ニュースアグリゲータ

『ノア 約束の方舟』 ダーレン・アロノフスキー

荻野洋一 映画等覚書ブログ - 月, 06/16/2014 - 20:08
 『ブラック・スワン』から4年ぶり、『レスラー』からは早6年ぶりとなるダーレン・アロノフスキー監督の新作である。ニューヨーク・ブルックリン出身の彼がユダヤのなんらかの原理に殉じているというのを聞いたことがないが、なんとも奇妙な作品で、駄作扱いされることもカルト作扱いされることも、両方覚悟したようなところがある。アロノフスキーが無名時代から転がしていたシナリオのようだから、キャリア上の損得抜きでケジメとしてまとめたのかもしれない。『レスラー』や『ブラック・スワン』でアロノフスキーを好きになった人は、ちょっと今回は引くのではないか。
 子ども時代にテレビ放送で、ジョン・ヒューストン監督『天地創造』(1966)を興味津々で、またはいくぶんかの幻滅をもって見たことを思い出す。いくら史劇スペクタクル好きの私でも、何カットも費やしてひとつのモチーフを強調しようとする習性(たとえばセシル・B・デミルの『十戒』)はぞっとしない。
 この『ノア』も序盤でカインがアベルを殺害するいきさつが述べられ(へんてこな逆光のCG)、カインの子孫であるトバル・カイン(レイ・ウィンストン)、そしてカインとアベルよりも後にイヴが産んだ末弟セツの子孫ノア(ラッセル・クロウ)という同族同士の近親憎悪をもっぱらの主題とする。
 アブラハムという同一の父祖を持つことにより、ユダヤ人とアラブ人の起源が同一であることは明らかであり、その点で私は本作を見ながら、スティーヴ・ライヒが1993年にリリースした3枚組アルバム『ザ・ケイヴ』を想起せずにはいられなかった。アブラハムの妾から生まれた子がイシュマエルで、これがアラブ民族の始祖。正妻の子がイサクであり、このイサクがユダヤ民族(イスラエル人)の始祖となる。カインとアベル、イシュマエルとイサク、そしてこの映画のノアの息子たち──セムとハム。最初の戦争は兄弟ゲンカだというのである。
 方舟という密室における男女間、親子間の近親憎悪が増長する後半の展開は、まさに地球という惑星の運命を絵解きしたものだろう。ノアの妻をジェニファー・コネリーが、義理の娘をエマ・ワトソンが演じる。これら女優陣が、人類最初の密室劇を(ドワイヨンばりに)盛り上げる。


東宝洋画系で全国上映中
http://www.noah-movie.jp
P.S. 本作をTOHOシネマズ日本橋(東京・三越前)のTCX/DOLBY ATMOSをそなえたシアター8で見たのだが、かなり光量が暗く感じられた。通常の上映と見比べたわけではないが、都内ではまだこのTOHOシネマズ日本橋だけというTCXのクオリティに疑問符のつく上映であった。

2014-06-17

『建築と日常』編集者日記 - 月, 06/16/2014 - 15:00
例の講義の第8回(+第9回)が終了。今日は2コマ連続で、ゲストによるレクチャーと課題の講評会だった。その後、JIA杉並土曜学校第1回「青木淳さんと見る、大宮前体育館」に参加(土曜ではないのに土曜学校なのが気になる)。しかし講義の時間が延びてしまったため大幅に遅刻し、おそらく30分以上あった青木さんによる説明を聴くことができなかった。ただ、その説明の後に3グループに分かれて、1時間以上かけて建物内外を観て回り、そこで設計スタッフの方から具体的な各部分に関して丁寧な説明を聴くことができた。 もしかしたら ...

