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ベルトラン・ボネロインタビュー 2014年カンヌ国際映画祭より (2)

 ーーサン=ローランの人生の重要な瞬間を描きながらも、その感情に寄り添うのではなく、彼の「仕事」が精査に描かれているように見えました。たとえば、クチュールのシーンや、ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ演じる妙齢の女性が彼のアトリエにやってくるシーンです。長回しでほとんどカメラの位置も変わりません。ですが、フレームの中での彼女の変化は驚くべきものがあります。

BB それがまさしく私の意図するところでした。彼のアトリエ、そしてクチュリエとしての仕事を見せたいと考え、そのために作品のための衣装の制作の過程をドキュメンタリーのように捉えていくことを決めたんです。この作品は、イヴ・サンローラン財団や、イヴ・サン=ローランのパートナーであったピエール・ベルジェの許可を得ることなくつくられました。だからジャリル・レスペールによる『イヴ・サンローラン』の製作発表があったときには正直驚いだんです。私たちは作品のための準備をその数ヶ月前からすでにはじめていましたから、状況はかなり複雑になり、企画を実現するために越えなければならない大きな壁が立ちはだかりました。

ベルジュと私たちとの関係には、非常に難しいものがありました。彼は自身を通してのイヴ・サン=ローランを描くことを望んでいたからです。ですが私にとって重要なことは、物事に関する自分の視点に自由であることです。もちろん、衣装や髪型などは当時を意識していますが、登場人物に関してはまったく別の話なのです。レスペール版は、ベルジュとイヴ・サンローラン財団の多大な協力とともに制作されました。一方、私たちは衣装から装飾まですべて一から自身で作る必要がありました。ですが、そのおかげで私たちは、作品を生み出す実際の過程を捉えることができたわけです。

テデスキが演じる女性は、イヴ・サン=ローランのアドバイスで髪形を、着こなしを変え、まったく違う女性に生まれ変わります。あのワンシーンで、その目の輝きまでが違って見えるでしょう。このシーンはちょっとしたヒッチコック『めまい』へのオマージュでもあります。大げさかもしれませんが、サン=ローランの仕事は女性という概念自体をも変化させることだったのだと思っています。

 

−−サン=ローランを演じた主演俳優、ギャスパー・ウリエルはどのように選択されたんでしょうか?

 

BB キャスティングはシナリオが完成する前、2012年の初頭に始まりましたが、かなり早い段階でギャスパー・ウリエルの名前は挙がっていました。私自身も彼がイヴ・サン=ローランに似ているとは思っていましたが、候補に挙がっていた20数人の俳優と同じように彼に会いました。

しかし、私は彼がイヴ・サン=ローランに「なる」ことを望んでいたわけではありません。重要なのは、対話をすることができるか、ともに仕事ができるかどうかだったからです。『メゾン ある娼館の記憶』のすべての女優たちが、舞台である19 世紀の振る舞いを真似ているのではなく、彼女たち自身としてそれぞれの登場人物であったように、ギャスパーに対しても同じことを望んでいました。ギャスパーはサン=ローランであるとともに、彼自身として作品に存在している必要があるんです。その混合はとても美しいものです。ギャスパーはサン・ローランと同様に、ルイ・ガレルはジャック・ドゥ・バスシェールと同様に私を熱狂させる存在なのです。実在する人物像を構築するには、その人物とそれを演じる俳優とのバランスをとることが必要になります。それはかなり複雑な作業です。映画監督は、その2つのどちらかを選択するべきではありません。カメラの前にいる俳優にこそ関心を持つべきなのです。

 

ーー短編『Where the boys are(2010)、そして『メゾン ある娼館の記憶』(2011)でフィリップ・ガレルの娘であるエステール・ガレルを、そして今回、『サンローラン』では、息子であるルイ・ガレルを起用していますね。また、クロチルド・エスム(『恋人たちの失われた革命』)やルー・カステル(『彼女は陽光の下で何時間も過ごした』)も起用しています。そして、あなた自身、フィリップ・ガレルから大きな影響を受けたと聞いたことがあるのですが……。

 

