週刊平凡 [梅本洋一]

池部良も高峰秀子もノマドだった

2011年4月20日

 

 朝日新聞の夕刊で藤原帰一の連載が始まった。福沢諭吉にちなんだ「時事小言」と題されている。地震、津波、原発についての言説を追いながら、「わたし自身をとらえる通念や偏見をできるだけ突き放し、何ができて何ができないのかを考えること。それがこのコラムの目的である」と結ばれていた。後出しジャンケンではなく、現在形で思考することを宣言した誠実な文章だと思った。国際政治学者らしく、東西冷戦が終わった後も、言論が、いかに冷戦的な通念に囚われていたかを書き、「時事評論とは現在を語るものではなく、過去を現在に当てはめる文章の別名に過ぎないのではないか。書き手としては、それがこわい」と正直に書いている。

 政治家へのインタヴューを通じてオーラル・ヒストリーを実践している御厨貴は、「戦後」ならぬ「災後政治」という概念を提供している。曰く、3.11は、「戦後」に匹敵する出来事であり、「災後」とは明らかな転換点であり、ヴォランティアの数多さなどを見ていると、新たな公共性の概念が生まれつつある。政治史の側から、こうした出来事にアプローチした例は、後藤新平だろう。彼のプロジェクト型の実行力は参考になるだろうが、今、政治の世界に後藤は見当たらない。今後、世代交代の中で、後藤のような政治家がグループとして登場するような土壌を作ることが自らの役割だと、御厨は述べていた。

 もちろん後藤新平についての共著(『時代の先覚者・後藤新平』藤原書店刊)もある御厨が、台湾総督や満鉄総裁もつとめ、統治について常に為政者の側にあった後藤新平の長所も短所も理解した上での発言だろう。渋谷区の中学で学んだぼくは、表参道や外苑の誕生について「後藤新平の大風呂敷」として社会の時間に学んだのを思い出す。後藤新平邸は確かアントニン・レーモンドの設計だったし、結局はアンビルトに終わったが別邸の設計をライトに依頼していた思う。彼は有能なプロジェクト・リーダーでもあったけれども、表参道や自邸の設計をレーモンドに依頼したことなどを思い合わせると、極めてセンスのいい人だったわけだ。戦前の超エリートの時代にノスタルジーを感じても仕方がない。政治家にセンスを求める時代はずっと以前に終わっている。

 「災後」の三陸再生のために、御厨が後藤新平を持ち出すことを考えると、そのためにはオースマンのパリにおける都市改革と同レヴェルの作業が求められることになるだろう。だが、後藤新平もオースマンも過去の人だ。歴史から学ぶという作業はぜったい必要だが、その作業ばかりを繰り返しているだけでは、藤原帰一の言う「過去を現在に当てはめる」作業に過ぎない。「災後」という「事後」の時点から過去に遡行するのでは、釜石は、製鉄所の町、気仙沼は静かな漁港に戻すしかあるまい。震災以前の渦中の釜石製鉄所は、著名ラグビーチームを手放さなければならないくらいに低落していたし、気仙沼を始めとする漁港のダメージは計り知れない。歴史から学びはするが、「地域の意見」を聴取するが、無くなったものを懐かしむというノスタルジーに浸っていては、「事後」のヴィジョンを想像することさえできない。昔は良かった。震災以前の、原発事故以前の昔の時間を取りもどせ、というスローガンしか生まれない。「以前」の時間とは、堤防に守られて、安全神話に守られて、原発と束の間の共存が可能だった時代のことだ。だが、それらのすべてが再審に付されたことだけはまちがいない。だから、戻れない。昔には戻ることができないのだ。

 最近、池部良や高峰秀子など昨年亡くなった往年の名優の文章ばかり読んでいる。池部良なら『江戸っ子の倅』、高峰秀子なら名著の誉れが高い『わたしの映画渡世』などだ。ローレン・バコールやイングリッド・バーグマンなどハリウッド女優には素晴らしい自伝が数多くあるし、ぼくはジーン・ティアニーの『Self-Portrait』やジョーン・フォンテーンの『No Bed For Roses』といった自伝も大好きだ。それにくらべると、最近、素晴らしい自伝を出版した岡田茉莉子といった例外はあるけれども、池部良や高峰秀子のような文章を書ける俳優は、日本映画において極めて少ない。池部良の比喩の適切さには舌を巻くし、高峰秀子の、題名そのままを表したようなドスの利いた文章は爽快だ。

 そうした例外的な映画俳優の自伝から言えること。彼らにはいろいろなことが起こっているということ。同じ場所に同じ人々と暮らしているだけでは決して起こらないような、多様で、多彩で、嬉しくも悲しくも素晴らしくもあるような素敵なことがたくさん起こっているということ。もちろん戦争もあったし、映画俳優という職業柄、いろいろな人の人生を生きる必然性もあったけれども、それ以上に、過去を肯定するのではなく、現在で過去を乗り越えて、過去に縛られないこと。そんな潔さが、彼らの文章のエンジンであるように感じられる。ちょっと撮影所が嫌になれば、パリにでも逃げる。最初はちょっと気分が乗らなくても、人に勧められたものを初めて食べてみると、これがすごくうまいことが分かる、などなど、自分自身に拘ることなく、一瞬、一瞬を冒険の時間に変えていく。どっしりと腰を落ち着けるのとは反対の、尻軽で身軽で、変幻自在。こういう感じを、昔、ジル・ドゥルーズは「ノマド」と呼んでいたと思う。

 三陸の再生のヴィジョンのひとつとして「ノマド」はどうだろう? 定住はやめる。丘の上ならいいかもしれないが、低地は、遊牧民(ノマド)のパオだ。身軽で可動的で、すぐさま引っ越すことができ、たとえ津波に流されたとしても、たかがテントだ。ぜんぜん平気。それに何よりも、テントに執着する人もいないだろう。財産なんて関係ないさ。船から下りてテント作りの家へ帰る。どうだろうか?

 

松島でブイヤベース!

 本当に多忙で更新が滞ってしまった。「週刊平凡」じゃなくて、これじゃ「月刊平凡」になりそう。やばいぜ。

 数日前の朝刊にこんな記事が載っていた。「トゥールダルジャン」や「ロオジエ」といった有名フランス料理店の看板料理長が、交代で福島県郡山市の避難所を訪れ、自慢の料理を振る舞っている。在日期間の長い親日派フランス人たちで、「温かな料理で被災者たちの心を温めよう」と発案した。/在外フランス人連合や在日フランス人シェフ・パティシエの会などの企画。郡山市の青年会議所が協力した。3日から9日まで東京や大阪から計14人の料理長が毎日2人ずつ料理を持参。1日3001500食を提供している。/8日は午後6時すぎから郡山養護学校など2カ所で、ロオジエの元総料理長ジャック・ボリーさんたちがブルゴーニュ地方特産のワイン煮込みやプリンなどのメニュー計350食を提供。避難所の人たちは「こんな所でこんな本格料理が食べられるなんて」と笑顔を見せた」(朝日新聞朝刊4月9日)。ブルゴーニュ特産のワイン煮込みは、ブッフ・ブルギニョン(http://www.lesfoodies.com/paul/recette/boeuf-bourguignon)だろう。伝統的なフランス料理を伝えた資生堂パーラーのロオジェを長年率いたジャック・ボリーにしてみれば、スペシャリテではないかもしれないが、ビーフ・シチューとブッフ・ブルギニョンは違うんだぜ! という味をみせられたろう。朝日の記事の「トゥールダルジャン」のシェフは、ドミニク・コルビで、彼は今、銀座のシージエム・サンスのシェフだ。彼が作ったのはアッシェ・パルマンティエ。(http://www.lesfoodies.com/mimirocksy50/recette/hachis-parmentier-8)どちらの料理もフランスの伝統的な家庭料理だ。

 前々回、避難所で1週間もすれば美味しいものを食べたくなる、という趣旨のことを書いた。そして、避難所の滞在はもう一ヶ月を越えている。先の見通しさえつかない状況。仮設住宅以前に、まず瓦礫を退かさねば……。それよりも、低地に仮設を建てれば、また津波の被害が予想される。では、いったいどこに? 否、問題なのは、復旧でも、復興でもなく、再生。でも、再生計画を策定するためには、まずコンセプトが必要。宮城県の復興計画が新聞に掲載された。最初の3年は復旧……。広大な地域でいくつもの都市が消えてしまったのだから、問題は大きい。誰もが、地域の意見を参考に再生計画を、と言うが、地域の人たちは今も悲しみに打ち拉がれた人が多く、仕事もなく、家もなく、家族を亡くした人が多いわけで、明日の暮らしをどうするかという問題がまず横たわっている。老人たちは住み慣れた場所に必ず戻りたいと例外なく発言する。

