ニュースアグリゲータ

『螺旋銀河』(草野なつか)

革命の日の朝の屑拾い日記 - 月, 07/21/2014 - 15:45

突然だが、もしあなたが新しい才能をいち早く発見する喜びを味わいたいなら、今日22日(火)と26日(土)に《SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2014》で2回だけ上映される草野なつかの『螺旋銀河』に駆けつけていただきたい。 ショットで突出する映画ではない。だが、流れがいい。だから目が離せなくなる。そのうちに二人の女優がどんどんと輝いていく。 映画に開眼してやっと10年経ったかどうかという若・・・

『収容病棟』 王兵(ワン・ビン)

荻野洋一 映画等覚書ブログ - 土, 07/19/2014 - 17:01
 このドキュメンタリー映画の舞台となる精神病棟が形成する「ロ」の字型の空間を、よもや「映画的」などと称したら不埒に過ぎるだろうか。中国西南部・雲南省の精神病棟のなかにカメラが分け入っている。四方八方を重度の精神異常者たちが徘徊する、と思いきや意外とおだやかな日常がある。ベッド下の洗面器に小便をドバッと垂れるシーンが何度も出てくるのには閉口するが…。だのに、なぜか大便がらみの不衛生描写は皆無である。そして、性欲がらみの描写が皆無なのはどういうわけなのか。ナースが単身で病棟内に入っていって、男性患者の尻にブスっと注射を突き刺したりするが、彼女と患者たちとのあいだで、まったく好色的なもめ事が起きないのである。どういうものだろう。
 本作における四囲の空間は、ドン・シーゲル『第十一号監房の暴動』の監獄空間がかもすドス黒い不快さと、ロベルト・ロッセリーニ『ロベレ将軍』の四囲空間で示される囚人同士のリスペクトの、ちょうど中間くらいの状況を素描しているように思える。王兵の前々作『無言歌』(2011)における、文化大革命の思想犯たちが入れられる、砂漠の洞穴のような収容所の苛酷さにくらべれば、平和そのものである(患者の中には思想犯も含まれていることが示唆される)。王兵は本作を通して、収容患者たちの不衛生な待遇を告発しているのだろうか。どうも、そういうものでもないようだ。しかしまあ、この病棟に入院しても、誰も病気が治らないことは、火を見るよりも明らかであるが。
 ただカメラを向けているといった執着のなさがいい。隣の住人を見るように、あるいは行きつけの飲み屋の常連を見るように、観客は、ここに出てくる患者たち各々の顔を完全に覚えてしまうだろう。年取った男性患者と、下の階の女性患者の鉄格子ごしの静かな交流には、すっかり時間が止まらせられた(しかし、女性患者は階段で上階下階と移動自由なのだろうか? それとも彼女の症状が軽いからなのか?)。第一部と第二部を、同日内に一挙に見終えることをお薦めする。


シアター・イメージフォーラム(東京・渋谷宮益坂上)ほか、全国順次公開
http://moviola.jp/shuuyou/

ルドルフ・シュタイナー展〈天使の国〉@ワタリウム美術館

荻野洋一 映画等覚書ブログ - 木, 07/17/2014 - 13:40
 ハプスブルク帝国出身の神秘思想家・教育学者のルドルフ・シュタイナーの絵画、建築、家具デザイン、宝石デザインなど、美術的方面に絞った展示が、ワタリウム(東京・外苑前)で開催されている。ゲーテ、ニーチェ、カンディンスキー、ヨーゼフ・ボイス、ミヒャエル・エンデ、ル・コルビュジェといった固有名詞が脇をすり抜けながら、シュタイナーの活動を彩る。
 入場してしばらく続く〈黒板絵〉が展示の中心をなす。〈黒板絵〉とは、シュタイナーが思想講習会の壇上で板書をすることに対し、熱心な受講者グループが壇上の黒板に黒紙を毎回にわたり貼り付けて、シュタイナーの板書を保存しようと努めたことによって、今に見られるのである。黒地の模造紙に、黄色・赤・白の3色のチョークで厳密に素描されたさまざまな概念図。これにシュタイナーのアフォリズム(箴言)がポップに示され、シュタイナーの表現が内外の両面から理解できるようになっていて、見ていて楽しくなってくる。松岡正剛はシュタイナーの〈黒板絵〉連作を見て、「パウル・クレーに匹敵する」と評したが、じっさい、これらの〈作品〉は思想的裏付けはもちろん前提としてあるものの、単にチョークの走りとして、じつに闊達さが横溢している。


ワタリウム美術館(東京・外苑前)にて8月23日(土)まで会期延長とのこと
http://www.watarium.co.jp/museumcontents.html

2014-07-17

『建築と日常』編集者日記 - 水, 07/16/2014 - 15:00
別冊『窓の観察』の著者である柴崎友香さんが、小説「春の庭」(『文學界』6月号)で第151回芥川龍之介賞を受賞されました。たいへんおめでたく思います。受賞作はまだ拝読していませんが、単行本もまもなく出版されるようです。 芥川賞受賞しました! ありがとうございます!— 柴崎友香 (@ShibasakiTomoka) 2014, 7月 17 柴崎友香『春の庭』文藝春秋(2014年7月30日発売) http://books.bunshun.jp/ud/book/num/97841639 ...