N10Y

Dravidian Drugstore - 月, 06/16/2014 - 09:01

数年前から分かってたことだし、これに向けて準備も進めてきたんだけど、やっぱり今の日本ではもうちょっとでも非効率なものは全て切り捨てられてしまう。映画ならブロックバスターだけ、文化は萌えやアイドルだけ。それらが悪いと言うんじゃなくて、それ以外がもう何もなくなってしまう。

これは勿論経済的理由ですけど、でもそれをほぼ国民全体で推し進めてる。政府がって言うんじゃなくて、雑誌などのメディアから文化人からネットに至るほぼ全てがその方向性を加速させてる。抵抗している人たちはあちこちに少しずつはいるけど、それは形にならないし力も持っていない。

でも、じゃあそこで切り捨てられるものを愛している人がいないかと言うと、そんなことは全然ない。それはちゃんと一定数いる。多くはないけど無視できる数でもない。ただやっぱり形にならないし力もない。ネットはこうしたものに力を与えるかと一時は思ったけど、どうもそうならない。

ネットはいまんところ世の中酷いねってみんなで首をすくめて、何かしようとする人が立ち上がろうとするとみんなで足を引っかけて転ばせて二度と立ち上がれないようにボコボコにするだけ…って言うと言い過ぎでしょうけど(笑)。でもあんまりポジティブな力にはなってないね。
もちろん、ネットにだってそうじゃない人たちはいるのよ。でも、それがまだ形にも力にもなってないのが問題。

これはしかし、映画だけの話ではないし、日本だけの話でもないです。世界中で似たような事態が進行している。だとすると、切り捨てられる文化や芸術を愛している人たち、世の中には多様なものが存在すべきだと考えている人たちで集まって、次の十年をどうするか考えなくてはいけない。

次の十年をどう作るか、自分たちで実際に手も足も使っていく人たちが集まって考えるべき、って話ですね。そして残念ながら、どんなに世の中が悪くなり事態か悪化したとしても、自分自身の行動や選択としてそれを考える人は実はそんなに多くない。世の中もネットもそういうものです。

だからこそ、映画だけ日本だけって発想じゃもう駄目。数が足りない。形にも力にもならない。今切り捨てられようとしている文化や芸術の次の十年を作るためにどうするか、ジャンルや国籍の垣根を越えて考え、そして実際に動いて行かないと駄目だと思う。しかもそれは既に緊急を要する。

そしてその場所においては、ネットは力としても形としても有効に機能してくれるはずだとわたしは思ってます。自分たちの存在を根底から脅かしているものは、実は敵でも味方でもない訳で、だからそれを敵にしてしまうのではなく味方として使える方法を考えないといけない訳だから。

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ヨーロッパ映画とか作家映画、アート映画、ちょっとマイナーな映画が好きなみなさん、気がつくと、もうあれもこれも消えてるじゃないですか。でも、これからまだまだ消えますよ。色々まだ言えないけど。これに危機感を感じる人はいる筈で、でも感じてるだけじゃもう駄目って話です。

と言う話をもう2年くらいわたしはずっとしてきて、ジョアン・ペドロ・ロドリゲス・レトロスペクティヴもその中でやったし、今もまた次の企画を1年くらいずっと進めてきてます。でも難しいんですよ、なかなか。世の中には経済の他にも無関心とか既得権益の壁とか強敵がいっぱいいて。

取り敢えず、法に触れない程度にうまく立ち回らないといけないね。まともにやってたら勝てる相手じゃないし、味方にもなってくれないから。

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私も色々オーガナイズしているから分かるけど、責任者としては経済的にもう終わりですって上から言われたらそれまでなのよ。でも、周りは本当にそれで納得できるの?爆音だってあれだけ若い人たちで盛り上がって、終わりです、はいそうですかって、本気で世の中に疑問持ったな。

ネットの署名活動はあったし、それはそれで素晴らしいことだけど…私もオキュパイ・バウス!とか口走ったけど、納得できないって人が直接行動の一つくらい計画&実行して良かったと思うんだけどな。無関係な群衆にナイフ持って突っ込むだけがこの国の直接行動のあり方になりつつあるのかな。

有名な話だけど、1968年に当時の文科相アンドレ・マルローによってシネマテーク館長の座を一方的に奪われたアンリ・ラングロワの解雇に反対して署名とか大規模なストライキとか様々な直接行動が起こって、結果彼を元通り復職させることになった。