 まず美味しいもの、という発想は悪くない。「プロパンガスや機材を運び込み、熱々の、温かい料理や甘いスイーツで喜んでもらおう。イタリアン・銀座「ヒロソフィー」ヒロ山田さん/スイーツ・六本木「Toshi Yoroizuka」鎧塚俊彦さん/鮨・青山「海味」長野充靖さん/和食・恵比寿「賛否両論」笠原将弘さん/中華・「MASA'S KITCHEN47」鯰江真仁さん/イタリアン・丸の内「クラッティーニ」倉谷義成さん/ラーメン・護国寺「ちゃぶ屋」矢島丈祐さん/ラーメン・広尾「玄瑛WAGAN」博多「麺劇場玄瑛」入江瑛起さん等多くのシェフたち、お店のスタッフの皆さん総勢30名ほど集まった。参加は出来ないけど、料理だけでも…とイタリアン・南青山「リストランテ濱崎」濱崎龍一さんからは、ミートソース/イタリアン・京都「京都ネーゼ」森 博史さんからは、ガトーショコラ/イタリアン・名古屋「Issare shu」水口秀介さんからは、サーモンマリネとミネストローネをご提供いただきました」(http://ameblo.jp/chef-1/entry-10843858528.html)。イタリアン、中華からラーメンまで各国料理の料理人たちも被災地に足を運び、料理を作っているらしい。重要なのは、おにぎりやパンといった「配給品」みたいなものではなく、「レトルト食品」を配るのもなく、「炊き出し」というよりは、ケータリングに近いもの。これは重要なことだ。避難所だからといって、避難所に相応しい料理ではなく、本当の料理でしかもおしいものを、その場で作って、避難所のみんなにふるまうということ。

 ブッフ・ブルギニョンやアッシ・パルメンティエを作る発想は悪くない。なぜなら、これら2種類の料理は、一皿ずつ供されるものではなく、ある程度の量を作っておき、分配可能だからだ。どちらも赤ワインに合うし、まだ寒さが残る避難所には適切な献立だと思われる。よく調べてみると、フランス料理の企画は、「在日フランス人シェフ・パティシエの会」の企画だと言う。その会のサイトを覗いてみると、ベルナールやアンドレ・パションの名前があり、彼らが運営の中心にいるらしい。パションさんのスペシャリテであるカスレもふるまわれたのではないだろうか。(http://saku1115-clavicle.blogspot.com/2010/12/blog-post_8745.html)フランス大使館から国外退去勧告がなされ、多くのフランス人たちが、祖国に「逃げ帰った」中で、長く日本に住むシェフたちがいち早く行動したことは評価してよい。ブッフ・ブルギニョンにせよ、アッシ・パルマンティエにせよ、カスレにせよ、東北地方にはマッチングする料理だろう。漁業が再び行われるようになれば、三陸地方はブイヤベースをはじめとする魚介類の一大センターになり、フレンチやイタリアンのレストランばかりではなく、素晴らしいオーベルジュをつくる可能性だってある。たとえば松島にはかつては素敵なホテルもあったけれど、今は思い当たらない。日本三景のひとつで、しかも、海産物に秀でた場所。こんな素晴らしい海浜リゾートは滅多にない。

 テレビの映像は、瓦礫とヘドロで埋まり、ところどころにクルマや船が侵入した平地を見せるが、その向こう側にある海は、黒い壁が迫ってくるような津波の映像とは正反対の、今は、静かで本当に美しい。「ブラタモリ」のCG合成のように、海のこちら側にある被災地の映像を別の何かに置き換えてみよう。どんな映像がいいのか? おそらくそれを夢想してみることが、復旧でも復興でもなく、再生を思考する第一歩かも知れない。この美しい海とリアス式海岸に似合うのは、伝統的な日本の漁村ではない。コート・ダジュールのようなリゾート。ぼくが知っている場所だったら、ヴィル=フランシュのような崖に別荘やホテルが建ち、海岸線にはヨットクラブと漁港があるような……。こんな映像について書くと、不届き者だ!と言われるだろうか? 松島、石巻、気仙沼などの海岸線がこれほど映像に映し出されたことはなかった。伊豆から熱海に通じる国道135号線を通ると、ぼくは、いつもモナコを思い出す。熱海の街に入ると、寂れていて悲しくなる。風景にこんなにポテンシャリティがあるのに、それに溶け込むようなリゾートができないだろうか? もちろん仮設住宅から始まって、産業の再生、街の再創造……いろいろな問題が目白押しなのは分かっている。でも、こんなデスティネイションはどうだろう?

 松島の小さなオーベルジュ。日本三景の海岸を望む小高い丘の上にあるそのオーベルジュの庭で、地元で採れた魚のブイヤベース。ゆっくりと太陽が山陰に入っていく。海は少し向こうにあって、波音が遥かに耳に届く。辛口の白ワインがうまい。きっといつかそんな夏の夕方を迎えてみたい。

 

 

青山真治への手紙

 2011年3月23

 

 青山、俺を泣かせないでくれよ!

 『東京公園』を試写で見た。まだ緑豊かな代々木公園の中でカメラを構える三浦春馬。コンタックスのアナログ・カメラのレンズが向けられる先に、乳母車を押しながらスックと歩く井川遙。初めて青山と組む月永雄太のキャメラが捉える空間を目にしただけで、このフィルムが備えている無限大の力を感じる。秋の代々木公園を背景にモノクロの写真がたくさん並べられてスクリーンを被っていく。すごく奇麗だ。試写が始まる前に読んでいたプレスシートに青山のインタヴューが載っていて、『シルビアのいる街で』を観て、自分もこういう作品がやってみたいな、と言っている。ここまで見ただけでも『シルビアのいる街で』よりもずっといいよ。だって『シルビアのいる街で』は、映っている映像が、まるで映画作家の心象風景に見えたけど、この映画の映像は心象風景じゃない。代々木公園という外部と、乳母車を押す井川遙という外部がきっちりと映像に収められている。小路幸也の原作(読んでいない。明日、本屋に寄って買うつもりです)のラストには『フォロー・ミー』に捧ぐ、とあるらしい。トポールが、ロンドンの街をさまようミア・ファーローを尾行する映画だ。だが、トポールは、だんだん身を隠して尾行するのをやめ、ミア・ファーローを追い越して、彼女にロンドンの街を発見させようとする。

 確か中学生のころだったか、私立探偵のことをprivate detectiveというのだけれど、private eyeともいうと習ったと思う。「私的な目」、なるほど「私立探偵」にふさわしいなとも思った。だってみんなが見ているものと、ちょっと異なる自分だけの標的を見ているわけだ。尾行という仕事について、こんなに適切な表現はない。

 ずっと後になって演劇史を勉強していた大学院生のぼくは、フランス演劇が専攻のくせに、指導されていた安堂信也さんの差し金で現代イギリス演劇の授業を取るように言われた。担当していたのは東京女子大から非常勤で来ていたコールグローヴ先生だった。ぼくの他にその授業を取っていたのは、全員英文科の大学院生で、授業も英語でやっていた。毎週シェイクスピアの戯曲を1本ずつ英語で読んできて、それをピランデルロ、イプセンやストリンドベリと比べたり、同時代のジョン・フォード(映画の人じゃない方)やクリストファー・マーローたちと一緒に読んだりする授業で、大変だったけどすごく面白かった。「ヨウイチ、キミハサッキカラchangementチェインジメントトイッテイルガ、ソレハフランスゴデ、エイゴデハchangeダケデイイノダ」などと、とりあえず英語だろうとフランス語だろうと知っている外国語を全部ごちゃ混ぜに喋る変な奴がぼくで、英文科の諸氏からは物笑いの種だったろうが、ぼくなりに必死だったんです。

 書きたいのは、ぼくのおバカな大学院生活なんてものじゃなく、そのコールグローヴ先生の授業で、ある回に、Peter Shafferって人のPublic Eyeという戯曲を読んでこいという宿題が出たことだ。「センセイ、ソレハマチガイデハナイデスカ? ソレハPrivate Eyeデアッテ、Public Eyeナンテヒョウゲンハナイノデス」とウメモトくんは中学の時に偶然知ったに過ぎない知識をおバカなことにアメリカ人の英米演劇の大家の前でひけらかしたのでした。おお恥ずかしい!コールグローヴ先生は、寛大な人で、「ヨクソンナヒョウゲンヲシッテイルナ! デモ、コノギキョクハPublic Eyeナノダ。Private Eyeノヒョウセツナノジャ。ダカラ、Shafferガ、Private Eyeトイワズニ、Public Eyeトヨンダリユウヲ、カンガエテキタマエ」と仰った。ぼくは紀伊国屋の洋書コーナーに走って、ピーター・シェイファーの戯曲集を手に入れ、早速、この一幕物を読んだ。知っている話だった。なんだ、これ『フォロー・ミー』じゃん。トポールが探偵で、ミア・ファーローが暇でロンドンに馴染めないアメリカ人の人妻役立ったやつ。トポールは、妻の浮気を疑った、ファーローの夫に妻の尾行を頼まれるのだが、ある日、役柄が入れ替わり、トポールの後をファーローがついていくというもの。映画と戯曲ではいくつか差異があった。それはともあれ映画は1972年、そしてこの戯曲のロンドン初演は1962年。ファーローの役を舞台で演じたのは若い日のマギー・スミスだった。

 コール先生(当時、彼のことをみんなそう呼んでいた)の宿題について考えてみた。もちろん探偵は当初Private Eyeとして姿を現さないのだが、ある時から決心して姿を現すことにする。だからPublic Eyeになった、みんなに見える存在になった、というのが正解だろうし、もともとPublic Eyeは2部作で、他方はPrivate Earというタイトルで、共にマギー・スミスが演じていた。でも、そんな解答じゃ単純すぎる。もっと良い答はないのか? 舞台版じゃちょっと分からないけれど、映画版だと、トポールが姿を現してPublic Eyeになった瞬間から、ロンドンの街全体が見えるようになる。私的な空間から、とても広い大きな空間へと映画が変わっていく。つまり、風景が私的な心象風景から、もっと広くて多くの人たちを同時に包み込むようなものに変容して、その中で、人々もまた変わっていく。だからPublic Eyeになるんじゃないか。といったようなことを、つたない英語で述べたぼくはコール先生にちょっと誉められて有頂天。おお恥ずかしい!