『エンリコ四世』マルコ・ベロッキオ渡辺進也

nobodymag journal - 火, 07/15/2014 - 20:45
 アストル・ピアソラの、うねってるというか弾けてるというか、スクリーン上で何ひとつ起こっていなくとも何か意味があるようにしか聞こえない、一言でいうとラテン風のドラクエみたいな音楽が流れている。その音楽をバックに車が林の中を進んでいく。  車に乗っているのは運転手の他に、精神科医風の男、後部座席には妙齢の女性とその彼女の愛人風な男。精神科医風の男は若い男が仮装した姿の写真を見ていて、その理由を質問し...

『オール・ユー・ニード・イズ・キル』ダグ・リーマン渡辺進也

nobodymag journal - 火, 07/15/2014 - 20:39
 2008年ぐらいに『ジャンパー』という映画があって、これは主人公が時空を飛び越える能力を持っていて、敵からその能力を使って逃げ切るというものだった。この映画で主に展開されるのは、(実際にはあったのかもしれないが)敵との戦闘シーンではなくて、ひたすら主人公が逃げるというものであって、その能力の発揮の仕方がハードルのように跳ぶと東京からエジプトというように瞬間移動するということもあり、ハードル競技を...

『トランセンデンス』そして/あるいは『her 世界でひとつの彼女』

荻野洋一 映画等覚書ブログ - 月, 07/14/2014 - 16:21
 現在公開中の2本の新作アメリカ映画──それは共通して、人工知能コンピュータが異常な進化をへて人称性を得るにいたり、さらには生身の人間と恋愛する物語をもっている。ひとつは、ウォーリー・フィスターの『トランセンデンス』であり、もうひとつは、スパイク・ジョーンズの『her 世界でひとつの彼女』である。前者では、志半ばにしてテロの犠牲となった科学者ジョニー・デップの脳神経プログラムがコンピュータ内に移植され、死後は人工知能として愛妻のレベッカ・ホールと再会する。後者では、孤独な中年男ホアキン・フェニックスが人工知能をもつOS「サマンサ」をひょんなきっかけでインストールし、そのオーラル機能であるスカーレット・ヨハンソン(の声)と恋に落ちる。
 前者ではやがて全能の野望が底なしとなり、マッド・サイエンティスト的破滅へと収束する。スーパーコンピュータの暴走を映画史上初めて描いた『2001年宇宙の旅』(1968)が下敷きとなっているのは、ジョニー・デップの設計したスパコンのセットデザインが「HAL 9000」そっくりであることからも明らかだ。いっぽう後者でもっぱら姿なきDJとしてのみ登場するスカーレット・ヨハンソンは、ギャランティをどれほど値切られたのだろうかと邪推してしまうのが、われら観客の俗な関心だ。不毛だと了解していてもなお、機械との恋に埋没するホアキン・フェニックスは、『ブレードランナー』(1982)のハリソン・フォードの生まれ変わりだろう。ビル影に大モニターが出没して、ちっぽけな主人公に覆い被さることからもそれは明らかだ。ロケ地としてロサンジェルスと上海の二都市をたくみにミックスし、どちらともつかぬ匿名のコスモポリタン都市として現出させるあたりも、多分に『ブレードランナー』風味である。
 そして『トランセンデンス』がB級SF的不毛を再生産し、『her 世界でひとつの彼女』がもてない男の幻想を肥大化させる。どっちもどっちの両作であるが、あえて個人的趣味から言わせてもらうなら、前者への苛立ちを、後者が癒やしてくれたことを告白せねばならない。まさかスパイク・ジョーンズに慰められるとは、想像だにしなかった。


『トランセンデンス』 丸の内ピカデリーほかで上映
http://transcendence.jp
『her 世界でひとつの彼女』 ヒューマントラストシネマ有楽町ほかで上映
http://her.asmik-ace.co.jp

2014-07-15

『建築と日常』編集者日記 - 月, 07/14/2014 - 15:00
例の講義の第12回が終了。「日本建築の空間と表象」。表象という言葉の使い方が今ひとつ分かっていない。残り2回。