BB ガレルの作品に魅かれるのはそのミニマリズムです。すべてをシナリオに帰すべきではなく、あるひとつのクロースアップの瞬間が幾千の言葉よりも力を持つことを彼は理解しています。その息子のルイ・ガレルは『サン=ローラン』において、ジャック=ドゥ・バスシェールの複雑な人物造詣にある種の軽さと現代性を与えてくれていると思います。ルイはバスシェールを陰鬱さに引き寄せることはしません。物語全体を見れば陰鬱なものではあると思いますが、イヴとジャックの愛の物語はむしろ編集によって展開するのです。初めてふたりがクラブで出会うシーンは、彼らの身を置く空間を引き延ばすように撮影されています。そこで彼らの間に美しい何かが生起したことがわかります。90年代から作品を撮り始めた私の世代の映画監督は、登場人物の在り方に自然主義を重視する傾向があると思います。たとえばフランソワ・トリュフォー、モーリス・ピアラ、アルノー・デプレシャンといった作家に近い態度ですね。しかし私はむしろロベール・ブレッソン、ジャン=リュック・ゴダール、そしてフィリップ・ガレルのように、ダイアローグによってではなく、カメラの動きや編集によって物語を表現する作家たちに近い場所にいると思います。実は2001年の映画『ポルノグラフ』では、フィリップ・ガレルを主演に据えることを考えてシナリオを書いていたんです。最終的にはガレルの世代にとって重要な俳優であるジャン=ピエール・レオーに演じてもらうことになりました。よくトリュフォーの映画を参照にしたのではと言われることがあるのですが、私にとってレオーはトリュフォーの俳優である以上に、ガレルやジャン・ユスターシュの俳優だったのです。ガレルのフィルモグラフィーには複数の時代がありますが、特に『彼女は陽光の下で何時間も過ごした』から『救助の接吻』にかけての時期が好きですね。自分の映画の主演をガレルに依頼したのは、映画作家として彼を尊敬していたからではなく、俳優としての彼の演技の仕方や存在感が素晴らしかったからです。私が出演をガレルに依頼したとき、自分がいくつかの映画に出演したのはたんにお金がなかったからであって、誰かのために演じるつもりはないのだと、すぐに断られてしまいました(笑)。結果的にではありますが、レオーは『ポルノグラフ』にある種のファンタジーを与えてくれたと思っています。

 

ーーサン・ローランの人生における1967年から1976年の10年間を作品の舞台として選んだのはなぜなのでしょうか?

BB もう少し短い期間を描くことも可能だったかもしれません。あるいは、65年から始めるというアイディアもありました。イヴ・サン=ローランはディオールで成功した後、ピエール・ベルジュとともに66年に自身のメゾン(ブランド)を設立します。この2年はイヴ・サン=ローランの人生にとってもっとも重要な数年ですが、ジャリ・レスペール版の『イヴ・サンローラン』がその期間を描くことを躊躇っていたのも事実です。結局、彼が自身のブランドを設立したのちに多くの変動を受け入れた時代、685月の胎動を感じられる時期を舞台に選びました。レスペール版は、ひとりの人物の人生そのものに寄り添うこと以外のやり方で、サン=ローランについての映画を撮る方法を私に考えさせてくれたと言えるでしょう。イヴ・サンローランに対する私の視点を先鋭化させてくれたのです。その結果私の作品は、サン=ローランの成功の後の10年に焦点を当てることになったのです。

 

ーーこの作品には、スプリットスクリーンを多用されていますね。67年からの10年間に起きた歴史的な出来事ーー685月ーーや、ランウェイを歩くモデルたちの映像、ランウェイとその裏側を同時に映したシーンがそうです。

BB モードをどのように時代と結びつけるのか、そしてそれがどのように生み出されているのかを表現することが『サン ローラン』の大きな課題でした。コレクションを生み出すアトリエを見せることを決め、実際に彼らの仕事を見に行きました。最も難しかったのは、終盤のランウェイのシーンです。どうすればこのシーンを映画的なものにできるか考えた末に、スプリットスクリーンを思いつきました。結果として過程を見せるためにほとんどすべてのシーンがロングショットになりました。スプリットスクリーンというアイディアを思いついてから、『華麗なる賭け』(ノーマン・ジュイソン) と『絞殺魔』(リチャード・フライシャー)を再見しました。どのように見せるか、何が見えるのか、この作品にとっての重要な核であり、モードにとってはそれしかないのです。

 

今秋、日本で公開予定。

 

 

ベルトラン・ボネロ インタビュー 2014年カンヌ国際映画祭より (1)

2014年カンヌ国際映画祭受賞結果

パルムドール:『雪の轍 (原題:Winter Sleep)』(ヌリ・ビルゲ・ジェイラン)

グランプリ:『Le Meraviglie』(アリーチェ・ロルヴァケル)

審査員賞:『Mommy』(グザヴィエ・ドラン) 

     『さらば、愛の言語よ(原題:Adieu, langage)』(ジャン=リュック・ゴダール)

監督賞:『フォックスキャッチャー』(ベネット・ミラー)

 