 青山、俺を泣かせないでくれよ!

 三浦春馬の義理の姉を演じる小西真奈美がいい。阪本順治の『行きずりの街』の彼女も良かったけれども、この映画ではもっといい。一緒に見ていたNobodyの高木佑介は、あんな女性に人生をめちゃくちゃにされたい、と言っていた。男なら、みんなそう思うかも知れない。大島の絶壁を正面に見据えて涙を流す彼女の横顔が良い。「姉さんを撮りたい」という三浦春馬に、「化粧をしてくる」と言って、メゾネットの上階に上がり、再び降りてきて、こちらを見据える彼女にぞくぞくする。振り向く彼女の眼差し。ファイダーを通じて小西を正面から見据え、しばらくして、ファインダー越しではなく、生身の眼差しで彼女を見つめ、その三浦春馬を見つめ返す小西真奈美がすごくいい。決定的な瞬間を携えて、そして、それを乗り越えて、並んでソファに座るふたりの眼差しが良い。

 それにしても、青山、いつから女性をこんなに美しく撮れるようになったんだ? 今までは、どちらかと言えば、浅野忠信、光石研などの男性を素敵に撮ることに秀でていたけれども(もちろん、『月の砂漠』のとよた真帆や『サッドヴァケイション』の板谷由夏という例外はあった)このフィルムに登場する主要な三人の女性──小西真奈美、榮倉奈々、井川遥──の姿を最高に美しくフィルムに残せただけで、この映画は大成功だ。まるで成瀬巳喜男のように……否、ちょっと違う。このフィルムの中の榮倉奈々はすごいシネフィルで、いろんなことを映画の比喩で表現するんだが、『東京公園』を考えると、どうも映画の比喩がピンと来ない。

 確かにこの映画は最初の方こそ、ちょっと複雑な物語を、適切なモンタージュで語りながら、映画が繋がっていくのだが、次第にモンタージュの力よりも、ショットそのものの力とショットの内部にいる俳優や女優たちの力の方が大きくなっていき、だんだん長いショットが増えてくるようだ。台詞だって、最初は不自然に聞こえていたけれども、少しずつ不自然さが感じられなくなり、あえて不自然な台詞を自然に語る語り口が記憶に残るようになる。多くは順撮りで撮影されたそうだが、最初は勝っていた編集による映画の論理が、ゆっくりと俳優、女優の論理に場所を明け渡し、最後には、風景の中にいる俳優たちを見つめながら、彼の言葉に耳を傾けているぼくらがいる。三浦春馬と一緒に彼のバイト先の店長を演じる宇梶剛士の話に一緒に耳を傾けるぼくらがいる。

 榮倉奈々の演技はどうだ! 三浦春馬に救いを求めて、彼の家にやってくるシーンを涙なしで見つめることのできる人などいないだろう。ぼくらもまた、三浦春馬と一緒に彼女を静かに受け入れようと思う。目の前にいて、変わっていく人たちをしっかり正面から見つめ、彼ら、彼女らの変化を、しずかに肯定して受け止めようとするぼくらがいる。おそらく、これは映画監督の眼差しと同じかも知れない。否、映画監督の眼差しばかりではないだろう。人と風景の前に立って、その微細な変化をも見逃さない繊細な眼差し。

 おそらく、こうした論理は映画だけの論理を越えている。素晴らしい映画とは、映画だけの論理を越えて、常に別の何かと結びつき、映画の領域を広げてくれるものだ。青山真治の次の仕事は舞台演出だと言う。この映画を見ていると、彼が次第に舞台演出に接近する様を見ているようだ。 

 それにしても、このフィルムを見ていて、ぼくはいっぱい涙を流してしまった。青山、ありがとね。舞台も期待しているよ。

 

Smile by Elvis Costello

2011316

 

 『ヒアアフター』が上映中止になったという。もちろん東北関東大震災の影響だ。『ヒアアフター』のサイトには、「本編内には本震災を連想させる内容があり、この度の震災被害の被害状況を鑑み、上映を中止することにしました」とある。(http://wwws.warnerbros.co.jp/hereafter/news/)こうした自粛は、自粛の連鎖ででもあるかのようにいろいろな場面で見られる。樋口泰人のように急いで劇場に駆けつけ、もう一度『ヒアアフター』を見る律儀な態度が正しい態度だと言えるだろう。(http://www.boid-s.com/archives/2615887.html)樋口泰人も書くとおり、このフィルムは「事後」の映画であって、まさしく、震災に被災し、死に対面した人たちのこれからが語られている。人と人とが、大きな災禍の後、どうやって結びついていくのかこそ、この映画そのものであり、そして、今、被災地にいる人たち、そしてぼくらの現在と未来である。

 このフィルムを見たばかりのぼくにとって、ここ数日、テレビで放映される映像は奇妙に既視感のあるものだった。『十戒』をはじめ海が真っ二つに砕けるような映像は、「映画で」何度も見たことがあったからだ。もちろん南三陸市や宮古市を襲う津波の映像は、『ヒアアフター』の冒頭の映像よりも凄かった。当たり前のことだが、未曾有の津波の大きさは、プロフェッショナルが撮影したものでなくても、視聴者撮影の映像でも十二分に伝わってきた。避難所にいる老婦人も瓦礫の山を前にして、まるで戦争映画の戦後の映像を見ているようだ、と語っていた。戦争も津波の体験したことのないぼくらは、現実に起こった周囲の出来事に既視感を感じるとき、「まるで映画のようだ」と嘆息する。映画を現実を測る基準にしてしまう。「映画のように」世界を見てしまう。セルジュ・ダネーがずっと前から語っていることだ。

 「事後」ではなく「渦中」の映像は、徹底して物語を欠いている。信じがたいくらいの大きな波が押し寄せて、有無を言わせず、すべてを呑み込んでいく。視聴者の撮影したそうした映像の背後には、事象を解説する物語などない。怒声や叫声、言葉にならない音声──それらも津波の怒号のような大音響にかき消されていくだけだ。そんな物語を欠いた悲惨な映像を「我欲が招いた天罰だ」と解説する知事が、ぼくらの東京の代表者であることを、ぼくは心から恥ずかしく思う。一度、口に出した言葉は撤回しようが謝罪しようが元に戻るものではない。まして、ぼくらは彼の口からそんな言葉が出るのに呆れてしまうと同時に、彼ならばそんなことを考えているのだろう、と納得してしまう。しかし納得してはいけないのだ。彼が立候補を表明した日に地震と津波が起こった。4月10日が東京都知事選挙であることをぜったいに忘れないでおこう。

 悲嘆、哀惜……そんな言葉ばかりが気になる。ぼくの知人のスポーツライターは気仙沼出身だが、まだ近親者の安否が分からず涙する場面が映る。阪神大震災のときもそうだったが、直接ではないけれども、知人から少し辿れば、被災している方々の固有名に行き着く。ぼくの知人の妹さんの安否が分からないでいるわけだ。南三陸市、陸前高田市、宮古市、気仙沼市、大船渡市、そして釜石市……人人との関係は連鎖していく。テレビのモニターの向こう側で「重油が足りません。ガソリンがありません」と訴える人たちとも、ぼくらは関係を持っていることになる。そして、地震と津波が発生してから5日目。乾パンと水でもつのは2日、カップ麺でもつのは5日という中井久夫の言葉を読んだばかりだ。彼は1週間すると美味しい食事をしないと精神的に苦しいと書いていた。被災地で公民館に集まり、小さなコミュニティを作り、いろいろなものを持ち寄って自主的に食事を作っている人たちが報道されていた。瓦礫を燃料に、鍋を乗せ、暖かい味噌汁とごはんが美味しそうだった。「箸一本もなくなった。残ったのは命だけ」と険しい顔を向ける老婆と、おばさんたちが作った味噌汁とごはんをいただき、優しい笑顔を向ける消防団のおじさんたちは対照的だった。

 そう、その地震から、津波から5日間経過した。避難所の生活の苦痛を訴える人々の背後で、互いをつつき合いからかい合い、ジャンケンを始める子どもたちの映像が見え始めた。会津若松市で放射能測定をし、被曝していないことを確認して「安心しました」と語る父親の両側で、父親の手を片手で握り、もう片方の手で、微笑みながらVサインを出し続ける男の子のやんちゃそうな兄弟が映っている。『ヒアアフター』の冒頭から、映画は、アッバス・キアロスタミの『そして人生は続く』に移ってきたようだ。被災者たちは、丘の上に大きなアンテナを立てて、W杯の中継を聴こうとしていた。被災している人々だって、W杯のフットボールの実況を聴くことで、別の世界と繋がっている。周りには確かに多くの死があった。けれども水は少しずつ引いていった。瓦礫の間を、細い道路が通うようになった。もうカップ麺はつまらない。暖かいご飯を美味しいおかずと味噌の香りが漂う味噌汁が欲しくなる。フットボールはどうなっているんだろう?長友は元気かな?インテルは自粛なんてしていなかった。腕に黒い喪章は巻いていたけど、精一杯のゲームをしていた。「少しでも元気を与えることがぼくの仕事ですから」と長友佑都は微笑んでいた。「がんばろう!神戸」と書かれたヘルメットを被ってバットを振り続けたオリックス時代のイチローを思い出す。スマイル!