クロード・レヴィ=ストロース 著『月の裏側』

荻野洋一 映画等覚書ブログ - 日, 07/13/2014 - 16:24
 20世紀最大の知性、クロード・レヴィ=ストロース(1908-2009)の遺稿のうち、日本に関するものを採録した"L’autre face de la lune: Écrit sur le Japon"(Editions du Seuil)が2011年にフランスで刊行され、大好評を得たそうだが、それから3年をへてようやく『月の裏側──日本文化への視角』(中央公論新社 刊)として邦訳が出たばかりである。
 レヴィ=ストロースが初めて日本の土を踏んだのは70歳近くになってからに過ぎないが、彼と日本の出会いは決して浅くなく、6歳の時にジャポニスムに感化された画家である父から、善行のたびにごほうびでもらった浮世絵のコレクションがその馴れ初めなのである。「悲しき熱帯」ブラジルとの濃密なランデヴーが彼の業績の大部分を占めたため(今夏は別の意味で「悲しき熱帯」になってしまったが)、日本への関心は初恋からうっすらと続く通奏低音に過ぎなかったかもしれない。だが、それがやがて狂おしい老いらくの恋へと発展したことは、本書における率直な日本への愛の表明が証拠立てているだろう。
 本書を、ロラン・バルトによって書かれた、読み手の心を溶かすような日本論『記号の帝国』に次ぐ不朽の名著として、世界史に登録せねばならない。それは単に愛国的身振りであることを超越して、20世紀最大の知の巨人によってその狂おしい記述の対象となった側にとって、この世における最低限の礼儀ではないだろうか。
 巨人の弟子にして、日本における窓口を司った文化人類学者・川田順造による訳注はやや意地悪で、師の日本に対する誤解、思い違い、贔屓の引き倒しを容赦なく指摘して、この本の熱を冷ます。それによって、レヴィ=ストロースの晩年の稚気が強調されている。天才の稚気があぶり出されるのだ。しかし、禅僧画家の仙?(1750-1837)について書かれた「世界を甘受する芸術」ほどの美しいテクストを、私たちはいったいこの世のどこで読むことができるというのだろうか?
 クロード同様に日本マニアである彼の次男マテュー・レヴィ=ストロースが父の米寿の祝いに贈った日本製炊飯器を、晩年の巨匠は愛用してやまなかった。曰く、「ご飯に焼き海苔をふたたび味わえるのが、ほんとうに嬉しいのです。ご飯に焼き海苔、それは、この海藻の味わいとともに、プルーストにとってマドレーヌがそうでありえたのと同じくらい、私にとって日本を思い起こす力をもっているのです!」 …炊飯器の手柄が『失われた時を求めて』におけるマドレーヌの味わいに喩えられるとは、近年精彩を欠く日本の工業技術も、いくばくか貴重な歴史的役割を果たし得たと言えるのではないか。
 本書と同じ版元Editions du Seuilから去年出たばかりの"Nous sommes tous des cannibales"(われわれはみんな人食い人種である)の早期邦訳刊行も期待したいところである。

中野成樹+フランケンズ『ハイキング』『天才バカボンのパパなのだ』

荻野洋一 映画等覚書ブログ - 金, 07/11/2014 - 21:19
 中野成樹+フランケンズ(以下、ナカフラ)の別役実戯曲2作同時上演『ハイキング』『天才バカボンのパパなのだ』を、水曜金曜と1日おきに見に行く。
 ナカフラといえば本来チェーホフほか海外戯曲の〈誤意訳〉による上演を得意とするグループで、前回の評では大谷能生と組んだチェーホフ『長単調(または眺め身近め』(あうるすぽっと)をとりあげた。今回は国内作家、それも別役実の不条理演劇である。誤訳、意訳が得意とはなんとも人聞きが悪いが、ナカフラの場合、その人聞きの悪さそのものが主題となっていると言って過言ではない。
 今回の2作上演を、大いなる笑いにつつまれて見終えた。〈間〉のズレの面白さは絶妙で、楽しい気分で劇場を後にした。しかし、不条理であることを笑う、〈間〉のズレを笑う、それでいいのだろうかという疑問を抱いた。深夜テレビなどで演じられる少しシュールな漫才と同じ感覚でこの体験を消費してもいいのだろうか。いや、私は演劇というものに、それ以上のものを要求する。それ以上とは何か。それは、演劇がすでに終焉したジャンルであるという諦念のあとにそれでも醸し出される油脂のことである。今回の2作上演にこの油脂が欠けていたとは断言しない。しかし、上演者側および観客である私たち双方にその油脂が完徹されていたかどうか。
 では、近年の別役戯曲の上演とくらべるとどうか。たとえば大滝秀治率いる劇団民藝が、伝統のメソッド演技を捨てて別役実を理解しようとして滑稽なほど悪戦苦闘する『らくだ』(2009 紀伊國屋サザンシアター)はどうだろう。NHKで『らくだ』上演までの故・大滝秀治の格闘に密着したドキュメンタリー番組が放送されていたのを見たことがあるが、高齢の大滝が別役戯曲への違和を克服しようともがく姿は、まさに「演劇」そのものであった(大滝秀治追悼記事)。そして昨夏に深津篤史演出で上演された『象』(2013 新国立劇場)。放射能によるケロイドのもてあそび(「オリーブオイルを塗ると塗らないとでは、ケロイドのツヤが違う」といったセリフの醸す笑いの黒々しさ)ほか、登場人物の一挙手一投足に息を飲んだ。大量の悲しみが溢れるのを受け止めきれぬほどだった。
 民藝や深津篤史にくらべると、緊張感のレベルが少し違うのではないか。選んだテクストが、よりライトな感覚のものだったに過ぎないのか。突然アニメソングを唄い出したりするパロディの援用におもねった世の小劇場演劇、あれらに時間を使う余裕は、私たちにはない。ナカフラはそういうレベルのものではないというのは今回も感じられたが、よりいっそう研ぎ澄ませてほしい。

