先般の酒席でまったく話が通じなかったので仕方なくここに書きつけておくが、徳田博丸作のときの吉本新喜劇・茂造シリーズが持つプレストン・スタージェス的なハイパー古典主義は大阪人だけに独占させておいてはいけないレベル。
試写日記『収容病棟』ワン・ビン:素晴らしい!ここには口当たりの良いメロドラマがなければ、社会へと向けられた紋切り型のメッセージもない。ただ、彼らと共有する時間の強度、日常の反復、鉄格子、マージナルなものへと向けられた真摯でおだやかな眼差し、そして様々な人生だけがある!
4時間もの時間を精神病院に収容された人々への凝視に費やす体験は、たとえば『それでも夜は明ける』といった作品を鑑賞して、主人公の境遇に共感して涙を流したり、社会に対して怒りを感じて拳を振り上げるのとは全く違った時間と感動と体験の質を観客である私たちにもたらします。
それは精神病院という特殊な境遇の中で生きる人たちと共有する時間そのものであり、私たちの世界からは隠された場所に生きる者たちの人生そのものであり、さらには人生そのものであるかもしれません。もしかすると、ただ映画だけが発見することの可能な人生の輝きこそがそこにはあるのです。
『収容病棟』6月にイメージフォーラムで公開みたいです。必見!
『収容病棟』は、男性が収容された3階の鉄格子で遮られた廊下をグルグル回り続けるような(腰の高さくらいの?)カメラに独特の世界観とスタイルがあってそれも本当に素晴らしいんだけど、過度に審美的にならない映画作家としての倫理観みたいなものも強く感じられる。
『収容病棟』では、邪気のない笑顔を振りまくんだけど、体中に文字を書き続け、隣にいる年長者をボコボコ殴ろうとする少年も登場して、彼はブカブカの服が奇妙にかわいくて、その寝姿で前半が終わるように下手するとキャラ化寸前なんだけど、やっぱり人間としての手応えがすごくてそれを許さない。
映画の持つこうした凝視の力ってのはやっぱり圧倒的であって、現代において映画を作ろうとする者は、もちろんその試みの方向は多様であるべき何だけど、いずれにしても、こういう力強い作品と対峙しつつ、では自分はどうやってその圧力に対抗するかって覚悟を持って欲しいと思った。
私はしばしばシネフィル批判するシネフィルなんだけど(笑)、それはシネフィルというトライブを批判しているのではなく、その中の「映画は映画である」という同語反復にのみ安住する心の傾向とそれに伴う様々な弊害を批判したいから。
よくシネフィル批判してる人見てると、トライバルウォー仕掛けたいだけの単純な言説が多く、あまり興味ないし不快なケースも多い。一方、日本映画界ではあまりに「映画は映画である」が君臨しすぎてると思う。色んなタイプの人がいるけど、でも殆ど共通して同じ傾向がある。
「映画は映画である」については先日も書いたけど、そこで何が問題になるかというと、一つには新しいものへの知的好奇心が失われがちだってこと。勿論変われば良いってものではないけど、変わらなすぎるのも問題あるわけよ。とりわけインディペンデントでやってる人間には死活問題だよ?
あ、私はインディペンデントだろうがDIYだろうが、喜んで使いますよ!それで伝わるもの、拡がるものがあればそっちの方がずっと大事だから。ももクロよく知らないんだけど、ももクロが個人映画やってたとしてこういう言葉回避したりdisったりするとは絶対思えないしな。
よく知らない憶測を何重にも重ねた不用意なこと喋ってますが(笑)。まあ、そういう言い方が良いのではないかと思った。間違いだったらいつでも訂正しますー
「映画は映画である」は、人を敬虔な信徒かファナティックな狂信者か、いずれにしても線の細い真面目なタイプにしがちなんだけど、それを否定的に乗り越えようとする人たちは基本的にロックとかヒップホップとかヤンキーとかワイルドな方向に行きがちで、これもパターン決まっていて実につまらない。