 朝、勤務先へ向かうクルマの中で聴くラジオから、エルヴィス・コステロが唄う『スマイル』が流れてきた。「スマイル/君のハートが痛んでいても/スマイル/君のハートが壊れかけていても(……)/スマイル/泣いていてなんになるだろう/君が微笑みさえすれば/人生にはまだ価値があるって分かるだろう」とても単純な歌詞だ。でも、いい唄だった。

 

久しぶりに『秋日和』を見た

3月7日

 

 移動中の電車や地下鉄の中、眠りにつく前のベッドで、ずっと池波正太郎の『銀座日記』を読んでいた。池波正太郎の時代小説は一作も読んだことがない。だが、グルメ雑誌で「作家の愛した店」などが特集されるたびに、この人の名前が目に入るし、池波正太郎の弟子に当たる佐藤隆介の『池波正太郎の食まんだら』(新潮文庫)も最近読んだので、その続きで、本家本元の『銀座日記』を読むことにした。

 とても哀しい本だった。新富寿司、与志乃といった寿司屋、山の上ホテルにある天ぷら「山の上」、神保町の揚子江菜館、日比谷の慶楽……試写に通い、買い物をする傍ら、ひとりで入った店々が記されている。もちろん「うまい」だろうし、「うまそう」だ。だが、ひどく哀しい。なぜか。

 『銀座日記』は1983年から88年の間に、煉瓦亭やみかわやの入口に置いてある、あのタウン誌「銀座百点」に連載されたものに「新銀座日記」が加わり、新潮文庫版『池波正太郎の銀座日記』(全)となって出版されたものだ。日記である限り、すべては○月○日で始められているが、○に数字は入っていない。ある月のある日だ。読者は、暑いとか雪が降るとか書かれていることから、○の中に適当な数字を放り込むしかない。試写会で映画を見て──『銀座日記』が執筆されている頃、ぼくはもう映画批評を始めていたので、池波正太郎と同じ日に同じ映画を見ていることもあった──、銀座に出たついでに溜まった買い物をし、夜になるとメシを食う。それだけのことが書かれている。もちろん、毎年2〜3度は、お茶の水の山の上ホテル(「作家のホテル」として有名。昔は、缶詰になって書かされるのは決まって山の上ホテルだったという)に連泊することもあるし、行き先が神谷町にある試写室だったりすると、食べ物も銀座ではなく、虎ノ門と神谷町の間にある著名なそば屋だったりもする。つまり、書かれていることはそれだけなのだ。

 極めつきの単調さがこの日記の特長だ。池波正太郎は、膨大な数の作品を残した「小説職人」なのだから、銀座に出ずに、家に籠もって執筆だけする日もあったろうし、もちろん「銀座百点」に連載されていたのだから、銀座に行った日だけを記述しているのだろうが、新宿や渋谷や池袋には赴いた気配が感じられない。そして、何よりも単調さを際立たせているのは、食べに行く店を新に開拓しないことだ。常に同じ店に赴き、同じものを食べている。

 誰だって街に出るとそんな単調さを逃れることはなかなかできない。池波正太郎の『銀座日記』を単調だ、と断定するぼくもまた、試写等で銀座に出ると、必ず慶楽か三州屋で昼飯を食ってしまう。昼飯を食って、映画を見た後、MUJIの有楽町店を覗いて、Banana Republicに行って、ついでにその前にあるUnited ArrowsJournal Standardに寄ることもあるけれども、「食べログ」を前日に入念に観察し、ブログまで読み込んだり、ブティックからバーゲンのDMが届かなければ、けっこう同じ店を周遊してしまう。だから、きっと池波正太郎ではなく、ぼくが「銀座日記」を書いても、ひどく単調な内容になるだろう。人間って変わっていくのは難しい動物なんだな。昼食をとるためには信じがたい数の店があっても、結局は同じ店に入ってしまう。次は新たな店に入ろうと思っていても、不味かったらやばいよな、せっかく近くまで来ているんだから、と考え直して、慶楽で炒飯ランチを注文したり、三州屋でミックスフライを注文したりしてしまう。

 だが『銀座日記』がひたすら哀しいのは、その単調さによってのことではない。むしろ単調さは、保守的ではあっても、つまり日常を勇気を持って変えていくのではなく、既知の日常を反復するという意味ので保守的ではあっても、それは哀しいことではない。哀しいのは、その単調さを反復することができなくなることだ。

 かつて、おいしく食べられたものが、身体に入らなくなり、否、身体が受け付けなくなり、身体的な衰えによって、保守的な反復が次第に不可能になっていくこと。哀しいのはそのことだ。かつては容易に可能だったことが、だんだんできなくなっていき、疲労を感じるのが早くなり、タクシーで帰宅するのが自然だと感じられるようになる。おそらくそれを老いというのだろう。まず、洋食屋に入ってフライをつまみにビールを飲んでから、仕上げにハヤシライスを食べるなんてことができなくなり、酒量が次第に減り始め、酒そのものを身体が受け付けなくなっていく。老いていくとはそういうことだ。『銀座日記』は、だから、池波正太郎の『老いの日記』でもあるだろう。

 久しぶりに小津安二郎の『秋日和』を見た。久しぶりと言っても半年ぶりくらいだ。妻がアンチヘブリンガンって覚えてる?と聞くので「なにそれ?」「『秋日和』で出てくるらしいよ。何度も見てるんでしょ!」ということで、確かめることになったからだ。ぜんぜん覚えてなかった。DVD(持ってるんだ!)をセットして、いかにもこの映画はカラーですよ!って強調するみたいに「秋日和」の「秋」だけが、赤い字で書かれている。キャスト、スタッフ、そして「監督 小津安二郎」の文字でもうKO!次の青空に東京タワーでもうダメ。涙で潤んで見えない……。そうか、アンチヘブリンガンってここか。覚えてなかったな。それにしても、東京タワーはいいなあ。スカイツリーばかりが話題の昨今、東京はやはり東京タワーでしょう!「むかしパリで一緒に見たときも、この辺りでもう泣いていたよね」

 「秋日和」のタイトルで「秋」が赤い字で書かれていて、快晴の空に東京タワーがすっくと立っているだけで泣けてくるのは、しょうがないことだ。避けられない。パブロフの犬と同じような反応だ。初めてこの映画を見たときは、この映画の司葉子よりも若いときだった。原節子の爪とマニキュアばかりが気になった。そして年月が流れて、今では、このフィルムに登場する、お馬鹿な中年三羽がらす(佐分利信、中村伸郎、北竜二)と同じ年代になった。なんとうことだろう。このフィルムを初めて見てからもう30年以上経ったということだ。それにしても、なんということだろう。このフィルムに映っている東京の若々しさは! 丸ビル、東京中央郵便局、赤い無数の郵便自動車、その向こう側の高架を走っていく湘南電車、それに向かって手を振る司葉子と岡田茉莉子。太平洋戦争が終わり、東京オリンピックをすぐ先に見据えた若い東京がある。そして、小津安二郎は、このフィルムで、彼が戦前に数多く撮った岡田時彦の娘と出会い、彼女を「お嬢さん」と呼ぶ……。そして、なんということだろう。小津は、この後、『秋刀魚の味』を撮って、この世を去る。彼にも、まちがいなく老いが迫ってきている。このフィルムの佐分利信や中村伸郎や北竜二の年齢がちょうど当時の小津の年齢。つまり、ぼくの年齢。老いの迫った小津の見る東京の若さ。それが『秋日和』だ。

 老いをドキュメントした池波正太郎の『銀座日記』の対極に、自らの老いを感じながらも、それを笑い飛ばし、ひたすら東京の若さを見つめた小津安二郎がいる。

 

My Funny Valentine

2011年2月15日  

 恥ずかしながら──ぜんぜん恥ずかしいことじゃないけど──初めてミッドタウンに行った。倉俣史朗とソットサスの展覧会を見るためだった。ちょっと楽しみにしていたので、雪が残っている午前中に家を出た。倉俣史朗の名声について論を待たないが、エットーレ・ソットサスについても、個人的な思い入れがある。フィリップ・ド・ブロカの映画に『おかしなおかしな大冒険』(1973)という作品があった。ベルモンド扮する売れない冒険小説家が、小説を書いているうちに自分の作品の登場人物になり、大暴れするおバカな作品。大好きだった。実生活ではモテないんだけど、小説の中ではすごくモテる。共演はすごく綺麗なころのジャックリーン・ビセット。ジーンズをカットオフしたミニスカートが良かった! ベルモンド扮する小説家は、常に机の上のタイプライターを打っている。「なるほど、小説家ってのはタイプライターで小説を書くのか!」(http://www.pariscinema.org/fr/2004/cycles/belmondo.html)20歳のぼくは思った。ぼくもタイプライターが欲しい。カタログを集めた。映画で出てくるタイプライターよりも格好いいものが見つかった。オリヴェッティのカタログだった。機種の名前はヴァレンタイン。名前もいいね。その機種のデザイナーがエットーレ・ソットサスだった。パリに住んでいた頃、論文を書く必要があり、最初に買ったタイプライターは、もちろんオリヴェッティのヴァレンタインだった。

 中目黒から地下鉄に乗り換えて六本木で降り、そのまま地下を通ってもミッドタウンに行けるようだったが、わざと昔の誠志堂があったあたりの地上に出て、交差点を俳優座の方に渡り、左折してミッドタウンに向かった。交差点の三菱銀行はそのままだが、周囲の店舗はすっかり変わっている。かすかな記憶を辿ると、この辺りに、「レオス」という名のユダヤ系のデリカテッセンがあったように思う。ぼくがデリカテッセンという言葉を覚えたのも、その店がきっかけだったような気がするんだけど……。初めてその店を覗いたときは、何も買わなかったけれども、カッテージチーズの入ったサラダや多種多様なソーセージなどがあったのを覚えている。