P.S.
 見終えて、下北沢のバーで飲む。初めて入った上演会場のシアター711は、たしかシネマ下北沢(のちのシネマアートン下北沢)の跡地であるはずである。バーテンダー氏に確認したところ、やはりそうだと言う。711というのは劇場オーナーの誕生日なのだそう。とすると、きょうは誕生日だったということか。無料サービスとかそういうのはないのだね。シネマ下北沢は以前、あがた森魚の監修のもとで拙作短編も上映してくれた劇場である。入口階段から廊下、ホール内、併設のカフェまでふくめ、凝りに凝った愛に溢れるレトロモダンなセットデザインだったように記憶している。今回伺ったシアター711にその面影は、トイレのシンクに張られたタイル以外はほぼゼロ。スズナリ風の謹厳実直な普通のアングラ劇場となっていて、時計が逆に遡った感覚を覚えた。


中野成樹+フランスケンズ〈誤意訳から別役へ〉2作上演は、下北沢シアター711(東京・世田谷)で7/15(火)まで
http://frankens.net

2014-07-12

『建築と日常』編集者日記 - 金, 07/11/2014 - 15:00
なんの予備知識もないまま、宮崎夏次系という漫画家の漫画『夢から覚めたあの子とはきっと上手く喋れない』(講談社、2014)を読んだ。全9話の短編集。日常に垣間見える非日常性というか、人間や人間関係の深くて暗い部分を詩的にすくい上げようとしていると言えるだろうか。人によってはどれも理解の範囲を超えた気味の悪い話に思えるかもしれないし、ピタッとはまる人にとっては感情を激しく揺さぶられる作品かもしれない。僕はその中間というか、世界観にはある程度共感しつつも、その作品世界は不思議と浅く感じられた。おそらくこの作 ...

ロシア・ソヴィエト映画 連続上映 ロシア・ソヴィエト映画 連続上映/第10回 グルジア特集1

第10回目の節目の開催となる今回は、イオセリアーニやパラジャーノフ、ダネリヤなど、個性豊かな映画作家を多数輩出してきたグルジア映画の一端をうかがいます。どうぞお楽しみに。

クリストファー・ノーラン「映画館は生き残る」について

Dravidian Drugstore - 金, 07/11/2014 - 10:39

クリストファー・ノーランがWSJに寄せた「映画館は生き残る」という文章が話題になっていたのですが、まず日本語訳が良くなくて内容が分かりにくいってことと、もう一つ、論理的に飛躍していて、特に新しい視点もない気がしました。

本家の英語版はこちら。
http://online.wsj.com/articles/christopher-nolan-films-of-the-future-will-still-draw-people-to-theaters-1404762696
WSJ日本語版で読める該当記事はこちら。
http://jp.wsj.com/news/articles/SB10001424052702304188504580018153711393826

もちろん、有名監督が映画館大丈夫だぜって言うことには一定の意味があると思いますが、とりわけ日本では情緒じゃなく明確なロジックでものを考える必要があると思うんですよ。映画好きな人たちが映画素晴らしいって言ったって解決にならないってのが今の問題な訳だし。

全体の中で論旨として重要なのは後半の二つのパラグラフ。

The theaters of the future will be bigger and more beautiful than ever before. They will employ expensive presentation formats that cannot be accessed or reproduced in the home (such as, ironically, film prints). And they will still enjoy exclusivity, as studios relearn the tremendous economic value of the staggered release of their products.

The projects that most obviously lend themselves to such distinctions are spectacles. But if history is any guide, all genres, all budgets will follow. Because the cinema of the future will depend not just on grander presentation, but on the emergence of filmmakers inventive enough to command the focused attention of a crowd for hours.

