――『わたしたちの宣戦布告』が私たちを魅了するのは、この映画の音楽的な側面です。それは実際に流れている楽曲が素晴らしいということだけではなく、ひとりひとりの登場人物、あるいはひとつひとつのカットの持つリズムも含めてです。
ヴァレリー・ドンゼッリ(以下VD)音楽の構想はシナリオの執筆段階ですでに存在していて、どの楽曲を使うかもすでに決まっていました。冒頭のMRIの動作音が音楽のリズムへと変化するシークエンスもそう。楽曲の選択理由はそれぞれ異なっていて、ジョルジュ・ドゥルリューの「ラディオスコピー」はたまたまラジオで聴いて知ったものだし、オープニングに流れるフラストレーション Frustrationというバンドはジェレミーがトゥールーズでコンサートを見て発見したものでした。ジェレミーはとても音楽好きで、いつも私に音楽を聴かせてくれるんです。
――前作の『彼女は愛を我慢できない』(09)からすでに決定的な瞬間にはいつも音楽が重ねられていました。『わたしたちの宣戦布告』のなかでおふたりで歌うシャンソンはご自身で作曲されたものだと伺っています。
VD当初そのシーンではアンヌ・シルヴェストレの楽曲を歌うつもりだったんだけど、少し違うかもしれないとも思っていました。ここには愛の歌が必要だという気がしたんです。映画の準備段階だったある夜、寝ているときにはっと思い出して飛び起きたんです。「これだ」と思って曲を書き上げました、5分くらいでね。
――クリストフ・オノレのような作家を含めて、あなたの世代のシネアストたちは、同じフランス映画でもジャック・ドゥミの世代とは確実に異なった方法で歌を用いたシークエンスを生み出しているように思います。
VD『彼女は愛を我慢できない』や『わたしたちの宣戦布告』が、私たちの好きだった映画ーーたとえばジャック・ドゥミやフランソワ・トリュフォー、エリック・ロメールといったヌーヴェルヴァーグの映画や、さまざまなアメリカ映画ーーの影響を受けていること、そしてそれが当然の帰結であることに思い至ったのは、映画が完成した後です。私は歌というものを、感情を説明するために使っています。映画の中で、何かを愛しているとか何かに苦しんでいるということを直接言うのは、とても難しい。 演劇と比べてもはるかに複雑です。映画における歌とは、「生の感情」とでも呼べるようなものに言及することを可能にしてくれる何かなのです。『彼女は愛を我慢できない』では、私が演じたアデルが、去っていった恋人への想い、まだ彼を愛しているということ、あるいは新しい恋に落ちたということなどを歌っていました。同様に『わたしたちの宣戦布告』のこの歌も、彼らが愛し合っているということを宣言するひとつの方法なのです。
ジェレミー・エルカイム(以下JE) 人々はよくヴァレリーの映画を語るときに「ああ、それは何々を思わせる……」というふうに言う。フランスでは映画の中で誰かが歌を歌い出せば、ジャック・ドゥミのことが語られてしまう。それは絶対的なレフェランスだからね、当然だ。でもこの映画で僕がより興味を惹かれるのは、そのシャンソンの向こう側で起きることの方だよ。あるカップルがこの世で最も恐ろしいものを学んだ直後に、互いが愛し合っているということを宣言することだ。誰もそんなことは予測していなかっただろうね。この映画は人々を不意打ちするんだよ。
――あなたの映画には続けて映画作家のセルジュ・ボゾンが出演されていますね。
VD『わたしたちの宣戦布告』では、パーティーの場面ですれ違う人物を演じてもらいましたが、セルジュ・ボゾンはとても愉快な人です。私たちの友人のひとり、ジル・マルシャンーー彼もまた映画監督で、『彼女は愛を我慢できない』のなかでもある役を演じてもらっていますーーの従兄弟の妻がセリーヌ・ボゾン、セルジュ・ボゾンの妹なんですよ。
セリーヌ・ボゾンには前作の『彼女は愛を我慢できない』と『世界一美しい街の快晴 Il fait beau dans la plus belle ville du monde』(08)という短編で撮影監督をやってもらっていました。この短編は、もともとはゴンザレス Gonzalesというミュージシャンのためにシナリオを書いた映画だったんですが、彼は映画の中で演じるのを嫌がったんです。私はその企画をあきらめようと思っていたのだけど、そうしたらジェレミーは「ダメだ!君はその企画をやるべきだ。もしゴンザレスがダメならほかの奴を使えばいい」と私に言ったんです。そこで私はセルジュ・ボゾンではどうかと考え、彼が出演を承諾してくれてその企画は始まりました。セルジュにはこれからもずっと私の映画に出続てほしいと思っています。わたしたちの新作『手に手を取って Main dans la main』では、彼はジャン=ピエールというとてもおかしな隣人を演じてくれているんですよ。
――俳優が監督をした映画にいつも感じることがあります。『わたしたちの宣戦布告』ではより強くそれを感じたのですが、それは、どんなちっぽけな役の登場人物でも、それぞれの人間が最高の輝きとともにそこにいるということです。