 初めて六本木に行ったのは高校時代だった。60年代の末期のことだ。高校があった外苑前からバスに乗って日比谷に映画を見に行った。青山1丁目で右折し、六本木の交差点に向かうバス。それから飯倉片町で左折して虎ノ門、新橋を経て日比谷まで通っていた。確か晴海行きだったように思う。六本木の交差点の停留所に止まると、前にはGOTO FLORISTと英語で店名が書かれた花屋があった。もちろん、これは今でも健在な高級な花屋GOTO FLORISTだが、花屋のことをFLOWER SHOPではなくFLORISTというのだと初めて覚えたのが、その屋号を記した英語を見たときだった。つまり、DELICATESSENでもFLORISTでもいいけれども、六本木は、英語の看板ばかりが溢れた街だった。当時の高校生には足を踏み入れることもできなかった気がする。そして六本木を過ぎると、狸穴という奇妙な地名のバス停があり、右に郵政省、左にソ連大使館があった。

 もちろんミッドタウンがあるのは、旧防衛庁の敷地だったし、「レオス」のことは知らなくても、旧防衛庁のことを覚えている人はたくさんいるはずだ。六本木の交差点から青山1丁目方面に向かうと、自衛隊の詰め所みたいなところがあって、大きな門の向こうはオフリミットだった。戦前からこの辺りのことを知っている人は、ここの記憶は完全に陸軍と結びついているだろう。今は新国立美術館になっている旧東大生産技術研究所(糸川英夫氏のロケット開発に関わるページにこの研究所の写真が掲載されている。http://www.isas.jaxa.jp/j/japan_s_history/chapter01/01/index.shtml)だって、旧歩兵第三連隊兵舎だった。東大の生研で働く友人のいたぼくは、ここの駐車場を彼の名前を使って何度も使っていた(六本木の真ん中に無料で駐車できる場所を知っているのは、かなり便利なことだった)し、中庭はテニスコートになっていて、六本木のど真ん中でテニスをしたことも何度もあった。

 この外苑東通りを六本木から青山一丁目方面に向かうと、すぐに左折するグリーンベルトがある道路に出るが、この道が、旧歩兵第三連隊兵舎へのメインストリートだったわけだ。だから短い道のわりに立派な幅を持っている。旧東大生産科学研──つまり、旧歩兵第三連隊──にクルマで行くと、そこから先が突然左折し、細い降りの道になっていることに気がついた。この辺りは龍土町と呼ばれた場所だ。龍土軒という1900年創業のフランス料理店があった。ここに集った柳田國男を中心にした龍土会というグループがあって国木田独歩や島崎藤村などが、文学談義を戦わせた場所だそうだ。今でも龍土軒は存在している。まだ食べたことはないけれど、左折した細い通りは、ぼくらにとって龍土軒のある通りではない。星条旗通りと呼ばれる道だった。敗戦後、当然のように歩兵第三連隊兵舎は、米軍に接収される。ミッドタウンの敷地を合わせた広大な場所にハーディー・バラックスと呼ばれる米陸軍の広大な基地が生まれたのだ。次第にこの基地の土地が返還され始め、東側が防衛庁になり、西側の一部が旧東大生研になったわけだ。だが、星条旗通りの名はそのまま今も続いている。なぜこの通りが、星条旗通りと呼ばれているのか? 簡単なことだ。この通りに星条旗新聞社があるからだ。

 星条旗新聞とはStars and Stripes──星条旗のこと──と呼ばれる米軍機関紙だ。その狭い道路の左側に星条旗を掲げ、鉄条網に囲まれた何の変哲もないモダンなビルの星条旗新聞社はある。その周囲は、今ではちょっと寂れてしまったが、バブル以前は六本木のお忍び場所といった感じで、ちょっと素敵な店が揃っていた時代もあった。ぼくが、高校生時代に見た六本木がまだ保存されているような感じ。六本木に米語が氾濫したのは、ここに基地があったからだ。次第に返還されたとはいえ、星条旗新聞社はずっとあり、さらに、その後方には麻布ヘリコプター基地がまだある(http://home.att.ne.jp/sigma/azabu/jittaitop.html)。米軍基地の問題は、普天間や辺野古ばかりではない。東京23区の港区の問題でもあるわけだ。ぼくらは、高校時代、「Yankee, go home !」と叫びながら何度もデモをして、でも、大学生になると龍土町のヤンキーが集まる店でもちょっと遊ぶという実に矛盾に満ちた生活をしていたことになる。そこからはちょっと離れているが、ロアビル近くには、ジャズスポットの「ミンゴス・ムジコ」があって、安田南が出ると必ず聞きに行ったものだが、ある晩のライヴは、何とアニタ・オデイが出演していた。昔は、こんな小さなスポットにも一流中の一流のミュージシャンが出ていた。確か『Live at Mingos』というアルバムになっていると思う。よく考えてみれば、70年代まで、六本木全体がまだオキュパイド・ジャパンの雰囲気を呼吸していたのかも知れない。

 六本木ヒルズの森美術館(自分のビルの上階にある美術館に自分の苗字を冠するなんてすごく恥ずかしい。自分の苗字を付けるときは、死んでから功績が称えられるときにするものだ。○○メモリアルといった具合に)と、旧東大生研跡地にできた国立新美術館と、ミッドタウンのサントリー美術館を結んで、六本木アートトライアングルと呼ばれているが、その中心には、立派に米軍のヘリコプター基地と星条旗新聞社があることを忘れてはならない。六本木アートトライアングルの三角形の内部には、二二六事件(この事件の中心には歩兵第三連隊がいた)から、米軍が進駐する日本、そして、六本木ヒルズやミッドタウンなどの東京の再開発の問題まで、全部の歴史が詰まっている。

 東京ミッドタウンは、六本木ヒルズよりも高いミッドタウン・タワーがありながら、周囲にも複合的に高層建築が建てられ、タワーそれ自体が自己主張をしていないためか、(もちろん構造的な同じだろうが)それほと威圧感を感じる場ではなかった。森ビルと三井不動産の差異かもしれないし、いろいろなカムフラージュのために、ミッドタウンに動員された隅研吾をはじめとするデザイナーの力が、威圧感を押し隠しているのもしれない。モールを抜けて、倉俣史朗とソットサスの展覧会が行われているミッドタウン・ガーデンを目指す。デザイン的にちょっと素敵な橋が道路をまたぎ、ミッドタウン・ガーデンを含む檜町公園に続いている。昨夜の雪が嘘のように空が広く、そして青い。そこここに残る雪が、ここが東京の中心であることを忘れさせてくれる。

 安藤忠雄設計の21_21 DESIGN SIGHTは悪くない。広場に貼り付くような湾曲する広大な屋根とガラスによる透明な壁。ガラスには残っている雪が反射して眩しい。ゆっくりと公園を横切って21_21 DESIGN SIGHTに近づいていく。人影がほとんどない。入口にたどり着くと「火曜日、休館」の文字が目に入る。また出直すしかない。

映画とはスタイルの問題である限り、モラルの問題だ

2011年2月7日

 

 数日前の新聞の訃報欄に、マリア・シュナイダーが亡くなった記事が載った。死因はガンだったという。もちろんアントニオーニの『さすらいの二人』やリヴェットの『メリー・ゴー・ラウンド』もあるけれども、マリア・シュナイダーと言えば、誰でも思い出すのが、ベルトルッチの『ラスト・タンゴ・イン・パリ』だろう。前回、横浜のクリフサイドに触れ、そのとき『ラスト・タンゴ・イン・パリ』のダンス・ホールと似ていると書いた。マーロン・ブランドとマリア・シュナイダーが、大きなダンス・ホールでタンゴを踊る場面があったからだ。あれはパリのどこでロケされたのだろう。セットだったかも知れない。

 「ねえ。パッシーでアパルトマンを見つけたの。四部屋の」と公衆電話で告げるマリア・シュナイダーは、黄色の超ミニのワンピースに、花飾りの付いた黒い帽子を被っていた。マーロン・ブランドとマリア・シュナイダーが裸体で交合するこのフィルムは、指にバターを塗るマーロン・ブランドの姿がスキャンダラスなものになったが、見る者に印象的なのは、ふたりの裸体よりは、ふたりが身に纏う衣裳だ。一時期、マーロン・ブランドが『ラスト・タンゴ』で着ているラクダ色のコートのような色──といったような表現が多くのシネフィルたちの口に上ったこともあるほどだ。撮影監督ヴィットリオ・ストラーロによる照明と色彩設計が本当に見事だった。(http://www.dailymotion.com/video/xg9dzt_theme-from-last-tango-in-paris-1972_shortfilms

 それはとても不可思議なフィルムだった。たとえばブランドとシュナイダーは、ビルアーケム橋の上で出会い、ふたりはセーヌ左岸からパッシーの方、つまりセーヌ右岸へと渡っていく。シュナイダーは、見つけたアパルトマンの前に立ち止まる。映像をよく見ていると、アパルトマンの壁にはRue Jules Verneと記載されている。不思議だ。ジュール・ヴェルヌ街というのは、パッシー近郊には存在しない。メトロのベルヴィル駅から西にふたつほど行った場所だ。ベルトルッチの昔のフィルムには、この種の地理的な壊乱が多い。『暗殺の森』にも出てくる。クルマがセーヌ川を左岸から右岸の方に渡ると、今、オルセー美術館になっている場所に近付く。これまたセーヌ川を横断するのはビルアーケム橋である。ヌーヴェルヴァーグのフィルムなら、きっちりと地理的な道順が守られるのだが、ベルトルッチのフィルムになると、編集によって、一続きの街路であるはずの場所が、実は10キロ近くも離れた場所であったりもする。これはベルトルッチのヌーヴェルヴァーグに対する態度表明であるかもしれない。