意味が通りやすいようにザックリ訳すとこんな感じ。

「未来の映画館は、かつてなく大きく美しいものとなるだろう。そこでは、家庭では到底不可能なほど高価な上映形態が採用されるに違いない(たとえば、皮肉なことにフィルムがそうなる)。そして、その体験は映画館でのみ味わうことができるのだ。というのは、映画会社は自社の作品を映画館へと優先的に供給することの経済的価値を再び学ぶであろうから。

明確に違いを際立てるのはスペクタクルである。しかし、歴史に学ぶならば、あらゆるジャンル、あらゆる予算の映画がこのあとに続くだろう。なぜならば、未来の映画は壮大な作品ばかりではなく、何時間も観客を集中させることが出来るほど独創的な映画作家が登場するかどうかにもかかっているからだ。」

ここで彼は、1:映画館はスペクタクルを体験するための場所になる、2:未来の映画はスペクタクルばかりではなく、独創的な映画作家によっても支えられる、という2つの内容を語っている。

まず、1に関しては、すでに多くの人が指摘している通り。映画館は特別な日に家では味わえない特別でスペクタクルな体験をするための場所になる。しかし、それはすなわち映画が大衆娯楽ではなくなるということでもある。さらに、スペクタクル産業としては競合するライバルもたくさんいる。

おそらくハリウッドは十分やっていけるでしょうし、むしろこの分野での世界の需要をますます独占するでしょう。しかし、それ自体が問題である。つまりハリウッド以外のマイナー映画に生きる道はあるのか?

次に、2番目のポイント。スペクタクルに牽引される娯楽産業となった映画の中で、独創的な映画作家の居場所はあるか?もちろん、あるでしょう。ノーランのように独特のテイストを備えた作家もまたハリウッドは必要としている訳ですから。

とは言え、それがすなわち、独創的な映画作家やマイナーな映画作家が生まれてくる土壌が成立することを意味してはいない。この辺、ノーランの文章は曖昧でずるいと思いました。あるいは真面目に考えていないか。
意地悪く言えば、自分は成功者ですからね。これから成功したい人間や成功しなくても生きていくべき人間のことは彼には考える必要がない。

いずれにせよ、大衆娯楽ではなくなった映画には、そのようなオルタナティヴのための土壌を自前で用意する余裕はないでしょう。むしろ、ますます効率優先になるばかりですよね。

ハリウッドとスペクタクルの殿堂となった豪華な映画館以外はどうなるか。映画というものが特別な日に味わうスペクタクルになるのであれば、そしてそれが同じ程度の値段であるならば、誰しも潤沢な予算で作られた高価なハリウッド映画を選択するでしょうし、豪華な映画館を選択するでしょう。

つまり、多様性の存在する余地がなくなっている。これが問題である訳ですが、ノーランの文章はそれに関して何も答えていない。かなり積極的に曖昧で、何か中身の伴わない希望ばかり語ってる気がします。

『郊遊』 蔡明亮

荻野洋一 映画等覚書ブログ - 水, 07/09/2014 - 16:01
 蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)監督の最新作にして引退作でもある『郊遊〈ピクニック〉』を試写で見た。蔡明亮はまぎれもなく “作家” だ。この人の作風に拒否反応を示す人も少なくないが、1カットを見ただけで蔡明亮の映画だと誰でも言い当てることができる。これは認めるべきだと思う。今回の『郊遊』でも、常連役者の李康生(リー・カンション)が台北の場末を退屈まぎれにそぞろ歩いてみせるだけで、あっという間に蔡明亮の映画になってしまう。
 素朴な疑問として、なぜ蔡明亮は引退してしまうのか? 映画監督が存命中に引退宣言するのは、意外と見られないことだ。たいがいの人は未練たっぷりにフェイドアウトしていき、死ねばそれなりにオマージュを捧げてもらえるといった昨今の世の中だ。1957年生まれというから、やはり引退宣言した宮崎駿はもちろん、いまだ若手の気風を残す黒沢清よりも年下なのに。映画作家は次のように書いている。「私は、いつ死んでもおかしくないというほどに体調が悪くなった」「近頃のいわゆる、エンタテイメント・ヴァリュー、市場のメカニズム、大衆の好みへの絶え間ない迎合、それらが私をうんざりさせた」と。だがこれは、フィルムメイカーにあるまじき甘ったれた思想とも言える。映画が市場のメカニズムから解放されるなんてありえない。しかし、それも選択だ。映画から離れるのも悪くない選択である。皆が皆、すっかりやせ細ったこのジャンルにしがみついている必然性はない。
 試写後、配給スタッフの方が私に、蔡明亮は本国ではファインアート、パフォーマンスアートの分野ですごく高い評価を得ているから、とも注釈を加えてくださった。つまり、商業映画の枠を越えたいということだろう。そう言われてみれば、『郊遊』に写されたあらゆる事象──人間たちの営み/都市の片隅に打ち捨てられた廃墟/川っぺりの水際の泥/大通りに林立する人間立て看板/連日降りつづけるどしゃぶり/廃墟の壁に描かれた石ころだらけの風景画、エトセトラエトセトラ──これらは全部、インスタレーションだと思った。しかも、そんじょそこいらでお目にかかれないほどハイレベルな。誰もが侯孝賢のように、映画そのものであり続けることの栄光と悲惨を体現できるわけではないのだ。だから、蔡明亮の選択は決して甘えなどではなく、才能のある人特有の冷淡さというか、冷厳な選択なのである。
 現実という残酷にして有限の物象を素材とした、蔡明亮の無限なヴィジョンを具現化させた剥製として、この最終作『郊遊』は、青白く冷えきった光を、見る側に鋭利に差し向けている。それにしても、『郊遊』というのは、じつに美しいタイトルである。