それはいわゆる5月革命につながって、映画でもカンヌ国際映画祭粉砕事件へと結びつく。そこで映画祭会場を占拠した若者たちの一人であったゴダールが半世紀後、今年のカンヌに招かれてやはり欠席したかわりに作った作品の内容は先日inside IndieTokyoで訳出した通り。
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=508358125960156

もちろんゴダールやトリュフォーたちの行動も、全て賞賛されるべきものではなかったでしょうが、でもそれがあったおかげで守られたもの、変化してきたものはたくさんある。ところが、とりわけ日本だと学生運動に対する過度な反省と反発ばかり残ってしまって、今や何の運動も起きない国になった。

学生運動に対する過度な反省と反発は事実として世間にあるから、これは考えなくちゃいけないのよ。でも一方で、群衆にナイフ持って突っ込むしかもはや行動しようがない社会になっちゃったというのも事実としてある。だから、そこで本当に必要とされてるものは何か。それを考えなくちゃいけない。

2014-06-16

『建築と日常』編集者日記 - 日, 06/15/2014 - 15:00
考えてみると昨日の「熟成する空間」(『東京人』2013年3月号)と同じ頃に書いた「《代田の町家》の危機」(dezain.netがリニューアルしたらしく、過去の記事にアクセスできなくなってしまった)も、自分が今いる空間・時間が「今、ここ」の空間・時間だけでは成立していないという視点は共通していた。たぶん「今、ここ」を相対化して捉えようとする志向が僕にはずっとあるのだと思う。そう思うと5年前、雑誌を始める前に『nobody』に書いた文章も、そうした視点を持つものだった。 「建築と日常──偶然足を踏み入れ ...

2014-06-15

『建築と日常』編集者日記 - 土, 06/14/2014 - 15:00
去年執筆した短文「熟成する空間」(『東京人』2013年3月号)が『ベスト・エッセイ2014』(光村図書出版)に収録されました。 ベスト・エッセイ2014 日本文藝家協会編(編纂委員:角田光代・林真理子・藤沢周・町田康・三浦しをん) 2013年に新聞などに発表された数多くのエッセイの中から、読み応えのある76編を厳選しました。日常生活の機微を切り取ったエッセイの妙味をどうぞご堪能ください。 http://www.mitsumura-tosho.co.jp/shohin/essay/book155.h ...

2014-06-14

『建築と日常』編集者日記 - 金, 06/13/2014 - 15:00
大阪の本屋発行委員会編『西加奈子と地元の本屋』(140B)というA5判32ページの冊子で、柳々堂の松村智子さんが『建築と日常』を紹介してくださいました。「超ローカル書店員の証言「なんでこの本、ウチでは売れるんでしょ?」」というアンケート企画です。いつもお世話になっております。 西加奈子と地元の本屋 http://140b.jp/blog3/2014/06/p1078/ 柳々堂/建築図書専門店 http://www4.osk.3web.ne.jp/~ryuryudo/

ミルチャ・エリアーデ 著『ポルトガル日記 1941-1945』

荻野洋一 映画等覚書ブログ - 木, 06/12/2014 - 15:44
 フランシス・F・コッポラ近年の快作『コッポラの胡蝶の夢』(2007)の原作者であるルーマニアの作家・宗教学者・民俗学者ミルチャ・エリアーデ(1907-1986)の戦後の日記はだいぶ以前に既刊だが、第二次世界大戦中に在リスボンのルーマニア大使館で文化参事官を務めていた1941から1945年にかけての『ポルトガル日記 1941-1945』がこのたび刊行された(作品社 刊)。
 戦後はフランスに亡命し、同郷のシオランやイヨネスコと共に、パリ文壇で華やかな活躍を見せることになるが、この本ではそれ以前のエリアーデの苦悩に満ちた姿が刻まれている。この期間、彼は愛する妻ニーナの死に立ち会っている。ニーナの闘病と臨終をめぐる記述は、凄惨の極致に達している。
 しかし、この日記を大きく特徴づけているのは、まず第一にエリアーデの書き手としてのすさまじい自負である。そして第二に、第二次世界大戦で枢軸側(ナチスドイツ側)に付いて参戦したルーマニアへの不安である。エリアーデはシオラン同様、戦前戦中はルーマニアにおける親ナチス・反ユダヤの極右組織「軍団運動(鉄衛団)」のシンパだった。つまりナチスドイツが敗れたばあい、ルーマニアという小国は隣国ロシアによって蹂躙され、無化されるだろうという、これが彼にとっての最大の心配である。以下、少し長くなるが、重要と思われる日記をいくつか引用しておこう。