 ベルトルッチのヌーヴェルヴァーグに対する態度表明は、『暗殺の森』や『ラスト・タンゴ・イン・パリ』の地理的な壊乱にばかり現れているわけではない。たとえば『革命前夜』では、そんな態度表明が何度も繰り返される。「20年後にアンナ・カリーナは、現代のルイーズ・ブルックスになるだろう。彼女が時代の象徴になるんだ。それこそ映画の奇跡だね。1946年を象徴するのに『三つ数えろ』のハンフリー・ボガートとローレン・バコールのカップルを越えるものなどないだろう。ぼくは映画を2回続けて見ることがよくあるよ。『めまい』は8回。『イタリア旅行』は15回見た。ぼくは、ヒッチコックやロッセリーニなしでは生きていけないんだ。レネやゴダールは逃避的なフィルムを撮ると言われているが、『女は女である』はデ・サンティスやロージよりも政治的な関わりを持つフィルムなんだ。映画というのはスタイルの問題なんだ。スタイルというのはモラルの問題だ。トラヴェリングはモラルの問題だというね。ニコラス・レイは360度のトラヴェリングを使用した。映画史上最大のモラルの問題、政治的な関わりの瞬間だった。ファブリッツィオ、ロッセリーニがいなければ生きていけないことを忘れるなよ」。(http://www.youtube.com/watch?v=hLw91ylsJrk)ビリヤードの玉が当たる音が、切れ目なく聞こえるカフェで、恋に悩む友人のファブリッツィオ(フランチェスコ・バリッリ)にお構いなく、そうまくし立てるチェーザレ(モランド・モランディーニ)。チェーザレの言葉は、そのまま「カイエ・デュ・シネマ」に集った50年代の若いシネフィルたちのものだ。それは『暗殺の森』や『ラスト・タンゴ・イン・パリ』よりも、もっと直截でもっと素直にヌーヴェルヴァーグの継承を表している。なんか素直で好きだな(もっとも、ぼくらの若者時代そのままで、ちょっと恥ずかしくもあるけど)。

 ところでチェーザレを演じているモランド・モランディーニは俳優ではなく、本物の映画批評家だ。1947年、23歳のときにシネクラブを作り、その後、La Notte紙に映画評を書き続けた。その後、いくつものフェスティヴァルのディレクターを務め、何冊も映画辞典を刊行している。『ジョン・ヒューストン』、『エルマンノ・オルミ』といったモノグラフィーも書いている。御年86歳。未だに現役の批評家である。

 『革命前夜』は本当に若々しい映画だった。もちろん黒沢清の立教大学時代の伝説的な作品『逃走前夜』というタイトルは『革命前夜』のパスティッシュだろう。蓮實重彦の『映画崩壊前夜』だって、『革命前夜』というタイトルがなければ存在しなかったろう。それに原題のPrima della rivoluzioneプリマ・デッラ・リヴォルツィオーネという音もとても素敵だ。記憶に残るのはモランド・モランディーニばかりではない。このフィルムのヒロインを演じたアドリアナ・アスティは、ベルトルッチと一時結婚していたこともあったはずだ。イタリアの劇場のゆっくり落ちていく照明。ベッドの上で、両足を露呈させて座るアドリアナ・アスティ。もちろん、そこにある青春と映画の物語も感動的ではあったが、それ以上に、「映画というのはスタイルの問題だ。スタイルの問題である限りモラルの問題だ」というモランド・モランディーニの発言がそのまま映画になったような作品だった。

 でも『革命前夜』とはいったい何の前夜なんだ? 「革命」なんてやってこない。オリヴィエ・アサイヤスが、伝説的な革命家カルロスの生涯を追った長大な作品『カルロス』を見ていると、カルロスもまた決して革命を生きたわけではなく、その前夜を、ずっと継続する革命前夜を生き続けただけのように思える。来るべき革命を信じ、その前夜を華々しく生きているうちに、革命などどこかに雲散霧消してしまう。革命という祭がやってくることなど決してなく、知らぬうちに革命への渇望が終息し、革命の後にやって来るはずの白けきった平坦な時間の中で、生きる術を失ったカルロスがいる。きっと『革命前夜』を信じていたベルトルッチも、『暗殺の森』、『ラスト・タンゴ・イン・パリ』、『ラスト・エンペラー』と革命を待ち続け、『シャルタリング・スカイ』でポール・ボウルズにYou are lostと言われてから、カルロスと同じように、革命後の時間を生きるしか術がなかったように見える。結局『ドリーマーズ』のように、革命をノスタルジックに語るしか方法がなくなってしまったようだ。

 マリア・シュナイダーは、「あの映画に出演しなければよかった」と、数年前のインタヴューで語っていたそうだ。あの映画のスキャンダルがその後の彼女のキャリアに大きな傷を負わせたことはまちがいない。『愛のコリーだ』に出演した松田英子も同じだろう。でも、『愛のコリーダ』にせよ、『ラスト・タンゴ・イン・パリ』にせよ、「革命前夜」を生きたフィルムは、今でも輝いている。

 

もう「占領下」ではなくなった

2011125

 

 赤木圭一郎主演の『霧笛が俺を呼んでいる』(山崎徳太郎、1960年)の冒頭にも登場したことで、ある種の横浜を明瞭に伝えているバンド・ホテルが閉館して10年以上経った。学生たちと横浜の「国際ホテル」について調べている。ホテル・ニューグランド、シルク・ホテル、そしてバンド・ホテルが大桟橋近くの「国際ホテル」に当たるだろう。豪華客船が大桟橋に到着すると、乗客たちは、それら3軒のホテルの客になったという。渡辺仁設計のニューグランドは健在だが、坂倉準三設計のシルク・ホテルは、ホテルとしての営業を休止してかなりたち、バンド・ホテルは取り壊されてドンキホーテになっている。その3軒のホテルについて学生たちと調べてみると、そのうち2軒がなくなったのは、他の理由もいろいろあるものの、横浜が国際貿易港としての役割を終え、港周辺に「国際ホテル」など必要なくなったことがもっとも大きな原因だ。ホテルよりも客を呼べるのはドンキだ。唯一営業を続ける「国際ホテル」であるニューグランドにしても、学生たちが関係者にインタヴューしてみると、外国人の客などもうほとんど来ないのだ、という。「国際色豊かな横浜」なんてもう存在しない。ちょっと残念だけど……。

 バンド・ホテルについて調べてきた学生が、横浜ローカルのケーブルテレビ局から、ある番組が収められたDVDを借りてきた。「横浜ミストリー」という番組だ。「ミステリー」じゃなくて「ミストリー」なのが、古い横浜っぽい。赤木圭一郎や石原裕次郎による「日活無国籍アクション」のほとんどの舞台が横浜だった。ナヴィゲーターの女性と、老紳士が港の見えるレストランで、赤ワインで乾杯している。そこへウェイトレスがスープを持ってやって来る。今回の「ミストリー」は「ハマジル」(「浜汁」?)というわけ。ぼくの年代なら、「ハマジル」は「横浜ジルバ」であることなど知っている。老紳士の案内で、「ハマジル」の謎が次第に解き明かされるというのが番組。しばらくして、この老紳士の名前がテロップで出る。ウィリー沖山さん。ウィリー沖山さんは、日本のヨーデルの第一人者(http://www.youtube.com/watch?v=lt09kSqY0cI)にして、ジャズ・ヴォーカリスト。ヨーデルとジャズを一緒にやっているってどういうことだろう。スイスでもなく横浜でヨーデル唄うってどういうことなのか?さすがに「無国籍アクション」の街、ヨコハマだ。このウィリー沖山さん、ウィリーというファーストネイムがあるのだから、アメリカ人の二世なのかというとれっきとしたジャパニーズ。Wikipediaによれば、1933年、横浜生まれとあるから御年77歳。

 この年齢の芸能界の人々は、なぜ英米系のファーストネイムを持っている人が多いのだろう。ディック・ミネ、フランキー堺、バッキー白片、フランク永井、ケーシー高峰(ちょっと毛色が違うけど)、ロミ山田……ある時代、このようにファーストネイムがカタカナの人がとても多かった。もちろん、今でもいるけどね。テリー伊藤、滝川クリステル、葉山エレーヌ、ビビる大木、デイブ・スペクター(笑)……。本名の人を除くとだいたい芸人だよね(テリーさんは芸人じゃないんだろうけど)。だから、昔に比べれば、カタカナのファーストネイムはずっと少ないと思う。フランク永井だってロミ山田(けっこう好きでした)だって、どう見ても日本人だよ。ケーシー高峰を除くと、共通点はジャズを歌っていたということだ。それも「進駐軍のキャンプ廻り」っていうパターンが多いね。いかにも「オキュパイド・ジャパン」という感じ。この同じ時代をジャズやカントリーに生きた小坂一也に『メイド・イン・オキュパイド・ジャパン』(河出書房新社)という名著があった。つまり進駐軍のキャンプだとロミ山田でもフランク永井でもなく、Romy YamadaだったりFrank Nagaiだったりする。弘田三枝子や伊東ゆかりもキャンプ巡りをしていたというが、May HirotaとかYuka Itoでなかったのはなぜだろう?