2014年カンヌ国際映画祭では、いかにもパルムドールらしい、ヌリ・ビルゲ・ジェイラン『雪の轍 (原題:Winter Sleep)』が予想通り受賞し、ジャン=リュック・ゴダールの『さらば、愛の言葉よ』と、彼と肩を並べるにはあまりにも不釣り合いなグザヴィエ・ドランの『Mommy』に審査員賞が授与された。初長編でグランプリを獲得した若きイタリアの女性監督アリーチェ・ロルヴァケルの『Le Meraviglie』もまた、自身の自伝的な物語を繊細なタッチで描きながらも凡庸さから逃れることは出来なかった。監督賞の『フォックスキャッチャー』(ベネット・ミラー)もまた、昨年のカンヌにおける良作と呼ぶ以上に力のある作品とは言えない。無冠ながらもっとも野心的な作品のひとつであった『サン ローラン』の監督ベルトラン・ボネロのインタヴューを、本年の日本公開を前にここでお届けしたい。

 ーー『サン ローラン』の企画はどのようにはじまったのでしょうか?

ベルトラン・ボネロ(以下BB) 2011年の11月だったと思います。前作『メゾン ある娼館の記憶』が公開される前にプロデューサーからイヴ・サン=ローランについての映画をとらないかと提案を受けました。私にとっては、初めて注文されて制作した作品になります。もともと伝記的な作品は好きではないのですが、脚色でもなく、シナリオもない、かなり自由な条件だったのでこの企画に興味を持ちました。ひとりの人物の人生のすべてを描き、彼についての多くの情報を与えるような、よくある伝記映画にするつもりはまったくありませんでした。もちろん、シナリオを書く以前には数多くのイヴ・サン=ローランに関する本を読みました。資料で裏付けることは、情報を与えることとは違うことです。イヴ・サン=ローラン本人に寄り添いながらも、むしろ前作の『メゾン ある娼館の記憶』のように、人物に大きな焦点を当てるのではなく、彼らの生きる世界観を映し出すことが私にとっては重要でした。つまりサン=ローランという人物の持つ現実離れしたヴィスコンティ的な側面です。伝記的に人物像を描くことをほとんど放棄にしているといってもいいかもしれません。プロデューサーも視覚的な洗練と『メゾン ある娼館の記憶』の持つドラマトゥルギーをこそ『サン ローラン』に求めていました。この2本には共通する主題があります。それは美しさと厳しさが共存する世界を、現代ではない過去の時間を描くことです。一方19世紀、他方は70年代を舞台にしています。今日、70年代についての映画を作る難しさは、とりわけ舞台装置の問題によります。私たちの両親の世代の生きた時代であり、彼らの記憶の中に未だ鮮明に残っている時代なのです。より正確に描くことが必要とされます。ですが、イヴ・サン=ローランが突出しているのは、彼が現代的なものと過去のものを混在させる才能を持っていたことです。彼はプルーストと同時にローリング・ストーンズを愛することができた。彼のクリエーションにはまったく異なる時代が共存しているのです。だからこそ、彼の生きた世界観であり時代を現在に描くことが可能であったのだと思います。この作品はカラーの35ミリで撮影しました。そのおかげで、色彩、質感は、デジタルでは表現できない官能性を帯びています。

 

ーーでは、シナリオはどのように構築していったのでしょうか?

 BB プロデューサーが私に課した条件は、ひとりではなく脚本家とともに仕事をすることでした。それがトマ・ビドゥゲインです。彼はヨアキム・ラフォスの『A perdre la raison(理性を失って)』やジャック・オディアールの『君と歩く世界』のシナリオも手がけています。アリシア・ドゥラクの「Beautiful」など、イヴ・サン=ローランに関する多くの伝記をトマとともに読みました。私たちは、モード界のクチュリエ(服飾デザイナー)や経済の問題など華やかな世界の裏側に興味がありました。彼らの抱える問題は映画にも共通する、芸術、創造、経済といった数々のテーマを含んでいます。

『サンローラン』の企画が提案されるより前から彼に興味は持ってはいました。私の母親は彼を敬愛していて、子供の頃から彼についての本を読んでいた記憶があります。ですがその頃から私が彼に親しみを感じていたのは、華やかなモードそれ自体というよりも、その世界観や時代です。どうしたらその退廃的で豪奢な世界を、映画という現実を介して表現できるのか。最初はそこに大きな困難を感じていたのも事実です。最終的に前作『メゾン ある娼館の記憶』がそうであったように、崩壊しつつある壮麗な閉鎖された空間という構想を『サン ローラン』でも続けてみようと考えるに至りました。サン=ローランは、17歳でコンクールに入賞し、20歳でクリスチャン・ディオールのスターとなり、22歳で自身のブランドを持ち、25歳で世界的に有名なデザイナーとなった人物です。私はこのあまりにも有名で華麗な彼の伝記的な事実にどうやって立ち向かうかに情熱を傾けました。

 

ーーどのようにイヴ・サン=ローラン像を描こうとしたのでしょうか?