 まず第一の自負に該当する記述。1941年12月11日から。「私の知的地平はゲーテのそれよりも広大なのだ。たとえば、その気になれば今日にでも、19世紀のポルトガル詩に関する本を容易に書くことができるだろう。私はけっして碩学ではないが、単なる碩学以上の何者かである。」
 第二のマージナルであるルーマニアについての憂国的な記述。1942年9月3日から。「マイナーな文化であることの劣等感が私を苦しめている。あらゆる手段を講じ、そしてできるだけ速やかに、他の国の人々に我々の文化を懸命になって知らせなくてはならない。フランスやイギリスの文化はなんと幸運なことか。」
 同年9月23日から。「いかなる努力も無益だ、という思いに再び囚われている。文化の研究を成し遂げようとすることが、まったく何の意味もないことは確かだ。自分が一つの歴史のサイクルの終焉の時期を生きていること、そして、そのあとに来るはずの楽園のような混沌の世界に同化しえないことはわかっている。英米とソヴィエトが支配する新世界が、私のような人間を、その懐に受け入れるはずがない。新世界は私にとって苦悩そのものだ。生き続けようと死のうと、私にとっては同じだ。共産主義者たちが私を銃殺刑にしようがすまいが関係ない。私を苦しめているのはそのことではない。私の死後、私の理想としたものが実現に向かって推し進められるという確信を得ながらの死であれば、もしその死が意味をもった死であるなら、それはむしろ、私がつねに望んできた死であるはずだ。いわゆるプロレタリアートの独裁、実際のところ最も卑俗なスラヴ的要素の独裁の下に屈したキリスト教ラテン文明のなかに生き長らえることこそ恐ろしい。」
 同年11月28日から。「もしロシアが勝ったなら、私の民族も、私の著作も、私自身も、文字どおりの意味でも比喩的な意味でも、消滅してしまうだろう。しかしだからといって私は天職も、また自らに課した義務も放棄するつもりはない。私は最後まで働く。」
 同年12月25日から。「私に残される道は、神秘主義か、世界からの隠遁か、無秩序状態か、世界との完全な決別かのいずれかだろう。今ほど私の心と体のなかで、希望と絶望が激しくせめぎあっている時はかつてなかった。そのために私の創造的な仕事は滞っている。ロシア戦線での作戦を前にして、創作活動はすべて中断している。」

 上でエリアーデが書いている「最も卑俗なスラヴ的要素の独裁の下に屈したキリスト教ラテン文明」という悪い予感は、戦後に現実のものになる。ソ連の衛星国として共産化したルーマニアは、マルクス主義の理想とは似ても似つかぬ「最も卑俗なスラヴ的要素の独裁」に堕したのである。
 ひとつ注釈しておくなら、ルーマニアは東欧の国だがスラヴ民族の国ではなく、ラテン民族の飛び地であるという事実である。古代のローマ帝国の騎士団がこの地を植民地化し、ダキアという地名で開墾した。それが今のルーマニアの源流である。ルーマニア=Romania(ローマニア)。そして、ルーマニア語というのは、古代ローマで使用されていた旧ラテン語の息吹を、現代イタリア語以上に、最も正統的に伝える言語だといわれている。
 そうしたルーマニア文明のコンテクストに照らし合わせながら、この日記を読むべきだろう。「軍団運動(鉄衛団)」との関係から、戦前戦中のエリアーデを批判することはたやすいが、それだけでは不十分なのである。

