた波がここで問題になっているわけでもない。「ざぶ〜ん」だろうと「さあ〜」だろうと「ばしゃ〜」だろうと、物語が、あるいは人物たちの心情がそのうえに種々様々描かれてきた波と、『NINIFUNI』の波とは、ごくごく単純に別物であって、ここでは男(死体)もアイドルたちも波に無関心だとさえ言えず、しいて言うならば波の方こそが彼らに対して徹底的に無関心なのである。
©ジャンゴフィルム、真利子哲也
重要なのはこの無関心さ、というものだ。それこそがこの作品における不真面目さである。ちなみに個人的に知るかぎり真利子監督は、眼前の対象に無関心な冷たい人間だとか、映画作りに対してとても不真面目だとかいうことはない。彼はただ真剣に自分の作品で無関心さをとらえようとするだけだ。たとえば、nobody35号で彼が語っていた「なんでもなさ」もまた、この無関心さの言い換えである。「『なんでもない』ことを表現したい場合、『なんでもない』カットを撮らなきゃいけない。『確かに何かはあるのになんでもない』風景です」。「『なんでもない』人の、『なんでもない』風景を撮りたかったんです」……。
「なんでもなさ」は、すなわち無関心さに他ならない。それをとらえるために用いたうなじショット(歩く男をうなじと背中から追うショット。彼の前方には風景が見える)は、件のワンショットと同じ力学に貫かれている。そのかぎりで、うなじはひとつの場となり、また波はひとつの手段となる。あのワンショットにおいて波は、男とアイドルグループを、さらにはショット全体を、ひとつの無関心の場に晒した。同じくあのうなじもまた、男の眼前に広がる風景を、さらにはショット全体をひとつの無関心の場へと変容させる。
だが、なんでもなさが目指すのが「日常っぽさ」でないように、無関心さは「自然らしさ」やら「ドキュメンタリーっぽさ」とはどうもあまり関係がない。不真面目なる作品『NINIFUNI』にとって重要なのは、つまるところフィクションなのである。なんでもなさにしろ無関心さにしろ、それは徹底的に不真面目であって、かつ結果的に意図も有意も欠いてしまうがために、フィクションとしか言えないものになるのだ。あるいは、その逆なのかもしれない。が、とにもかくにもフィクションこそが真理をとらえられる。それが真利子監督にとっての映画作りなのである。
波の蜂起とでも、あのワンショットが晒される無関心さをそう呼べばいいのだろうか。そのワンショットの舞台となった千葉県の飯岡漁港は、たしかに2011年3月11日に起きた東日本大震災の大きな影響を受けたと、真利子監督から聞いた。そして飯岡漁港が波に呑まれる動画があるのでYouTubeを見てみるといいですよ、と教えてもらった。同じように夕暮れ時。高台からロングの俯瞰。携帯電話のキャメラで撮影された2分ほどの映像だ。連日TVやインターネットで流されていた多くの映像同様、そこでもまた勢いある白い波が、本来ならやって来るはずのない場所を通過し、ボートなどを移動させている。たしかにそれほど大きくはない波(のように見えてしまう……)だとはいえ、その映像が一種のスペクタクルになってしまっているのは、そこで小さな人間がひとり、すぐ後ろに迫り来る波を間一髪逃れ(キャメラからの距離を考えると、それが本当に「間一髪」だったかどうか自信はない)小さく盛った高台に登る姿が見られるからだ。ちなみにその方は無事だったと、どうやら映像の投稿者らしき人物がコメントに記している。
そこに見られるのは文字通り氾濫=反乱する波。意図云々にかかわらず、その映像にはまさしく氾濫する現実が映っており、そのかぎりでこの撮影者はとても真面目である。そこに偶然撮影者がいた、携帯電話のキャメラを眼前の出来事に向けた、そしてそれが映った。これは疑いなく善きことであり、なんのためらいもなくわたしたちが受け入れるべきことだし、もしかしたらをそれを映画なるものに属するとさえ考えていいのかもしれない。『NINIFUNI』の属す映画とは別のものだが。
そう、この波とはまさしく現実的なものの氾濫であり、わたしたちは口をあんぐり開けてそれを見つめるしかない。けれど、それはすぐさまスペクタクルになりえる。現実的なものの出現はそのままスペクタクルの契機になる。有意と実効性にあふれた、したり顔のスペクタクル。このYouTube動画を見れば明らかだ。
『NINIFUNI』の求めるフィクションの真理とは、つまり現実的なものとも、そしてスペクタクルとも袂を分かつ。そのときの真理とはほとんど謎に近いなにかになるかもしれないが、それでいいのである。波はあるときにだけ律儀に人間へと氾濫を起こすのではない。波はぼんやりとだがたしかに、そして極めて不真面目に無関心に、いついかなるときも蜂起している(アッバス・キアロスタミの2003年作品『5 five〜小津安二郎に捧げる〜』は、おそらくそのこと以外なにも映していない)、そのなんでもなさこそが、どうやらわたしたちの生きているさま、そのものなんじゃないのかなと、そう『NINIFUNI』は言っているのだろう。そう、それってそういうものだ。
※本誌nobody 35号(2011年6月発行)掲載の文章を、少しばかり改訂して再録しました。