8月下旬、シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開の予定
http://www.moviola.jp/jiaoyou/

『愛のあしあと(Les bien-aimés)』 クリストフ・オノレ

荻野洋一 映画等覚書ブログ - 月, 07/07/2014 - 15:43
 クリストフ・オノレは最新作『メタモルフォーズ(Métamorphoses)』がすでに完成し、今年10月にフランスで公開される予定と雑誌で読んだ。そのオノレの2011年作品『愛のあしあと(Les bien-aimés)』を、アンスティテュ・フランセ東京(東京・市谷船河原町)で開催された〈女優たちのフランス映画史〉の最終日最終回で見ることができた。
 オノレはフランスの国立映画学校FEMISではノエミ・ルヴォフスキー、フランソワ・オゾン、グザヴィエ・ボーヴォワより少し後の世代に属する。これら90年代派のフランス作家たちはこぞってフィリップ・ガレル、ジャン・ユスターシュびいきに見える。アルノー・デプレシャンにしてもそうだが、フィジカルなリアリズムが根底をなし、これにアラン・レネの荒唐無稽が接ぎ木されている。ひるがえってクリストフ・オノレは今作を見るにつけ、彼らとは様相を若干異にする。まず彼は、毛沢東主義時代以前の1960年代的ヌーヴェルヴァーグへの親近感を隠そうとしない。これは、私がフランスという国を自分なりに見てきた限りにおいて、意外と勇気ある姿勢だと思う。というのも現代フランスにおいて、ヌーヴェルヴァーグなどと口走ろうものなら、「やめてくれ、あんなものはもう年寄りの骨董だよ」というアレルギー的な反応がすぐに返ってきてしまうのである。

 『愛のあしあと(Les bien-aimés)』はまず手始めに、トリュフォーの脚線美フェティシズムから入る。「ロジェ・ディディエ(Roger Didier)」なる(おそらく架空の)靴屋でさまざまな女性客の試着姿が写される。この靴屋の店員であるヒロインが店の地下倉庫からえび茶色の高級ハイヒールを盗み、安手のモカシンからこれに履き替えたとき、物語は高々と始動を宣言されるだろう。
 このヒロインはジャック・ドゥミ『シェルブールの雨傘』から飛び出してきた化身で、震える声で何曲もフレンチポップスを歌う。そして、このヒロインを年取ってから演じるのが、何を隠そうカトリーヌ・ドヌーヴである。若き日のヒロイン(リュディヴィーヌ・サニェ)はハイヒールを万引きしたのちパリの裏角で売春婦をはじめる。『女と男のいる舗道』である。ここになぜかヴェラ・ヒティロヴァー、ミロシュ・フォルマンらによるチェコ・ニューシネマが接ぎ木され、彼女が産む娘(ヒティロヴァーに敬意を表したか、ヴェラと名づけられる)は、ドヌーヴの実娘キアラ・マストロヤンニが演ることになる。母と娘は、それぞれ愛に接したり遠ざかったりするが、その主舞台はセーヌ川のいろいろな橋であったり、鉄道を下に見下ろす陸橋だったりする。『パリところどころ』である。
 キアラの年下のボーイフレンドをルイ・ガレルが演ることにより、フィリップ・ガレルとニコの恋愛に目配せしつつ、キアラは9.11テロで騒然とする北米の某都市でみずから昇天する。キアラが1990年代に入って片思いを寄せるゲイ・ドラマーの演奏シーンはまさに、『右側に気をつけろ』を彷彿とさせるだろう。つまり、どこまでもその時代時代に添い寝しようという覚悟を、オノレは自分自身に課したかのようである。
 最後は、パリから特急で1時間に位置するという北フランスの都市ランスの、瀟洒な一軒家が主舞台となり、なにやらリヴェットやシャブロルの後期作品のごとき、一軒家の怪しい人間模様に移行する。そして、カトリーヌ・ドヌーヴが、若き日に万引きしたえび茶色の高級ハイヒールを、どのように処理するか。これが最後のクライマックスとなる。みごとな共犯関係を張りめぐらすラストの演出で、見る者に感激をもたらすだろう。ヌーヴェルヴァーグについての、かなり遅刻気味ではあるが、冒険をいとわぬ総括として本作は在るように思う。