シネクラブ2014/06/14

Dravidian Drugstore - 水, 06/11/2014 - 15:36

アンスティチュ・フランセ横浜シネクラブのお知らせです。

6月14日(土)
会場:東京芸術大学馬車道校舎
http://www.fm.geidai.ac.jp/access
※上映終了後、私のトークが付きます。

14時〜
『公共のベンチ(ヴェルサイユ右岸)』
(フランス/2009年/115分/カラー/デジタル/英語字幕付)
監督:ブリュノ・ポダリデス
出演:カトリーヌ・ドヌーヴ、ドゥニ・ポダリデス、オリヴィエ・グルメ、ジュリー・ドパルデュー、ティエリー・レルミット、キアラ・マストロヤンニ、エマニュエル・ドゥヴォス、マチュー・アマルリック、イポリット・ジラルド、ミシェル・ロンズデール、ニコール・ガルシア

リュシーが会社にやってくると、向かいの建物の窓に「独身男」という黒い垂れ幕が下がっていた。これは冗談なのか?心の叫びなのか?誰かが助けを求めているのか?リュシーと同僚は真相を究明する決意をするのだが…。

「ポダリデスの作品は、ジャック・タチの映画の伝統を引き継ぎ、喜劇の中に詩情が溢れている。そして、よりいっそうパーソナルな自由がある。オリヴィエ・グルメ、ブノワ・ポールヴールドらをはじめとする、豪華な顔ぶれの仲間の俳優たちが映画に花を添える。バーレスクな調子と、まれに見る的確さで描かれた感受性溢れる映画に。」

http://www.institutfrancais.jp/yokohama/events-manager/cahier5/

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16時半〜
『7月14日の娘』
(フランス/2013年/88分/カラー/DCP/日本語字幕付)
監督:アントナン・ペレジャトコ
出演 : ヴィマラ・ポンス、ヴァンサン・マケーニュ、ブリュノ・ポダリデス

7月14日、 勤務先のルーブル美術館でトリュケットという娘に出会ってからというもの、エクトルの頭は彼女でいっぱい。友人パトールも巻き込んでトリュケットとその友達シャルロットを海に誘う。シャロットの弟ベルティエも仲間に加わり、いざ海を めざしてフランスの田舎道を進むが彼らのほかに車はない…。というのも、世の中は経済危機のただ中なのだ。そんな時、政府はバカンスを1か月短縮することを決定し、国民に早々に仕事を再開するよう要請?!はたして「7月14日の娘」たちは無事に海にたどり着けるのだろうか…。

2013年カンヌ映画祭監督週間出品作品。
「本作は喜ばしい成功であるだけではなく、最近のフランス映画では放棄されていた領域に果敢に踏み込んでいる。それは非自然主義的コメディという領域である。」(シリル・ベガン、「カイエ・デュ・シネマ」)

http://www.institutfrancais.jp/yokohama/events-manager/cahier6/

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当日券のみ。会場にて開場時より販売。一般1200円、会員600円、芸大生無料 (同日2本目は一般も600円) 1本目と2本目のチケットの同時購入可能。開場は、各回30分前より。整理番号順でのご入場・全席自由席。
問い合わせ:045-201-1514

会場:
東京藝術大学 (横浜・馬車道校舎)大視聴覚室
〒 〒231-0005
横浜市 中区本町 4-44

2014-06-11

『建築と日常』編集者日記 - 火, 06/10/2014 - 15:00
qpさんが初の海外旅行でオランダへ行ったらしい。下記リンク先の空撮を皮切りに、ブログでずっとオランダの写真が続いている。 明るさ 5月28日 http://d.hatena.ne.jp/com/20140528 空撮の写真は往きの飛行機の着陸間際に撮っているようだけど、ずいぶんいろんなものが写っていておもしろい。地形、インフラ、農地、建物、風車…。オランダに詳しい人なら、きっとこの写真からさまざまなオランダの歴史や文化を読み取ることができるのだろう。 下はオランダの窓の写真。限られた滞在のせいもあ ...