VDそう、それは本当に重要なことです。なぜなら脇役というのは映画に実体を与えてくれる存在だからです。映画に実体を与えることは、主人公と呼ばれる人物の仕事ではないのよ。脇役が力強く演じることで、主人公たちはその場所につなぎ止められることを許され、彼らを愛することができるようになる。脇役たちを撮ることができなければならないし、彼らを撮ることを恐れてはダメ。自分の映画に出演する監督が、主要な人物たちだけしか映画におさめようとしない、というケースがしばしばありますよね。私はそれに反対です。あまり登場しない脇役たちこそ、しっかりと撮る必要があるのです。だって主人公たちは彼らとともに時間を過ごすんですから。
――ラストシーンでの、ジャクノ Jacnoの「レクタングル Rectangle」という楽曲が繋げられる演出がとても印象的でした。おそらく80年代の音楽だと思うのですが、この作品にとってはこの時代の音楽がとても重要な要素になっているのではないでしょうか。
VDわたしはこの時代のフランスの音楽がとても好きなんです。ちょっとポップ・パンクなフランスのグループがね。でも「レクタングル」はジェレミーがわたしに聴かせてくれたものでした。この曲なら映画のクライマックスに、そしてクレジットに流れる音楽として素晴らしいはずだと思いました。少し愉快なのは、レクタングルという名前が、わたしたちのこれまでの映画の製作会社の名前(Rectangle Productions)と同じことですね。ちょっとした目配せというところでしょうか。わたしたちが撮り終えたばかりの新作は『手に手を取って Main dans la main』というタイトルなんですが、これもジャクノの楽曲のタイトルなんですよ。
――その直前の浜辺のシーンではスローモーションが使われています。どこかウェス・アンダーソンの映画におけるスローモーションの使い方に近いように見えました。
VDこの映画を撮り終わってから、私たちの友人で、フランスで映画のプロデューサーをやっているシネフィルの友人にもウェス・アンダーソンの名前を出されました。これで2度目のことになりますね。このスローモーションのアイディアは、はじめはウエスタン的なものだったんです。
JEアクション映画としてこの作品を撮りたい、って繰り返し言っていたね。
VDそう。だから最後には目的を達成したカウボーイたちを映し出すような、そんなスローモーションで終わる映画が撮りたかったの。
――それとともに、このシーンにはフランソワ・トリュフォーの『大人は判ってくれない』(59)の浜辺でのラストシーンをを想起せずにいられません。アントワーヌ・ドワネル少年が目の前に広がる海に、これからの自身の未来を見つめていたように、『わたしたちの宣戦布告』の家族は3人のアントワーヌ・ドワネルとして海を見つめていたように思えました。
JE僕はフランソワ・トリュフォーを愛しているし、『大人は判ってくれない』は大好きなフィルムだ。でもこのシークエンスは、正直に言ってそういうものではないんだ。ヴァレリーはきわめて直感的な女性で、僕たちのように映画学校に通うことで仕事のやり方、自分の手法というものを学んだ映画監督じゃない。彼女は映画を出現させるために、ほとんど森の中で彫刻を続けるアーティストみたいに行動する。彼女には、熟考されたレフェランスだとか、他のシネアストへの目配せとしてのレフェランスはないんだ。まったく意識的なものではない。
実はこのシークエンスでは、僕らはほかの映画のことを考えていた。それは、チャップリンの『モダン・タイムス』(36)のラストシーンだ。人々がびっこをひいて進んでいる。経済危機の後で、強い暴力に晒された後で、それでも前に進んでいく。僕ら観客はそこにハリウッドの丘を見る。観客に背中を向けて、彼らは新しい人生の方へ、別の方角へと進んでいくんだ。
――決して意図的なレフェランスがあるわけではない、けれどもこのフィルムには確かにある種の歴史/記憶のようなものがはっきりと介在しているように思えます。
JEああ、その通りだね。驚くべきことだ。たとえばスコセッシやタランティーノのようなシネフィルたちのそれはとても複雑だ。彼らはある種の文法の主であって、彼らがレフェランスを用いることとヴァレリーのそれは違う。
自分の無意識の中にあるものを身に纏うというのはクレイジーなことだ。この映画の編集技師が、ヴァレリーについておもしろいことを言ってたんだ。「ヴァレリーはショルダーバッグのように無意識を斜め掛けしている」とね(笑)。
いまの話をしていて、シナリオを執筆していたときのことを思い出したよ。最後のナレーションを考えていたときだね。僕らは脚本を書くときいつも、お互いに書いたシナリオをやり取りしていた。彼女がそのシーンに書いてきたのは、フランス語では何も意味をなさない文章だった!「これはだめだ、フランス語になってないよ」と僕は言ったんだけど、後でよく考えてみると「これはフランス語ではない、でも面白い!詩的だ!」と思い至った。彼女は、「わたしたちは壊れた/わたしたちは頑丈だ」という相反するふたつのことを、同じフレーズの中で言おうとした。まるで「わたしたちは小さくてノッポだと」言うようなものだ。そんなことを言うことはできない。でもヴァレリーはそれを言おうとする。それがポエジーへと変化するんだね。
聞き手・構成=田中竜輔、結城秀勇
写真=鈴木淳哉