 

BB 一般的に伝記映画はその人物との親密な関係を気づくために、またその成功に至るまでの経過を語るために、その人物の神話的な部分を破壊してしまいます。私の作品は、彼がどのように「イヴ・サン=ローラン」になったのかを描いてはいません。彼を誰もが共感できるような平凡な人物に帰するのではなく、その狂気にも似た情動的な部分に近づくことを試みました。彼の有する神話を、あくまで神話として描きたかったのです。1974年、ポルト・マイヨーのホテルから物語ははじまります。私たちは彼の手にした成功と同時に孤独と絶望を、ベッドに横たわる彼の背中に見ることになるでしょう。そして次のシーンでは1966年に遡行し、アトリエでイヴ・サン=ローランについて話している声を聞き、キャメラは彼の手、そして最後に顔を私たちに見せます。このファーストシーンに作品の在り方が集約されています。イヴ・サン=ローランを描くためには多くの作品を参考にしましたが、たとえばマーティン・スコセッシの『アビエイター』におけるレオナルド・ディカプリオはそのひとりです。彼が演じたハワード・ヒューズは、不愉快な人物ではありますが、同時に恐るべき生のエネルギーに満ちています。そしてルキノ・ヴィスコンティの『家族の肖像』におけるバート・ランカスターです。『サン ローラン』にはランカスターが実際に好きだった多くの女優たちの写真や、彼が愛して止まなかったダニエル・ダリューの出演するマックス・オフュルスの『たそがれの女心』の抜粋を挿入しています。

『メゾン ある娼館の記憶』で、娼婦たちの生きる世界は急速に朽ちていき、彼女たちは居場所を失う。そこに待っているのは終わりであり、悲劇でした。一方で、サン=ローランは生き延びるのです。彼は不幸でしたが、ある種の生のエネルギーと呼べるものを持っていたのです。私はこの伝記的な映画作品を、その人物の成功の裏にある苦しみや葛藤を語るためのものにしたくなかった。彼の持つ陰鬱さや暗さを見せることなく、彼の求めた視覚的な美に留まりました。だからこそ、創作に行き詰まりドラッグに蝕まれるイヴ・サンローランを、彼のベッドに現れる鮮やかな色の蛇たちに託したのです。

 

 

 

 

11/4(月)『ホーリー・モーターズ』田中竜輔

レオス・カラックスが目覚める部屋は、そしてその壁の先に繋がる映画館は、いったいどこなのか。窓の向こうには空港に降り立つ飛行機が垣間見えるが、一方でその部屋にはまるで船の汽笛のような音色も、あるいは海の、潮の響きも差し込んでくる。重厚な機械の捻り出す振動音の、その奥底からこそ響いてくる世界の音響。映画館とはおそらくそのようにして生まれ出ずる音を聴き取るための場所なのだ。

『ホーリー・モーターズ』において、あらゆる事物は「人工/自然」という二項対立など生きていない。機械のような森だとか馬のような自動車といった比喩を超えて、あらゆる事物がハイブリッドとしての宿命を背負っていることを、このフィルムは私たちに気づかせる。知覚の再生産装置としての映画は、私たちに無垢なる自然をそのものとして与えてくれるわけではない。メルド氏の徘徊する墓地のあらゆる墓石に刻まれた「私のサイトを訪れて下さい」という一節は、そのままに受け取らねばならない。「死」でさえもまたすでに「自然」へと還るための純粋な手段ではなく、デジタルの信号のなかに自らの新たな生の様態を刻み込む行為と不可分なのだ。

オスカー氏の「森」への憧れは決して成就しない。「森」はもはや私たちの周囲に広がる人工物と不可分に融和しているのであり、そのざわめきを膨大なノイズの中から掠め取る術を介してしか、私たちは「森」に触れる術はなく、そしてそれはもはやかつて憧れた「森」と同じものではない。そのような「機械」それ自体としての「森」こそが、レオス・カラックスが目覚めた「映画館」という場所ではなかったか。

無数の役柄を渡り歩くこと、それは無数の生を引き継ぎ続けることであるとともに、そのたび毎に新たな死を自らに刻み続けてゆく行為である。機械のように、否、機械そのものとして自らの身体を躍動させ運動させるドゥニ・ラヴァンは、己の身体をフィルムそのものとして無数の死を刻み続けたまま、決して辿り着けぬ「森」の方へと足を進めている。『リアル』の「首長竜」が唸りを上げ、あるいは『マーヴェリックス』の「大波」が轟き、そして『スプリング・ブレイカーズ』の「銃声」が炸裂する、そんな「森」の方へ。

 