2014-07-08

『建築と日常』編集者日記 - 月, 07/07/2014 - 15:00
例の講義の第11回が終了。「映画における建築・空間」ということで、ところどころ『映画空間400選』(→)を参照しつつ、90分間で9本の映画を紹介した。一方ではおよそ15分の『月世界旅行』(1902)を1.5倍速で流し、もう一方では『こわれゆく女』(1974)の食卓を囲んでスパゲッティを食べるシーンを15分以上にわたって流す。『こわれゆく女』はドキュメンタリー/フィクションの対立的な枠組みをはみ出す様態という文脈で、なかば無理矢理ねじ込んだのだけど、なんの変哲もない住宅の空間があれだけの密度をもち、しか ...

なべおさみ 著『やくざと芸能と』

荻野洋一 映画等覚書ブログ - 土, 07/05/2014 - 20:21
 日本テレビ『ルックルックこんにちは』やおびただしい数のドラマなど、なべおさみというと1980年代くらいまでは、あのプンプン怒って紅潮したチビな兄ちゃんという風采でお茶の間の欠かせぬ顔だった。海援隊の武田鉄矢が出てきたとき、私は子供心に「あ、このキャラはなべおさみのマネだよな」と感じたものである。そんななべおさみも1991年、息子の「明治大学裏口入学事件」を起こして芸能活動を自粛。1年後に『笑っていいとも!』を口火に芸能界復帰を果たしたらしいが、私自身テレビを視聴しなくなったこともあり、なべおさみの顔は久しく見ていない。なお、裏口入学事件の当事者は、当時高校生だった息子の「なべやかん」である。
 先々月(5月)末、吉祥寺バウスシアターの「爆音映画祭」でブライアン・デ・パルマの『ファントム・オブ・パラダイス』を見た帰り、アーケード内のBooksルーエで立ち読みしていたときに新刊コーナーで小林信彦『「あまちゃん」はなぜ面白かったか?』と、本書『やくざと芸能と』(イースト・プレス 刊)の2冊を発見した。本書の帯には「知られざる昭和裏面史」と銘打たれ、「ビートたけし、絶讃。“こりゃあ凄い本だ!”」と印刷されている。読まずにいられるわけがない。
 彼の自伝として書かれた前半も面白いことは面白い。不良高校生として闊歩した1950年代の銀座の不良グループの実態やいろいろな店の名前、喜劇役者をめざして水原弘と勝新太郎の付き人をしていた設立初期のナベプロの動向などは、じつに興味深い東京の歴史である。しかし、後半章の〈「本物」のやくざを教えよう〉こそ、この本の真の驚きだ。たけしが “こりゃあ凄い本だ!” と言ったのもこの章を読んでのことかと思われる。やくざ社会の成り立ち、そして観阿弥・世阿弥、出雲の阿国、吉原遊郭を仕切った浅草弾左右衛門からはじまる河原者(カワラモノ)・芸能者(カブキモノ)の歴史、穢多・非人の歴史が、〈なべおさみ史観〉によってダイナミックに語られる。ここ四半世紀はあまりこの人の顔を見ないと思っていたら、こんなことを研究していたのか!
 のれん、手ぬぐい、ほっかぶり、編み笠といった日常品の誕生も、穢多・非人の歴史と関わっていることが、この人独特の熱血的な筆致で語られる。そしてその源流を、倭国に渡来してきた秦氏とその氏族集団に求めている。この氏族集団は、金属加工・皮革加工・石工・養蚕などを倭国(古代の日本)にもたらした技術者集団であり、また祭祀における太鼓の制作(皮革加工)や雅楽といった芸能活動のエキスパートとして、初期の天皇制を裏側から支えつつあったのだという。そしてこの秦氏の源流はもともと、中国北方(現在のカザフスタン)に移った北イスラエル十支族のうちのひとつであり、日本語の「ヤクザ」「クサ(草)」「クズ(屑)」「カスミ(霞)」「クシュイ(臭い)」といった単語の語源は古代ヘブライ語の「クシュ」なのだそうで、そのあたりの言語的な説明もくわしい。なべおさみ、あの紅潮したプンプン顔はペンの中に健在なりである。

