第5回 監督紹介・広島国際映画祭2016 上映作品解説(下)
連載最終回となる今回は、ディアゴナルの二人の「ジャン=クロード」、ジャン=クロード・ギゲとジャン=クロード・ビエットについて紹介する。
続き・・・
第4回 監督紹介・広島国際映画祭2016 上映作品解説(上)
最後に、改めてディアゴナルの監督たちの経歴を紹介し、広島国際映画祭2016で上映される作品について解説する。今回はヴェッキアリ、トレユー、フロ=クターズ、ジャック・ダヴィラ、そしてディアゴナル製作のオムニバス映画『愛の群島』を取り上げる。
続き・・・
第3回 ディアゴナルと「1970年代フランス映画」(下)
「ディアゴナル映画」の定義に向けて
ロメール、レオン、ボゾンと三人の論者によるディアゴナル論を紹介したが、ここで筆者なりの視点からディアゴナル映画についてまとめておこう。もちろん、ディアゴナルはそれぞれ個性的な映画作家たちを擁しており、その諸作品はヴァラエティ豊かだが、それでも共通する要素はある。ヌーヴェル・ヴァーグ、あるいはポスト・ヌーヴェル・ヴァーグの有名監督たちの映画と比べながら定義を試みたい。
続き・・・
第2回 ディアゴナルと「1970年代フランス映画」(中)
『1930年代フランス映画≒1970年代フランス映画
ポール・ヴェッキアリは1930年生まれ、すなわち、ゴダールやシャブロルと同い年で、ヌーヴェル・ヴァーグ世代に属するが、一貫して自らを「1970年代フランス映画」の作家と位置づけている。彼いわく、フランス映画の最も偉大な時代は1930年代であり、1970年代はその反復であった。ヴェッキアリの1930年代フランス映画論については以前別のところで詳しく論じた(註1)。ここでその要点だけをまとめれば、同時代のハリウッド映画に比べれば歪で、不完全で、素人的だが、その分自由でアナーキーなのが「1930年代フランス映画」だという主張である。ゴダールはかつて、「どれもが似通っているゆえにアメリカ映画を愛した」と言った。対してヴェッキアリは、どれもが似通っていないから「1930年代フランス映画」を愛する。あえて言えば、才能に恵まれない監督でさえ個性的な映画を撮ることができたのが1930年代フランスであり、ディアゴナルに到るインディペンデント映画の模索はその活力を取り戻すことを目的としていた。
続き・・・
第1回 ディアゴナルと「1970年代フランス映画」(上)
『女たち、女たち』からのディアゴナル誕生
1976年9月、フランスの映画監督ポール・ヴェッキアリ(Paul Vecchiali)はその3年前、作家アルベール・カミュに関するドキュメンタリーを共同製作したセシル・クレルバル(Cécile Clairval)とともに新たな映画会社を立ち上げる。「ディアゴナル(Diagonale)」、すなわち「対角線」と名づけられたこのプロダクションは、以後約10年の間に『マシーン』(La Machine、1977)、『身体から心へ』(Corps à cœur、1978)、『階段の上へ』(En haut des marches、1983)、『薔薇のようなローザ』(Rosa la rose, fille publique、1985)、『ワンス・モア』(Once More/Encore、1988)といったヴェッキアリの諸作品、及び、彼の許に集まった若い批評家たちの長編監督デビュー作、例えば、ジャン=クロード・ビエット(Jean-Claude Biette)の『物質の演劇』(Le Théâtre des matières、1977)、ジャン=クロード・ギゲ(Jean-Claude Guiguet)の『美しい物腰』(Les Belles manières、1978)、マリー=クロード・トレユー(Marie-Claude Treilhou)の『シモーヌ・バルベス、あるいは淑徳』(Simone Barbès ou la vertu、1979)、ジェラール・フロ=クターズ(Gérard Frot-Coutaz)の『晴れのち夕方は荒れ模様』(Beau temps mais orageux en fin de journée、1986)などを世に送り出した。
続き・・・
新田孝行(にった・たかゆき)
フランス映画史研究。主な論文に「ポール・ヴェッキアリによるグレミヨン論──「1930年代フランス映画作家」について」(「映画研究」9号、2014年)、小誌40号への寄稿「芳しき秘教性——ジャン・グレミヨンと「ディアゴナル」の映画作家たち」などがある。