『花と蛇 ZERO』 橋本一

荻野洋一 映画等覚書ブログ - 火, 06/10/2014 - 14:53
 石井隆などが監督した2000年代東映版の『花と蛇』シリーズは一本も見ていない。したがって日活・小沼勝版(1974)の記憶をたよりに、団鬼六による物語をたぐり寄せ、突き合わせてみるのだが、さてこんな話だったか。小沼版で谷ナオミ=静子が存分に「犠牲者=獲物」として晒し続けられていたのに対し、今回も静子という女は濱田のり子によって演じられてはいるが、それはあくまで静子の一側面でしかない。アクロバティックな脚本によって、映画はあられもない地点へと拡散し複数化し、最終的にはファルス(笑劇)の域で解放化する。監督は『探偵はBARにいる』シリーズを手がけた東映社員出身の橋本一。
 監禁SMストリーミングサイトの被写体として登場する静子(濱田のり子)。そして、それを自宅のパソコンで鑑賞しながらみずから静子のパロディと化す主婦(桜木梨奈)。さらに、サイトの違法性を調べ上げ、摘発しようとする警視庁の女性刑事(天乃舞衣子)。三者三様の「犠牲者=獲物」ぶりがパラレルに語られる。中でも、こわもてだったはずの女性刑事が捜査の過程でSM調教の世界を垣間見て、その魔性に怖じ気づくプロセスが、今回版の一番のみどころとなっている。残念ながら、天乃舞衣子の稚拙な演技のために、こわもての刑事が怖じ気づいていくメンタル・サスペンスが、今ひとつ真に迫らない。
 いっぽう、監禁SMがコミカルな実演へと昇華されていくあたりの、糸の切れた展開は圧巻だった。マルキ・ド・サドのSM小説を読んでいても、あまりの事態になにやら笑いを誘われるケースがある。本作はああいう感覚を誇張して出している。SMショーの司会を担当する地下組織の幹部を菅原大吉が演っていて、この人が醸す滑稽さは秀逸である。『あまちゃん』における「ブティック今野、ダサダサ」の商工会長役も悪くなかったが、今回の菅原大吉は一世一代の名三枚目だったのではないか。


丸の内TOEI2(東京・銀座)で6/13(金)まで(他劇場では続映)
http://www.dmm.co.jp/hanatohebi0/

2014-06-10

『建築と日常』編集者日記 - 月, 06/09/2014 - 15:00
例の講義も7回まで終わった。ルネッサンス、マニエリスム、バロック。その後、別の講義で代々木競技場第一体育館(丹下健三設計、1964)を見学するというので、同行させてもらった。せっかくなら今日の講義で、丹下健三がミケランジェロを信奉していたということを言えばよかった。

上映とシンポジウムと舞踏/身体表出の日本的特徴

即身仏は死の余白で明星のごとく輝いている——。日本全国の即身仏を訪ねたドキュメンタリー『即身仏を訪ねて 涅槃のアルケオロジー』完成記念企画。映画と言葉と舞踏によって、「身体」の日本的な有り様を探ります。

リュック・ムレ・コレクション

昨年、今年と2回に分けて3作品ずつを上映した「リュック・ムレ・コレクション」。今度は6作品まとめて大阪で開催。知られざるヌーヴェル・ヴァーグ、リュック・ムレ監督のユニークな世界をどうぞお楽しみください。 

「ロンブー淳と自分そして荻野洋一。」というブログ記事

荻野洋一 映画等覚書ブログ - 土, 06/07/2014 - 17:21
 先ほど「ロンブー淳と自分そして荻野洋一。」なるブログ記事を発見しました。こんなに以前から、こんなことを感じてくれている方も世の中にはいらっしゃるんだな、とうれしく思いました。ありがとうございます。もうこの方はブログでの更新をストップし、ツイッターに移行なさったようなので、当該記事もいつまで閲覧できるかわかりませんが。ロンブー淳と自分そして荻野洋一。

2014-06-08

『建築と日常』編集者日記 - 土, 06/07/2014 - 15:00
ピーター・ファレリー&ボビー・ファレリー『ホール・パス──帰ってきた夢の独身生活〈1週間限定〉』(2011)を観た。深夜に地上波のテレビで放送していたもの。だいぶ前からうちのアパートメント全体でケーブルテレビに加入しているのだけど(無料のチャンネルでは大した番組はやっていなさそうだったし、観始めて止まらなくなったら困るから、チューナーはコンセントから外して、リモコンにも電池を入れずに放置していた)、最近そのチューナーが交換されて、ハードディスクに録画する機能が新たに付加された。そうするとあまり興味のな ...

