芦ノ湖のかもめ

 9月8日

 おそらく夏の終わり。美しい湖には今落ちたばかりの夕陽の残像がまだ少しばかりの光を放っている。そこにあるのは仮設の舞台。著名な女優の息子は、新しい形式の戯曲を書いた。演じたのは彼が思いを寄せる、領主の美しい娘。その舞台を見るために、その湖畔に帰ってきたのは、著名な女優である母、そして母の愛人である有名な小説家。……しかし、「新しい形式」の戯曲は、文字通りの失敗に終わり、息子も美しい領主の娘も失意の底に落とされる。もうその地を発たねばならぬ時間が迫った小説家と、娘が偶然出会う。「わたしならあなたの立場に身を置いてみたいですわ」と小説家に話しかける娘。「またどうして?」と娘に答える小説家に、彼女は続ける。「才能ある作家ってどんなことなのか分かりますもの。有名であるって、どんなお気持ちなのかしら?」娘は矢継ぎ早に小説家に問い続ける。だが、もちろん、小説家は、有名であることなど意識しない、ひとつの作品を書き終わると、もう次の作品に取りかからねばならない、焦燥感がつのり、自分自身に才能があるのかなどと問う暇さえないのだ、と言う。彼が真に才能のある作家かどうかを脇に置いても、何かを書き記すことを生業とする者ならば、この作家──トリゴーリンという名前だが──の、ちゃらんぽらんに感じられるかも知れないが、その奥には、ある種の誠実さを備えた長い言葉の数々に、静かに同意するだけだ。「私の場合、昼も夜も私を苦しめるのは、書かなければ、書かなければ……と頭にこびりついて離れない考えです。一本書き上げたかと思えば、もうまた次の作品に取りかからなければならない。それが終わるとまたその次、それからまた次の作品ということになる。ひっきりなしに書いていて、これじゃまるで駅馬車を乗り継いでいるようなものですが、そうするほかないんです。どこに晴れ晴れとした生活があります?」

 作家の言葉が、彼の現実についてますます誠実になっていき、「私は自分自身が好きになったことなど一度もない」と吐き捨てるのだが、彼の言葉を聞けば聞くほど、娘──ニーナという名前だ──の名声への憧れは大きくなっていく。「あなたは他の人々にとっては、とてもすばらしくて大きな存在です。もしわたしがあなたのような作家でしたら、わたしは人々のために自分の全生涯を捧げるでしょう」。ニーナにあるのは、著名な作家という概念と目の前にいるトリゴーリンという誠実な中年男という具体的な姿との混同だ。こうした憧憬そのものも若さゆえの特権だ、と書く、ぼくもトリゴーリンと同種の、自らへの諦念とアイロニーで自分を擁護する小さな存在なのだ、と、このチェホフの『かもめ』を読みながら確信する。だが、こうしたトリゴーリンの諦念についての言葉が具体的な比喩の中で大きくなっていくと、ニーナの中で膨らんでいくのは、加速度を増した創造活動への憧憬とその憧憬をトリゴーリンという「小さな存在」に無理矢理重ね合わせようとする欲望だ。ニーナにとって、トリゴーリンこそ自らの未来であり、つまり現在の自分を投機する対象なのだ。しかし時間がない。若いニーナは、こうした混同が大きくなればなるだけ、さっき自分が演じたばかりの恥辱的な「失敗作」を書いた女優の息子──トレーブレフという若者だ──の失意がない増しにされることが想像できない。自分自身の欲望に正直であることが、他者に耐え難いほどの失望を与えることを想像できる若者など存在するはずがない。

 「お呼びだ。おそらく荷造りでしょう」と言ってニーナの許から去っていくトリゴーリン。別れ際に彼はニーナに自分の持っている自作のメモについて語る。「ちょっとした短編の題材です。ある湖の岸に、あなたのような若い娘が子どもの頃から暮らしている。かもめのように湖が好きで、仕合わせで、かもめのように自由だった。ところが、そこにたまたま男がやってきて、彼女を見そめ、退屈紛れにその娘を破滅させる」。そこに現れるのが作家の愛人である女優──アルカージナ──だ。「トリゴーリンさん、どこです?」「何ですか?」「私たちここに残るわ」。チェホフのト書き。「トリゴーリン。屋敷に向かう」。次いでニーナの台詞。チェホフのト書き。「フットライトまで出てくる。しばらく考え込んだ後」。ニーナは言う。「夢だわ」。夢ではない。そんなことは判りきっている。ぼくだって、『かもめ』を読むのは、これが初めてではない。何度も読んでいるし、舞台だって何度か見たことがある。やがてトリゴーリンのメモは、彼の自作のなるではなく、ニーナの現実になることなど、チェホフの忠実な読者でなくても想像できるだろう。

 ぼくは、岩波文庫版、浦雅春訳の『かもめ』から目を上げる。前の前に広がるのは、夕刻が少しずつ迫ってくる広大な湖。安普請の土産物店が建ち並ぶ湖畔。そんななかにある湖に突きだした場所に大きくテラスが広がっているイタリア料理店にぼくはいる。少しだけカップの底に残ったエスプレッソはもう冷えてしまった。緩やかな風に雲がちぎれて流れていく。山々の稜線に、太陽が少しずつ近付いていく。いつかこの場所に、この戯曲にあるような仮設舞台が建てられ、名優たちが、このチェホフの傑作を上演し、その中にある、登場人物たちの微妙な変化を、豊かな言葉に乗せて語られる夕刻があれば、それに勝る快楽はないだろう。