田中竜輔

11/1(金)『スプリング・ブレイカーズ』田中竜輔

『スプリング・ブレイカーズ』の4人の女の子たちは、開放的というよりは呪術的なマイアミの狂騒の中で、しかし一度としてセックスをめぐる直接的なシーンに遭遇しない。レイチェル・コリンだけはそのオッパイをスクリーンに曝け出す点で例外かもしれないが、しかし彼女もまた「このプッシーは誰にもあげない」と宣言するわけで、やっぱり彼女にもそれは遠いものなのだ。このフィルムの「拳銃」をめぐるあらゆるシークエンスが、メタフォリックに彼女たちの性的なイメージを昇華させているのだと考えることはできる。しかしそれら拳銃=陰茎は、彼女たちには決して「正しく」接続されはしない。彼女たちはそれを咥えこみ捻じ込まれる側に立つのではなく、むしろ咥えさせ捻じ込んでやろうとする側に回るのである。ゆえに、フィルムの冒頭でノートにペニスのイラストを書きなぐってフェラチオの真似事をしていた、かつての「日常」の彼女たちのイメージは、もはや重なり合うことはない。スプリング・ブレイクの日々とは、彼女たちの退屈で鬱屈に塗れた日常を解消するための時間でも、胸に秘めた欲求を現実に反復してみせる時間でもないのだ。ゆえに彼女たちにセックスを実現する時間は訪れない。つまりスプリング・ブレイクは、有限性に基づいた「人生」と比較されうる「期間」のことではない。

このフィルムの代名詞ともいうべき、ジェームズ・フランコの「Spring Break, Forever」という囁きは、スプリング・ブレイクがすでに「永遠である」ことを示す端的な事実についての断言であって、「願望」ではいささかもない。「私の日常には同じことしか起こらない」から、このスプリング・ブレイクの「特別な時間」を「永遠にしたい」と語った、スプリング・ブレイクを「青春」と取り違えて生きた黒髪の女の子が、解き放たれるのは当然だ。「青春」をめぐるあらゆる物語が反復してきたことと同様に、『スプリング・ブレイカーズ』もまたその意味で正しい「青春」の時間を黒髪の女の子に託している。『アデュー・フィリピーヌ』(ジャック・ロジエ)のラストシーンを思い出す。どんなに切望しても「永遠でないもの」を「永遠にする」ことはできない。人生に訪れるふとした「中断」。それと同じものがあの女の子には刻まれたのだ。

では、『アデュー・フィリピーヌ』でその地を去る船上の男に手を振って、彼に「中断」を刻んだ「女の子たち」は、どこへ行ってしまったのか? もちろん彼女たちはいまだ自らの生み出したその「中断」のなかに、一瞬の「永遠」に置き去りにされたままだ。『スプリング・ブレイカーズ』は、まさしく「永遠」それ自体としての「中断」を生き続けるゾンビのようにジェームズ・フランコを映し出す。彼にはもはや総体としての「人生」など、何の問題ともならない。彼が生きるのは「一瞬」に内在して生み出される「永遠」であり、「中断」それ自体としての「永遠」であり、すなわち「スプリング・ブレイク」の時空でしかない。

ふたりのブロンド娘はこのゾンビから「永遠」そのものとしての「中断」を、「スプリング・ブレイク」を引き継ぐことになるだろう。その「春休み」は終わらない。そのことは、すなわち彼女たちが『アデュー・フィリピーヌ』の女の子たちの永遠の輝きを引き継ぐことでもあるだろう。乾いた引鉄の音色のごとき、鮮烈な一瞬の永遠。その永遠は「青春」、そして「人生」の彼岸にある。

 