中国で上映禁止となった『紅い夜明け』(抄訳)

Dravidian Drugstore - 金, 06/06/2014 - 17:47

CINEUROPAに掲載された『紅い夜明け』についての記事を以下に抄訳します。
I translated this article in Japanese to show our solidarity with Joao Pedro Rodrigues and Joao Rui Guerra da Mata.
http://cineuropa.org/nw.aspx?t=newsdetail&did=258394&fb_action_ids=10203669863288395

中国で上映禁止となった『紅い夜明け』(抄訳)

先頃北京で開催された「Where is China?」展覧会からジョアン・ペドロ・ロドリゲスとジョアン・ルイ・ゲーラ・ダ・マタ監督による2011年の短編『紅い夜明け』が取り下げられた。ポルトガル短編映画エイジェンシーAgenciaはこの件に当惑している。
Agenciaによると、作品はイベント開催の一時間前になって突然上映禁止になったとのことだ。(作品が記載されている)パンフレットも回収された。開会式にはポルトガル大統領アニーバル・カヴァコ・シルヴァも出席していた。

AgenciaのSalette Ramalhoは次のように語っている。
「『紅い夜明け』は詩的で視覚的に驚くべき力を持つドキュメンタリーです。客観的な観察に力点が置かれており、マカオの有名な市場レッド・マーケットで動物たちがいかにして食用に供されるか、その儀礼的動作の現実をとらえています。この作品が何故上映禁止になった中国政府からの説明はまだありません。作家たちとの連帯を表明すると共に、大統領が出席する場でこのような事態を招いたことに対するポルトガルの外交的力不足を残念に思います。」

展覧会キュレーターの一人であるLuis Alegreは次のように語る。
「私は個人的にも職業的にも検閲には絶対に反対です。私たちはこの展覧会を企画した当初から、中国が検閲国家であることに常に意識的でした。
展覧会の名称「Where is China?(中国ってどこ?)」とは、現在世界的に拡張しつつある中国それ自体を問うための反語的なレトリックです。
それは、今日の世界に於けるイメージの重要性を意識したものでもあります。
どのような体制であれ、イメージを隠そうとするものは、手酷いしっぺ返しを食らうことになるのです。
残念ながら、今回そのような暴力が27作品中の2作品に対してふるわれてしまいました。
この暴力が及ぼす結果は、作家たちばかりではなく、中国の観客たちにとっても明らかに感じられたでしょう。イメージの不在として。」

ジョアン・ペドロ・ロドリゲスは次のように語る。
「映画監督として、私たちは常に最大限の観客に自分の作品が届けられることを願っています。そして今回は、中国とポルトガルのアーティストの対話という場で北京の観客に自作を見てもらえる素晴らしい機会でした。
『紅い夜明け』は中国の一部であるマカオ文化省支援の元、マカオで撮影されたものです。そしてそれはマカオの有名な市場のドキュメンタリーでもあり、この作品が検閲問題を起こすとは私たちは全く考えていませんでした。私たちは北京にはおらず、中国政府からもいまだにこの受け入れがたい状況に対する説明を得ていません。
ポルトガル大統領がこの件に対して何のコメントを出さないことも、同様に受け入れがたいことです。

