突然だが、もしあなたが新しい才能をいち早く発見する喜びを味わいたいなら、今日22日(火)と26日(土)に《SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2014》で2回だけ上映される草野なつかの『螺旋銀河』に駆けつけていただきたい。 ショットで突出する映画ではない。だが、流れがいい。だから目が離せなくなる。そのうちに二人の女優がどんどんと輝いていく。 映画に開眼してやっと10年経ったかどうかという若・・・
クリストファー・ノーランがWSJに寄せた「映画館は生き残る」という文章が話題になっていたのですが、まず日本語訳が良くなくて内容が分かりにくいってことと、もう一つ、論理的に飛躍していて、特に新しい視点もない気がしました。
本家の英語版はこちら。
http://online.wsj.com/articles/christopher-nolan-films-of-the-future-will-still-draw-people-to-theaters-1404762696
WSJ日本語版で読める該当記事はこちら。
http://jp.wsj.com/news/articles/SB10001424052702304188504580018153711393826
もちろん、有名監督が映画館大丈夫だぜって言うことには一定の意味があると思いますが、とりわけ日本では情緒じゃなく明確なロジックでものを考える必要があると思うんですよ。映画好きな人たちが映画素晴らしいって言ったって解決にならないってのが今の問題な訳だし。
全体の中で論旨として重要なのは後半の二つのパラグラフ。
The theaters of the future will be bigger and more beautiful than ever before. They will employ expensive presentation formats that cannot be accessed or reproduced in the home (such as, ironically, film prints). And they will still enjoy exclusivity, as studios relearn the tremendous economic value of the staggered release of their products.
The projects that most obviously lend themselves to such distinctions are spectacles. But if history is any guide, all genres, all budgets will follow. Because the cinema of the future will depend not just on grander presentation, but on the emergence of filmmakers inventive enough to command the focused attention of a crowd for hours.
意味が通りやすいようにザックリ訳すとこんな感じ。
「未来の映画館は、かつてなく大きく美しいものとなるだろう。そこでは、家庭では到底不可能なほど高価な上映形態が採用されるに違いない(たとえば、皮肉なことにフィルムがそうなる)。そして、その体験は映画館でのみ味わうことができるのだ。というのは、映画会社は自社の作品を映画館へと優先的に供給することの経済的価値を再び学ぶであろうから。
明確に違いを際立てるのはスペクタクルである。しかし、歴史に学ぶならば、あらゆるジャンル、あらゆる予算の映画がこのあとに続くだろう。なぜならば、未来の映画は壮大な作品ばかりではなく、何時間も観客を集中させることが出来るほど独創的な映画作家が登場するかどうかにもかかっているからだ。」
ここで彼は、1:映画館はスペクタクルを体験するための場所になる、2:未来の映画はスペクタクルばかりではなく、独創的な映画作家によっても支えられる、という2つの内容を語っている。
まず、1に関しては、すでに多くの人が指摘している通り。映画館は特別な日に家では味わえない特別でスペクタクルな体験をするための場所になる。しかし、それはすなわち映画が大衆娯楽ではなくなるということでもある。さらに、スペクタクル産業としては競合するライバルもたくさんいる。
おそらくハリウッドは十分やっていけるでしょうし、むしろこの分野での世界の需要をますます独占するでしょう。しかし、それ自体が問題である。つまりハリウッド以外のマイナー映画に生きる道はあるのか?
次に、2番目のポイント。スペクタクルに牽引される娯楽産業となった映画の中で、独創的な映画作家の居場所はあるか?もちろん、あるでしょう。ノーランのように独特のテイストを備えた作家もまたハリウッドは必要としている訳ですから。
とは言え、それがすなわち、独創的な映画作家やマイナーな映画作家が生まれてくる土壌が成立することを意味してはいない。この辺、ノーランの文章は曖昧でずるいと思いました。あるいは真面目に考えていないか。
意地悪く言えば、自分は成功者ですからね。これから成功したい人間や成功しなくても生きていくべき人間のことは彼には考える必要がない。
いずれにせよ、大衆娯楽ではなくなった映画には、そのようなオルタナティヴのための土壌を自前で用意する余裕はないでしょう。むしろ、ますます効率優先になるばかりですよね。
ハリウッドとスペクタクルの殿堂となった豪華な映画館以外はどうなるか。映画というものが特別な日に味わうスペクタクルになるのであれば、そしてそれが同じ程度の値段であるならば、誰しも潤沢な予算で作られた高価なハリウッド映画を選択するでしょうし、豪華な映画館を選択するでしょう。
つまり、多様性の存在する余地がなくなっている。これが問題である訳ですが、ノーランの文章はそれに関して何も答えていない。かなり積極的に曖昧で、何か中身の伴わない希望ばかり語ってる気がします。