田中竜輔

11/1(金) 『スプリング・ブレイカーズ』 結城秀勇

"黄色くて、なめらかで、死ぬほど危険なもの、な〜んだ?"
それはマイアミで古くから言われているなぞなぞなのだそうで、答えは、"サメ入りカスタード"。でもその答えは、『スプリング・ブレイカーズ』であってもおかしくない。
ここですでに書いたように『スプリング・ブレイカーズ』とは、ほんの一口のカスタードとサメへの一触れを求めてやってきた山のような観光客の中で、"サメ入りカスタード"そのものになってしまう女の子たちの物語である。抱えきれないほどの甘いカスタードと、そのスパイスになるくらいのサメへのちょっとした遭遇。その程よい比率がおかしくなってきたときに、観光客は地元へ帰ることを選択する。だが、あのビーチに集まる人々は程よい刺激と興奮の束の間の現実逃避を求めていただけなのか?本当は心の奥底で、それが永遠になるのを欲望していたのではなかったか?本当は"サメ入りカスタード"になってしまいたかったんじゃないのか?
だから、春休みが不穏な影を帯び始めたことから帰宅を決意するセレナ・ゴメスに、ジェイムズ・フランコが「君が好きだ」としきりに繰り返す「I like you」は、ほとんど「I "am" like you」と同義だ。マリリン・モンローになりたくてもなれなかった者たち。ブリトニー・スピアーズになれなかった者たち。それは女の子たちだけではなく、フランコや金歯の双子のようなあの場所にいるすべての人間の叫びでもある。「おれとお前は似ている」。
ジェイムズ・エルロイはかつてカーティス・ハンソンを、自分と同じく想像上のLAでの終身刑に服している男だと評していた。「その刑には永住義務条項が付き、獄外労働の権利放棄が明記されていた」(「金ぴかの街のバッド・ボーイズ」)。それに対して『スプリング・ブレーカーズ』におけるハーモニー・コリンは、まるで想像上のマイアミから永久追放を宣告された男のように映画を作り上げる。乳とケツが揺れ、酒と白い粉と煙とが飛散し、爆音でBGMが流れ出すその都度、想像上のマイアミは観客から遠ざかって行くように感じる。マリリン・モンローにも、ブラック・ダリアにすらもなれなかった者たちにむかって、この黄色くて甘くなめらかな塊は繰り返しつぶやき続ける。「おれとお前は似ている」。

10/26(土) 『スプリング・ブレイカーズ』宮一紀

極限に達した退屈さが少女たちを犯罪へと駆り立てる。強盗されるために存在するかのような片田舎のダイナーから、めくるめく快楽の酒池肉林としてのマイアミへ――。

そこで待ち受けるプッシャー役のジェームズ・フランコがすばらしい……全身にタトゥーを刻み、金のグリルを嵌め、長いコーンロウを編み込み、もはや誰だがわからなくなってしまっている。アメリカ西海岸のカリカチュア、黒人コンプレックスを体現するアングロサクソン、(役名の)エイリアンというよりはむしろロボットのように空虚でメタリックな存在感で、シボレー・カマロのハンドルを握り、終始にやけながら不気味に揺れている男。

サングラス、リング、ネックレス、鉈、ピストル、マシンガン、そして、だらしなく開け放たれた口から覗く金色のグリル――彼の身を包むありとあらゆる金属質のものが、フロリダの風にたなびく派手なシャツの下で、揺らぎ、擦れ合い、音を立てる。いや、果たしてそんな音など鳴っていたかどうか、今となっては定かでない。なにしろ、場面が切り替わるたびに挿入されるピストルの撃鉄を起こす音が強烈だ。弾倉が装填され、巨大なリロードの残響とともに、私たちは見たばかりの光景を忘れ続ける。

ネオンカラーの色彩、弛緩した運動、硬質な音響に支配される中、孤独で弱い者たちが徒党を組み、敢えなく崩れ去っていく様子は痛ましい。最後には欲望の抜け殻だけが暖かいフロリダの海に漂うことになるだろう。それでも、永遠に終わることのないアンチ・アメリカン・ドリームをいつまでも見ていたいと思った。

宮一紀

10/30(水) 『マーヴェリックス/波に魅せられた男たち』結城秀勇

どこでだったか、廣瀬純さんはサーフボードのスケールの変遷について書いていたはずで、その要旨は、世界の中心とでも呼ぶべきどこかに波を生じさせる巨大な力が原因として存在し、最終的にはその原因そのものへの同一化を図るというロングボードの哲学から、もはや原因としての力はすでにどこにも存在せず、だからただ目の前に次々と生じる波をひたすらに乗りこなしていくショートボードの哲学へとパラダイムシフトした、という話だった。それを読んでなるほどそうかと納得したものの、個人的なスタイルとしての嗜好的にはロングボードへの憧れを捨てきれなかった(無論サーフィンなんて一回もやったことなくて、単に見た目の話)のだが、『マーヴェリックス』を見て、やっぱりロングボードは必要だ、と思った。 命の恩人のサーファーに憧れて、自分もやってみようと思い立ったジェイ少年は、物置からおそらく昔父親が使っていたサーフボードを引っ張りだし、しかしそれにフィンがないことに気づいて、恩人サーファーの家に借りに行く。そしてその納屋に入った途端、巨大なサーフボードに目が釘付けになる。それは近くの海で波乗りをするのにはまったく不向きなサイズで、巨大な波が来ない限り、それに乗ってもパドリングしかやることがない。だがサーファーたちが"竜"と形容するようなとんでもない波が来たときに、はじめてそれが必要となる。 この映画で描かれる「ネス湖の怪獣」級の波・マーヴェリックスは、その形容通り巨大怪獣か大災害かとでもいうほどのルックスと音響を備えている。それに向かっていくサーファーたちを近くの崖のうえから双眼鏡で眺める家族や友人の姿は、まるで自分たちは災害から避難したが被災地の中心に身内を取り残してきた人たちであるかのように見える。おそらくこの映画を普通の上映形態やDVDで見たとしても好きになったとは思うのだが、おそらく今回の爆音上映と同じような感慨を抱くことはなかっただろう。自分はあの波打ち際にいた、少なくともそれが双眼鏡で覗けるあの崖の上にはいた、そんな気がしてならない。そしてそれはこの上映に立ち会った人間がひとり残らず抱く記憶なのだという気がする。