2014-07-06

『建築と日常』編集者日記 - 土, 07/05/2014 - 15:00
テレビで放映していた、ブラッド・バード『レミーのおいしいレストラン』(2007)を観た(たぶんテレビ用に相当カットされていたと思う)。ピクサーによるアニメーションで、たぐいまれな嗅覚・味覚をもったネズミが人間社会のレストランのシェフになるという話。ネズミと人間とが会話できたりはせず、ネズミがレストランの厨房で料理することは非現実的であるという感覚を残しながら物語が作られている。そのあたりの現実/非現実の組み立てがよいのだろうなと思った。一方では「誰にでも可能性はある」という基本的に押しつけがましくなる ...

2014-07-05

『建築と日常』編集者日記 - 金, 07/04/2014 - 15:00
まえに参加者の募集もした(6月20日)建築講座のテスト回が無事終了。下の引用文は、カーンの〈ビギニングス〉の概念を説明するときに参照した学校の話だけど、考えてみると今回のこの講座自体が、そこで書かれているような原初的な空間に近いかもしれない。僕は〈ビギニングス〉を歴史的な文脈で説明しつつ、実例として《インド経営大学》(1962-74)を引き合いに出したのだけど、実際に自分ではその建築を訪れたことがなく、でも受講者のなかに何人か行った人がいて、今度はその人たちが自分の経験や認識を語り始めるというような。 ...

『GF*BF』 楊雅?(ヤン・ヤーチェ)

荻野洋一 映画等覚書ブログ - 木, 07/03/2014 - 21:33
 台湾映画の新作『GF*BF』を見ようとして、劇場の切符売り場で思わず口ごもってしまった。係員も心得たもので、すぐさま「『GF*BF』でございますね」と助け舟を出してくれたから、このタイトルを失念する客、どう読んでいいか途方に暮れる客は少なくないのであろう。中国語の原題は『女朋友。男朋友』なので、“邦題にも台湾映画らしい風情が欲しかったなあ、いま思えば『恋恋風塵』とか『恐怖份子』とか『山中伝奇』とかああいうタイトルは洒落ていて良かったなあ” などとお節介なことをいろいろと考えめぐらせた。どうやら普通に「ジーエフ、ビーエフ」と読めばよいらしいこの味も素っ気もない記号のような邦題は、IMDbを参照すると正式なインターナショナル・タイトルらしい。
 映画の中味は、男子2人(張孝全、鳳小岳)と女子1人(桂綸鎂)による三角関係を編年体の長いスパンで描きこんだラブロマンスである。ただ画面はしっとりとメロウなのに、BGMに当時流行したと思われる若者向けのアップテンポな台湾ポップスが無造作にがんがんかかるので、画面と音響がやや遊離した感が否めない。作り手側はその遊離感も味という気でやっているのだろうが。
 映画は4部構成をとっている。まず1985年夏、戒厳令下の高雄。この南部の町で3人はまだ高校生である。彼らの三角関係が始まる。ちょうどこの時代は楊徳昌や侯孝賢といった台湾ニューウェイヴの映画が日本に紹介されはじめたころで、その時代の青春映画を思い出しながら画面を眺めることができる。そして1990年春、台北。大学生となった彼らは民主化運動に励んでいる。三角関係の核心は、張孝全の思いを寄せる相手が桂綸鎂ではなく鳳小岳であること──つまり日本風にいえば「おこげ」の物語だという点なのだが、この問題は冒頭から最後まで彼らを縛り続けるのである。1997年台北。彼らは社会人となっているが、行き詰まりを見せる。三人の関係もここでは詳述しないが終焉を迎える。そして現在──という編年体の構成である。
 楊雅?(ヤン・ヤーチェ)監督は、楊徳昌や侯孝賢のような映画史を揺るがすタレントではもちろんない。でも、民主化運動をからめた青春映画としてはじつによくできていると思う。台北の中正紀念堂を使って民主化要求学生デモのシーンがロケされているが、蒋介石を追悼したこの施設でよく撮影許可が下りたものだ。台湾本国でひょっとすると本作は、官民挙げてとり組んだ注目作品という位置づけなのかもしれない。とくにすぐれた人物が登場するわけではないが、彼らなりに生き、彼らなりに輝いている。そして、私はどうやらこういう編年体のラブストリーリーに弱いらしい。吉田喜重『秋津温泉』(1962)とマックス・オフュルス『忘れじの面影』(1948)の2つが、わが落涙必至2部作なのだが、ようするに私はだらしのないセンチメンタリストということだろう。だから当然、今回の『GF*BF』への点も甘くなる。


シネマート新宿、シネマート心斎橋ほか全国順次公開
http://www.pm-movie.com/gfbf/
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