 このウィリー沖山さん、長いことバンド・ホテルの最上階にあったシェル・ルームの支配人をなさっていたという。シェル・ルームというのはナイトクラブだ。ブルーのネオンサインが光っていたという。いしだあゆみの「ブルーライト・ヨコハマ」のブルーはシェル・ルームのブルーだと言われている。五木ひろしの「横浜たそがれ」も淡谷のり子の「別れのブルース」もバンド・ホテルで生まれたと言われている。ナイト・クラブというのは、大人の男の人と女性が音楽やお酒をバックに踊ることですね。でも、だいたいジャズが背景だから、ビッグ・バンドを従えて、さっきのカタカナのファーストネイムを持っている歌手が出演することになっていた。そういえば、横浜には、ブルー・スカイとかナイト&デイといったナイトクラブもあって、ナイト&デイからは青江美奈がデビューしたんじゃないかな。つまり、シェル・ルームっていうのは、往年の大人たちの遊び場。東京からタクシーでやってくる人もいたらしい。なんか矢作俊彦の世界だね。

 この「横浜ミストリー」には、このシェル・ルームの貴重なライブの映像が含まれている。映像提供はTVK神奈川テレビ。あそこなら持っているでしょうね。1984年の映像だ。バンド・ホテルに入っていくウィリー沖山さん。ブルーのネオンサインで光るサイン。自動ドアが開く。最上階へ上がると、そこはシェル・ルーム。タキシード姿のウィリーさん。今宵のゲストは? な、な、なんとトニー谷!ピンクの襟にスパンコールがきらきら光る白いタキシードですよ!短めでテカテカのオールバックに黒縁のロイド眼鏡。そして、もちろん左手にはソロバン!唄うは「ベッサメムーチョ」。これホントすごいです。こういうものを文字で描写できないぼくの力のなさに無力感がつのります。ビッグバンドをバックに、ごく普通にトニー谷流に「ベッサメムーチョ」を唄うだけなんですが、ソロバンの音がまるでマラカスみたいなんだな。

 ご多分に漏れずこの大谷正太郎ことトニー谷も立派にファーストネイムがカタカナ。日劇ミュージックホールで働いていたころ、外人客に「おおたに」の「たに」を「タニー」と呼ばれ、それが「トニー」になったらしい。彼の芸については小林信彦が『日本の喜劇人』で分析し、村松友視は長大な評伝『トニー谷、ざんす』を書いている。トニーグリッシュという得意で特異な言語を操りながら人々を笑いに巻き込んだ。小林信彦は、初期のタモリとトニー谷のと同質性を語っているが、ユーチューブでトニー谷が登場した「今夜は最高」を見ると(http://www.youtube.com/watch?v=WZ2TtAjjmTk)小林説の正しさが証明される。本当に「オキュパイド・ジャパン」の象徴のような芸人だ。

 「ハマジル」に戻ろう。ウィリー沖山さんが次に訪れるのは、横浜に唯一残るダンスホールの「クリフサイド」。まるで『ラスト・タンゴ・イン・パリ』のような空間だ。周囲をキャットウォークがめぐるホールに、ビッグバンドとダンスをする人々。貴重と言えば貴重な空間だが、ここでも、まだ驚くことがある。ダンスを踊っている人々の平均年齢は70歳くらいではないか。そして「ハマジル」を踊れる人がいると最後にウィリー沖山が訪れる野毛のダンス練習場。そこで「ハマジル」を指導するのも老人だ。

 ちょっと哀しくなってしまう。「ハマジル」を元気に踊る老人がいて、老後の健康法を学んでいるわけではない。もうかつてヨコハマにあったものは、無形文化財のようなものになってしまった。時代が変わったのだとしか言いようがない。皆、歳を取って、かつてあったものが弱々しく残っているだけだ。元気な何かにリニューアルされていない。バンド・ホテルの昔が、ドンキホーテの現在に変わってしまったとしても、悲しむことはないのかもしれない。バンド・ホテルが元気がなくなって、ドンキはすごく元気だ。バンド・ホテルの扉は閉じられるべくして閉じられたのだ。ぼくが、最後にバンド・ホテルを見たのは前世紀の1996年のことだった。中華街で食事を済ませ、散歩しているとバンド・ホテルが目に留まった。ウィリー沖山さんが通った自動ドアをくぐって中に入ると、薄暗いホールの奥にフロントがあった。老人がひとりフロントにいた。パンフレットをいただけませんか? パンフレットね、どこかにあったな。老ホテルマンは引き出しの中からホコリだらけのパンフレットを見つけ出した。フウーッと息を吹いてホコリを払って、それがぼくの手に渡された。もうすっかり元気をなくしていたバンド・ホテルだった。

 

『サン・ソレイユ』から25年経った

 ヤバイ。感動してしまった。川本三郎の『マイ・バック・ページ』が平凡社から復刊された。最初に出版されたのは22年前。1988年のことだ。ぼくは、その書籍版を読んでいない。その前の年と前々年に「Switch」誌の連載で読んでいた。その当時は、感動したことはなかった。むしろ、自らをマイナスのヒーローに仕立て上げるような川本三郎の姿勢が嫌だった。もちろん、ぼくも時代の子だから、川本三郎が関わった「朝霞自衛官殺害事件」について、知らないわけではなかった。だが、当時、高校生のぼくを含めて、その時代に生きていた人たちは、何らかの意味で、殺人にまでは至らなくても、大なり小なり関係の濃い薄いはあっても、この種の事件に関わりを持っていたわけで、彼は決して例外ではなかった。だから、自らの「例外性」をことさら強調するのは、逆にとてもヒロイックで嫌な感じがしたのだろう。だが、22年後の今、再読するとホントヤバイ。感動してしまった。

 『マイ・バック・ページ』にも登場する高校にぼくは通っていた。「ここも日比谷高校と同じ、東京の中では恵まれた中産階級の子どもたちの多い高校だった。バリケードを作った子どもたちのことを心配して夜になると父兄が学校にかけつけた。彼らに取材してみると一流企業の父親が多かった。だからこそ子どもたちは「家族帝国主義粉砕」と反抗した」と川本は書く(77ページ)。本当のことだ。当時、私立の名門中の名門、麻布高校を出て東大法学部を卒業し、就職浪人を1年したとは言え、朝日新聞に入社した川本三郎は、超エリートだ。だが、その超エリートの挫折を描いたこの本は、同じ時代を生きていたぼくが、共感できる点が多いという点だけでも、膨大な資料を基に、68年について書いた小熊英二の『1968』よりは、ずっと良い。『1968』には、ぼくが通っていた高校について、次のような記述がある。「青山高校での叛乱の背景には、(……)学校群制度があった。青山高校は、67年に学校群制度が導入されるまでは、都立名門校の一つであり、旧制中学風の「自由で自主性を重んじる校風」を自負する学校の一つだった。/ところが学校群制度で学力の劣る生徒が入ってくるにしたがい、学校側は「自由で自主性を重んじる校風」を掲げる余裕を失い、実力テストなどを導入して大学受験指導に力を入れるようになった」(下巻、58ページ)。

 たとえ小熊英二が調べた文献がどんなものであろうと、その時間を共有したぼくには、そんな実感はまったくない。むしろ事実は逆だ。原因が「学校群制度」にあったことは、必ずしも間違っていないが、「学校群制度で学力の劣る生徒が入ってくる」というのまったく事実と異なっている。しっかり資料を調査して欲しい。学校群制度が導入される以前の青山高校は、大学受験おいて卒業生の上位の生徒は一橋あるいは東工大という感じだったが、学校群制度が導入されると、一挙に東大ベスト20に名を連ねる高校になってしまった。学校側は何もしなかったのに、生徒たちは「自由で自主的な校風を重んじて」自分で受験勉強した結果だ。学校側と生徒との間の齟齬は同じでも、小熊が指摘するのとはヴェクトルが完全に反対だ。一カ所でも、こんな部分があると、この長大な書物全体をまったく信じられなくなる。

 つまり、紛争中で授業のなかった高校2年の勉強なんてまったくやっていない青山高校の卒業のぼくに比べて、麻布から東大法学部で朝日新聞就職という超エリート街道をまっしぐらに歩んだ自らを棚上げしている川本三郎、という構図がぼくに刷り込まれていて、その彼が挫折を語ろうが、結局、彼は朝日新聞という大会社の名刺を持っていた人間でしかなかった。

 朝日新聞をクビになって以来の川本三郎の仕事もあまり好きになれなかった。どの仕事もとてもノスタルジックで、つまり、かつてあった素晴らしいものが、今はもう失われてしまっていて、という心情ばかりがほとばしり出ていて、「今、ここで」その時間と空間を更新しようと頑張っている人たちの傍らに居ようとはしない態度は、結局、新たな作品に与しないことになり、それでは、なぜ批評が存在するのか、という根本的な問題にも顔を背けることになると思えた。