ポルトガル大統領および大統領府はこの件について何のコメントも出していない。

小林信彦 著『「あまちゃん」はなぜ面白かったか?』

荻野洋一 映画等覚書ブログ - 金, 06/06/2014 - 16:11
 小林信彦の「週刊文春」連載エッセイ16度目の単行本がかかげる『「あまちゃん」はなぜ面白かったか?』(文藝春秋 刊)なるこれ見よがしの書名は、“羊頭狗肉” とまで決めつけはしないまでも、看板に何やらうさん臭さが感じられる。2013年分およそ50回の連載中、NHKの高視聴率ドラマ『あまちゃん』を見出しにかかげた回はわずか3回のみ。たったこれだけで上記の書名はいくらなんでも、ヒット商品誕生秘話のたぐいをやたらと読みあさるビジネスマンを釣り上げてやろうという水増し商法とさえ思える。
 とはいえ私は上の見解を、否定的感情とともに書いているのではない。むしろ、小林御大と文春の編集者に対して「あいかわらずお人の悪い方たちだ」という微苦笑とともに、俗世間に差し向けたサディスティックなユーモアとして受け止めているのである。このタイトルを思いついた編集子を前に、小林御大が屋形舟の上でイヤらしい笑顔を浮かべつつ、「おぬしもワルよのう」とのたまわっているのが目に見えるようである。
 「小林信彦があまちゃん本を出したぞ」と早合点して本書をレジに運んだ人たちは、期待を大いに裏切られるだろう。じつを言うと『あまちゃん』に関する記述は、本書のなかで最も精彩を欠いた部分でさえある。獅子文六への参照が、多少なりとも大御所の知恵を醸してはいるが…。しかしきょうびのインターネット時代では、この程度の感想・分析はあまたのブログ等でいくらでも読める。

 その代わり、福島原発の収束不能への不安と焦燥、東京オリンピック招致への違和感、安倍政権による「戦後レジームからの脱却」に対する怒り、大島渚の死(同年生まれ)のショック、宮崎駿『風立ちぬ』に対する擁護etc.、小林信彦らしい堂々たる真っ当さが貫かれている。誰もがお気軽に戦後民主主義の限界を揶揄して得意になっている現代にあって、もはや貴重な書き手であると言わねばならないのは残念なことである。
 そしてなんと言っても、健在の毒舌ぶり。「アメリカのコメディアンたち」という回では、こう書かれている。「ジェリー・ルイスは若さと服の着こなしが良いだけの、つまらないコメディアンだった。(中略)…ジェリー・ルイスはひとりで〈底抜け映画〉を演じつづけたが、六〇年代後半から人気が下り坂になり、一部のフランスの映画批評家だけが高く評価していた。ぼくは『底抜け大学教授』(六三年)あたりで観るのをやめた。」

2014-06-07

『建築と日常』編集者日記 - 金, 06/06/2014 - 15:00
TOTOギャラリー・間で「乾久美子+東京藝術大学 乾久美子研究室 展──小さな風景からの学び」(〜6/21)、東京ミッドタウン・デザインハブで「窓学“WINDOWSCAPE”展 〜窓の研究プロセスからミラノサローネまで〜」(〜6/15)を観た。観たといっても次の予定が差し迫っていたためほとんど駆け足。どちらもフィールドワーク系の展示で、タイトルに「学」の文字がある。

2014-06-06

『建築と日常』編集者日記 - 木, 06/05/2014 - 15:00
渋谷のヒカリエ8で「原寸大|日本の建築ディテール 1964→2014」展(〜6/16)を観て、公開座談「建築家とディテール──学びの連鎖」(坂本一成×吉村靖孝×武井誠、司会=倉方俊輔)を聴いた。『ディテール』誌の創刊50周年を記念した展覧会は、東京カテドラル(1964)からせんだいメディアテーク(2000)まで、誌面に掲載された選りすぐりの10作品の矩計図が1/1スケールで展示されていて、分かりやすくかつ迫力がある。 ディテールもこうして厳選したものを解説付きで見せてくれれば意味が理解できるのだけど、 ...

2014-06-03

『建築と日常』編集者日記 - 月, 06/02/2014 - 15:00
例の講義も6回まで終わった。西洋建築史のパートに入って意外にも楽になったのは、予定の内容を必ずしもその日のうちに片付けなくてもよいという点。初回と第2回はそれぞれ1回分の内容をかっちり決めていて、けっきょく時間が足りずに終盤焦って駆け足になってしまったのだけど、西洋建築史は古代/中世/近世/近代の4回のシリーズで考えているので、たとえその日の内容が終わらなくても、任意の地点で「じゃあ続きはまた次回」とすることができる。それで多少なりとも心理的に余裕が生まれた。ただし、その結果、全4回で予定していた内容 ...
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