ちなみに本日18:30からの上映である『フライト』について、樋口さんは「『マーヴェリックス』から続けて見ると前半20分は飛行機でサーフしているようにしか見えない」と語っていた。まさしく『フライト』のデンゼル・ワシントンは、普通の波乗りには向かないビッグガンで酔っ払いながら海上を漂っていたら、なんかとんでもなくデカイ波にあってしまったような人物だ。そしてそうした人物は、その波以降の人生をいかに送るのかという映画である。やっぱり人として生まれた以上、一生に一度来るかどうかわからない巨大な波に備えて、納屋に超ロングボードを用意し、常に「四つの柱」の鍛練を積み続けていたいものだ。こんな時代なのだし。

10/28(月) 『マーヴェリックス/波に魅せられた男たち』代田愛実

マーヴェリックスの波は、塊であった。ゴゴゴ、ドドド、ズズズ、といったオノマトペで表現されるであろうその波の音は、ピチャピチャとか、ザァザァといった一般的に水を連想する音とは全く異なっていた。流れるのではなく厚みと重みと弾力と硬さを持った物体として平行移動し、我々観客の目前に屹立した。それはまさに、主人公の目の前にそびえ立つ、壁であった。

唐突だが、革命的になること即ち創造することについて、『絶望論 革命的になることについて』(廣瀬純、月曜社、2013年刊)にはこう記されている。
" 不可能性の壁を屹立させ、逃走線を描出せよ。" 

今日偶然、カイエ・デュ・シネマ・ジャポン27号を手に取った。 冒頭の記事で、樋口泰人氏が、新レーベル「BOID」――" 徹底して個人的なレーベル" ――を立ち上げたことを報告している。"始めた理由など、うまく説明はできない。ただ、怠惰な私が何かをし始めなければならなかったくらいには、状況は十分悪かったのだということだけは言える。" もちろん世の中にCDや書籍というコンテンツは大量に溢れている、と前置きした上で、でも" 状況が悪い" ことを読み取ってしまった、だからこそ見出した1つの逃走線としてのレーベルの立ち上げ。革命的になること、すなわち創造し始めること。その発端がここに書かれていた。

この作品の主人公も、波の距離や間隔と計ることから始め、やがて自ら壁を生み出し、逃走線を描き出す。
あの凄まじい波を不可能性の壁と置くことも出来る。だが主人公には、もう1つの壁がある。 父親からの手紙が、絶望であるはずの手紙が、彼には開けられなかった。
パドル、パドルばっかりじゃねーかとからかわれたり、思いを寄せる幼なじみに避けられたり、フロスティに罵倒されたり、といった主人公の不遇は、彼の絶望がまだまだ足りないことを示したのではなかったか。本当の問題、恐怖のありかは、まだしまいこまれていた。
マーヴェリックスを目前に控え、数年放置していた父親からの手紙を開ける。そこに書かれていた言葉はわからない。しかし、その手紙を読んだことが、彼に別の手紙を書かせ、いよいよ壁(波)に向かわせたということになる。" 「絶望」あるいは不可能性の壁" は遂に屹立し、逃走線が綺麗に伸びる瞬間であった。彼は革命的であり、同時に、創造するに至ったのだ。

主人公が勝利を勝ち取る瞬間は、はっきりいって、地味だ。巨大な波を乗りこなしたり制したりするのではなく、波との根比べ。波=壁がゆっくりと隆起し、自らのバランスを崩して砕けてゆく中で、自分は崩れずに耐えること。"4本の柱"によって自らを支え続けること。壁がくだけ、波しぶきになった後、その中から姿を現すという、何とも地味な勝利。だがその地味さが、この作品の、あるいはカーティス・ハンソン作品の持ち味とも言える。1人の人間が、やっていることはおおまかには変わらないはずなのに、どこか――魂と呼べるようなもの――が変化してゆく様が、カーティス・ハンソンの作品にはいつも描かれていたのだから。
そして、彼にサーフを教えた友人。
「このために生まれたと感じる瞬間があるかい?」 「ある。TVを観ているとき。」
この一見能天気な少年なしには、主人公のあらゆる不遇は生きなかったに違いない。愛すべき魅力的な友人である。