 では、なぜ22年後に『マイ・バック・ページ』を読んで感動したのか。もちろん、彼が後生大事にするノスタルジーの源になる諦念が、彼の挫折にあることを確認したことで、彼の仕事が容易に理解できるようになったこともあるだろう。彼の永井荷風や林芙美子への容易ならざる執着も分からないではない。しかし、今回の感動と、その書物以降の川本三郎の仕事への理解とは、余り関係がない。彼の仕事をより良く理解できるにせよ、彼のノスタルジーを共有することは決してできないだろう。今回の感動の理由は、ひとつだけ。この書物の冒頭の「『サン・ソレイユ』を見た日」という章を読んだことが原因だ。ぼくは、河出書房新社から出版されたこの本の初版を読んでいないと書いた。「Switch」誌の連載で読んだと書いた。おそらく、この連載の第1回は読んでいない。この『サン・ソレイユ』についての件はまったく覚えていないのだから。

 たぶん、いろいろなことの趣味も嗜好も異なる川本三郎とぼくが交錯するのは、『サン・ソレイユ』だけだろう。川本は、この本の最初の方で、『サン・ソレイユ』のナレーションを引用している。「愛するということが。もし幻想を抱かずに愛するということなら、僕は、あの世代を愛したといえる。彼らのユートピアには感心しなかったが、しかし、彼らは何よりもまず叫びを、原初の叫びを上げたのだった」。クリス・マルケルならではの、時空をいくつも駆け巡り、そこには山谷も三里塚もあり、アフリカも猫もいる。日本とあの時代についての詩的なリフレクションになっていた『サン・ソレイユ』。感動の原因は、川本三郎とぼくは『サン・ソレイユ』に共振していたからだ。川本も引用した先のナレーションの言葉を、ぼくは、ほとんど空で書くことができる。理由は簡単だ。その台詞を、福崎裕子さんの翻訳をもとに上映用に書いたのが、ぼくだからだ。今から20年以上前の青山1丁目のスタジオの深夜。クリス・マルケルに厳密に秒数まで指定された日本語のナレーション原稿を書いて、隣にいてそれを読んでくれた池田理代子さんに差し出していた。

新宿の『夏』、パリの『雪』

2011年1月3日

 新宿の映画館を出ると午後も1時半を回っていた。昼食に急ぐ時間だ。東京の映画館の初回上映は11時過ぎが多くてかなわない。それに最近の映画は上映時間が長いので、11時に始まる初回が終わるのは、早くて1時半。初回が11時20分、終映が14時15分なんて場合はどうすればいいのか。レストランのランチタイムはたいがい14時までなので、空腹対策を最初から立てておかねばならない。映画の上映はパリだと14時、16時、18時みたいな感じが多いし、よほどのことがない限り、昼食をパスすることなど考えられない。日本の映画館は、従業員のことは考えても、観客にはフレンドリーではない。

 とりあえず「ちょっと洋食!」の気分だった。幸い末広亭のとなりにある「あずま」がまだ開いていた。三が日のラスト。末広亭の前は長蛇の列だ。「正月はやっぱり寄席!」って感じなんだろう。いろんなものが変わってしまった新宿でも、末広亭周辺はテナントは代わってもビルの佇まいがけっこう昔のまま。それに「あずま」はぜんぜん昭和! 創業63年とか言うが「老舗」感がない。敷居が低く、ひとり客でも問題なく入れる普通の安い洋食屋だ。単にずっと存在している。銀座にも「あずま」(どっちが本店なんだろう?)があるけれども、同じ雰囲気。でも、近年、洋食屋は希少価値。ぼくが住んでいる祐天寺にも「冨久味」という洋食屋があったが、弁当屋になってしまった。だから、自宅から洋食屋と言えば、中目黒の「パンチ」、三軒茶屋の「アレックス」、武蔵小山の「いし井」にチャリを飛ばすしかない。大しておいしくはないが「あずま」でハンバーグを食べていると、いろんなことを思い出してしまう。

 すぐそこの明治通りの位置から考えると、ここはちょうど、かつて新宿文化があった場所の裏手に当たるだろう。今はユニクロやH&Mが並んでいる辺りにかつて「伝説の映画館」新宿文化があった。もちろん、新宿文化がなければ今のぼくなんていない。ゴダール、寺山修司、黒木和雄、実相寺昭雄、羽仁進、タルコフスキー、ブニュエル……ちょっと思い出しただけでも、これらの固有名を初めて知ったのは、この「映画館」だった。詳細は、平沢剛がこの「映画館」の支配人だった葛井欣士郎に聞き書きした『遺言 アートシアター新宿文化』(河出書房新社)を参照して欲しい。ロビーにたくさん詰めかけていた観客の中に高校生だったぼくもいた。この映画館は、かつては植草甚一も支配人を務めた由緒ある場所で、葛井欣士郎が支配人を務めた12年間(1962年〜1974年)は、新宿文化も新宿そのものも、もっとも熱かった時代だ。当時から比べると、この界隈も、末広亭に並ぶ人々を除いて、人通りがひどく減っている。だが、ゴダールやブニュエルや、そして、田原総一郎の唯一の長編映画『あらかじめ失われた恋人たち』でずっと裸でいた桃井かおりよりも、この「映画館」で、ぼくが思い出すのは、映画よりも舞台だ。葛井欣士郎が「目頭を熱くした」と語る、清水邦夫作、蜷川幸雄演出の『泣かないのか泣かないのか1973年のために』の超満員の観客席にいたぼくは、「目頭を熱く」どころではなく、号泣していた。そして、ぼくが観客席にして、舞台の上にいないのはどうしてだろう?って、舞台の上にいた石橋蓮司や蟹江敬三にものすごく嫉妬していた。たとえば大島渚の『新宿泥棒日記』だったら、紀伊国屋書店の中も、花園神社の紅テントの中も、西口広場も、明治通りにも同じ喧噪があったけれども、この時代になると、号泣とか喧噪は街にはなくなり、もう新宿文化の舞台の上だけがその最後場所だと思えた。

 なんでぼくは大学生なんだろうな? このまま、「体制の犬」(すごく当時の表現ですんません)になっちゃうのかな? いろいろ考えた。同時に、やっぱり舞台ってすごいな、安全な観客席よりも危険に満ちた舞台の上の方がぜんぜんいいや!って思えた。でも、そんなことを考えたのは、そのときが初めてじゃない。もっと前に高校生の時に、同じ場所で見た──正確に書くと、新宿文化の地下にあった蠍座で見た──ロマン・ヴェンガルテンの『夏』(ニコラ・バタイユ演出)を見たときに、そんなことを初めて感じた。清水邦夫の荒々しい世界と正反対の凪のような夏の一日を描いたその戯曲に出演していた加賀まりこを見たときのことだ。そのころの加賀さんとニコラ・バタイユ氏を撮った石黒健治さんの写真を見ることができる。(http://ishigurokenji.com/report/report_078.html。すごく綺麗でしょう!)舞台に関わる仕事をしたいと強く思った。(そういえば、ぼくも役者としてニコラ・バタイユ演出の舞台に出たことがあるんだけど、それはまた別の話。)

 上演から数年後に、白水社から『世界の現代演劇』叢書が出て、その第6巻に『夏』の翻訳(大間知靖子訳)が収められている。ロマン・ヴェンガルテンという固有名がしっかり頭に入った。ちなみに同じ巻にはベケットの『芝居』(高橋康成、安堂信也訳)、アラバールの『大典礼』(利光哲夫訳)なんかも収められている。1970年代の初頭には、こんな叢書が堂々と出版されていることが今から考えると信じられない。こと演劇に関しては、外国の前衛劇が翻訳出版されて、それが叢書になるなんて、今の「内向き」のジャパンじゃ考えられないからだ。だいたい白水社は「新劇」という演劇雑誌も出していたし、80年代の初頭、ぼくもその雑誌に劇評を連載していた。(演劇人からの反響は反感ばっかりだったけど。)

 ロマン・ヴェンガルテンは1926年生まれの作家で、最初はソルボンヌで哲学を学んだが、アルトーの影響で演劇を志し、『アカラ』という戯曲でデビューしている。もっとも彼の作風はアルトー的な荒々しさというより(そちらは『泣かないのか泣かないか1973年のために』の清水邦夫みたい)、師匠筋のロジェ・ヴィトラック譲りの詩的な作風だった。演出もやっていてヴィトラックの『ルー・ガルー』もやったし、自作の『雪』(1979年)の演出なんてすごく良かった。パリのポッシュ・モンパルナス座で初演を見た。なぜだかニコラ・バタイユの『夏』を思い出した。『雪』は、ちょうど『夏』の反対にあるような、でも同じ静かな力学の働いている戯曲だった。同じ作家だから当たり前かも知れないが、40年近くの年月を隔てて、同じ空気感のある世界を現前させるのは、やはり芸術家だからだ。そのロマン・ヴェンガルテンは2006年に80歳で亡くなっている。彼の1996年のポートレートをサイトで見つけた。http://fr.wikipedia.org/wiki/Fichier:Romain_Weingarten_vers_1996.jpg。目をはだけたシャツと背後のカーテン、そして、おそらく校正中の原稿が印象的な写真だ。このポートレートを撮った人の名前がある。Isabelle Weingartenだ。映画ファンなら見覚えのある名前だろう。ロベール・ブレッソンの『白夜』、そしてヴィム・ヴェンダースの『ことの次第』……。イザベル・ヴェンガルテンは、ロマンの娘だ。ヴィム・ヴェンダースの4人目の妻として2年間を過ごした後、彼女は写真家になり、監督や俳優、女優たちの素晴らしいポートレートをたくさん残している。そういえば亡くなった川喜多和子さんが、イザベルはいい写真家になったわね、と言っていたことを思い出す。あれは、同じ新宿のゴールデン街にある映画関係者が多く集い店でのことだった。