 

代田愛実

10/28(月)『リアル〜完全なる首長竜の日〜』 田中竜輔

『リアル』を再見かつ再聴して、佐藤健の声がどことなく画面を包み込むような音の広がりを有しているのに対して、綾瀬はるかの声がスクリーンの中央部に定位し閉じこもったような感じで聴こえたことに気づく(本当にそうつくられたものかどうかはわからないが)。佐藤健が綾瀬はるかの心の中に入り込むという物語が、中盤から見事に反転していく作品の構造を考えると、実に周到な音配置であるように思える。最初から綾瀬はるかの声は、佐藤健の内側にだけ響くものとして録られていたのかもしれない。佐藤健はいくつかのシーンでスカッシュに興じていたが、ボールを壁に向かって打ち込むそこでの音響は、まさしく佐藤の心の内側に反響する綾瀬の声をボールと壁に置き換えたような示唆的な場面であるようにも見えてくる。

このフィルムに終始流れ続ける不穏な音響は、『リアル』というフィルムを包み込む音響のようにも聴こえるし、一方で『リアル』というフィルム自体が発しているものであるようにも聴こえる。前者が「揺れ」と表現できるのならば、後者は「震え」と表記すべきものだろうか。おそらくそれらはどちらも偏在している。佐藤健は覆しようのない自らの過去という「震え」に向き合い、大きな「揺れ」としての「首長竜」を目の前に屹立させることとなるだろう。これは決して受動的なだけの経験ではないのだ。

だから『リアル』の物語とは、「首長竜」の腹の中からその表皮へと辿り着くまでの物語なのだと言えるかもしれない。佐藤と綾瀬の原罪としての「首長竜」というイメージは、いつの間にか彼らがかつて見殺しにした少年の化身として外部化される。彼らは自らの過去を捻じ曲げたと考えることもできるが、一方で彼らは自らの「震え」を「揺れ」に置き換えることで、その残酷な運命に直接的に対峙することを選択したのかもしれない。

そんなことを考えれば考えるほどに、中谷美紀演じるあの女医が、やはりこのフィルムの中で圧倒的に不可解な存在であることに突き当たる。何が起きてもまるで表情を崩さずに(唯一の例外はあの「船」をめぐるシーンだが……)、このフィルムのあらゆる「揺れ」や「震え」と関係を有することのないこの人物は何なのか? そして、彼女にはなぜ吹くはずもない「風」が吹き荒ぶのだろうか? つまるところ、『リアル』における「風」とは何なのか?

田中竜輔

10/28(月)『マーヴェリックス/波に魅せられた男たち』宮一紀

名の知れたサーフィンの聖地、カリフォルニア州マーヴェリックス。ローカルの少年たちは髪を濡らしたまま町を歩いている。サイケな落書きで彩られたバンに乗り込み出かけていく若者たち。夜の砂浜では、焚き火を囲み、女同士の秘密の会話――「彼を守ってあげてね」「任せて」。あるいはまた、屋根を伝い女の子の二階の部屋の窓へのアプローチ。次の瞬間、女の子はきっとこう言うだろう――「両親が起きてきちゃう!」。すべての瞬間が正しく青春映画的で、ワクワクする。

もちろん最後には息を呑むような奇跡のビッグウェーブが訪れる。そこで体感される音響のカタルシスは凄まじい。20フィートの大波が砕けて重低音が轟いたあと、スクリーン一面に飛沫が飛び散り、カラカラと乾いた音が鼻先をかすめていく――本当にくすぐったくなるくらいに。しかし、このフィルムが上映時間のほとんどを費やして描き出すのは、ビッグウェーブがやってくるまでの12週間のあいだに起こる出来事である。主人公にできることと言えば、パドリングと息止めの訓練くらいのもので、ひたすら地味な特訓の日々が繰り返される。

近所に住む憧れのヴェテラン・サーファー、少しだけ先にサーフィンを始めた友人、幼なじみのかわいい女の子、意地の悪そうな先輩。家に帰らなくなった軍人の父親、酒に頼るようになった母親。どこにでもあるような町、どこにでもいるような人々、彼ら彼女らの暮らし。家の修繕、ピザ屋のバイト、裏口から忍び込む市営プール、無遅刻無欠勤による昇格、町のショーウィンドウで見かけた89ドルのラジオ、母親に貸した15ドル……。 驚くくらいシンプルに出来事が積み重ねられていき、それらをすべてひっくるめて、このフィルムは主人公の少年にこう言わせる――「Mavericks is real」。少年が目を輝かせてそう口にした瞬間から、このフィルムは私たちのことを語り始める。

宮一紀