爆音収穫祭レポート

10/27(日)『ロックショウ』/『ムーンライズ・キングダム』 田中竜輔

「週刊金曜日」964号に掲載された廣瀬純の「闘争はその継続を爆音でささやく」というテクストは、マイケル・チミノと樋口泰人が、「映画は同一の映像・音声を共有する体験ではない」という点において重なり合う存在であると論じる。「作品を爆音で上映することで樋口が『聞こえる』と言い張る記号を無理やり聞こえるものにしようとする発狂した試み」としての「爆音上映」とは、私たちがすでに「見た」と信じていたものを、実はそうではんかったのだと、ほとんど暴力的に私たちに気づかせようとする批評的実践である。「爆音収穫祭」というタイトルを誤解してはならないのは、これが決して「収穫されたもの」を愛でるための品評会ではないということだ。収穫しなければならないのはほかならぬ私たち観客である。 

ということで、先週土曜から吉祥寺バウスシアターにて開催中の爆音収穫祭について、これから断続的にレポートをお送りしたい。 本来ならばこけら落としの爆音『スプリング・ブレイカーズ』から参加したかったところだが、初日はどうしても都合つかず。ということで私の収穫祭は27日(日)の『ポール・マッカートニー&ウィングス ロックショウ』からスタート。ポール・マッカートニー&ウィングスの1976年のアメリカ・ツアーを撮影したライヴ・フィルム。兎にも角にもバキバキなポールのベースラインに身も心も委ねてしまえばよいというものだが、このフィルムのポール・マッカートニーは、その複雑な曲調に併せ、様々な時代における「ポール」の瞬間的なイメージを楽曲毎、フレーズ毎に創出しているように思えた。それはポールひとりのものによるというよりは、デニー・レイン、ジミー・マッカロクのサイケなふたりとの関係においてこそ構築されたものだったように思える。この作品に参加しているキャメラマンはエンドロールによれば14、5人だったように記憶しているけれども、要するにこのライヴのキャメラ・アングルはほぼ15種類前後しか存在していない。しかしまるでそうは見えない。というのも、ポール、デニー、ジミーの頻繁なパートチェンジが、ステージ上に視覚的な流動性を導入しているからだ。 レフティのポールと、デニー、ジミーの3人がステージ中央で正面を向いて演奏するとき、上手のポールと下手のデニー、ジミーの姿は、ちょうどステージの真ん中を境に鏡写しのような位置関係にある。年齢の離れた彼らの顔が、一種の分身的なものをステージ上に断片的に織り成しつつ、しかし突然プツッと切り離されるような感覚があると言えばよいだろうか。ポールがステージのやや隔離された場所でピアノを弾いているとき、ふとステージを見るとそこにもポールがいるような錯覚……とまで言ってしまうと極端かもしれないが、このステージの上にはそんなことも実現させてしまえるような不思議な時間感覚があった。 

食事を獲ってなかったのでチョコチップ&バナナの爆音マフィン(180円)をつまみ、続けてウェス・アンダーソンの『ムーンライズ・キングダム』へ。 冒頭、レコードプレイヤーから流れるベンジャミン・ブリテンの管弦楽のこもった音色が、少女が窓を開けるアクションに合わせて一気にヴォリュームを解放する瞬間に、『ムーンライズ・キングダム』はこれこそが適正なヴォリュ−ムなのだと確信。

昔宮沢章夫さんが、いわゆる「箱庭療法」の本についての文章を書いていたことを思い出す。患者であるひとりの少女のエピソードで、彼女は箱庭に人形たちを横にして並べていた。普通は人形たちを立てて配置するものだというのに、わざわざ人形を横に寝かせることを療法士たちは不思議がっていたとのことだが、少女は最後にそこに水を流し入れたという。するとその水によって箱庭の中に寝かされた人形たちがスックと立ち上がった。たしかそんな内容だったように覚えているが、『ムーンライズ・キングダム』の鉄砲水は、まさしく再生を呼び起こすための流れだ。きわめて理知的に構築され制御されたウェス世界の時空に流れ込むあの濁流は、そして雷鳴は、登場人物たちを押し流し焼き尽くすためのものではなく、絶望した彼らを再び大地に立ち上がらせるためのものなのだ。徹底してコンセプチュアルにつくりあげられた世界に吹き込まれる決定的な息吹、それがあの濁流であり、そしてこの濁流はこのヴォリュームがなければ決して立ち上がりはしないものだと知る。

ところで終盤、少年たちが向かうレバノン島の、そのほんの少し南西に、「シュトックハウゼン島」という場所があったことに気付いた。『ムーンライズ・キングダム』は、ひょっとするとウェス・アンダーソンによる「少年の歌」に限りなく近いところに位置する何かなのではないか…という妄想もありうるだろうか。シュトックハウゼンによって徹底的に構築された世界に、ばらばらに切刻まれながら響かされた少年たちの歌声のように、あの鉄砲水と雷鳴は残酷さとともにどこかスウィートな響きのようにも聴こえてくる……のかもしれない。

 

田中竜輔

10/28(月) 『リアル〜完全なる首長竜の日〜』 結城秀勇

見に行ってないのでレポートでもなんでもないのだが、書きそびれていたことがあったのでここで書いておく。 黒沢清の『リアル〜完全なる首長竜の日〜』という映画が2013年にあったのは私にとって象徴的な出来事で、今年映画を見るおりにふれ、たびたびその存在を考えさせられる。
たとえば、昨日までアンスティチュフランセ東京で開催されていたアブデラティフ・ケシシュの特集上映。彼の映画を見た誰もが口にするのは、その会話の自然さや生々しさといったことだろう。だがその実現に必要なのが、いわゆる一般的に「自然な」撮影方法とはかけ離れたものだということは、映画をよく見たり、監督の言葉を少しでも聞いたりすればすぐわかる。だがケシシュの「自然さ」(より正確に監督自身の言葉を用いれば「スクリーン上の真実」)によって私が考えさせられるのは、昨今の新作映画の多くがいかに安易な自然主義によりかかっているかということだ。ここでいう安易な自然主義とは美学的な装飾のことではなく、要するに映画のなかの「リアル」を生み出す根拠を映画の外の世界から無意識に借りてきているような作品があまりに多いということ。多くのフランス映画、多くの日本映画、あまつさえ少なくないアメリカ映画にさえ、そう言える。だが、当然のように映画にとっての「リアル」とは、外の世界がどうなっているかということによって損なわれることはありこそすれ、全面的にそれだけで保証されるようなものではない。映画の「リアル」は、自然に見えることでも、もっともらしいことでも、蓋然性が高いと感じることでもない。
完全なる首長竜のほうの『リアル』に話を戻すと、この作品内にはどれが現実なのかわからない複数の世界のレイヤーが登場する。いやもちろん、ストーリーの上ではこれが現実であるという世界は存在しているのだが、いつまたそれが反転してしまうかという不安なしに映画を見終えることなどできないし、もしかすると昏睡者の意識のなかの夢という、いちばんリアルじゃなさそうな世界の光景こそが現実なのではないか、などと深読みしたくもなる。だがこの文章で言いたいのは、いくつもあるレイヤーのどれが「よりリアル」であるかなどという話ではなくて、そのように相対化することのできないものこそ、映画の「リアル」だろうということなのだ。
それはつまり、この作品のラストに置かれた綾瀬はるかのダッシュなのである。ブーツとひらひらしたスカートという、とても走りやすそうとは言えない格好で、彼女は海辺にそそり立つフェンスめがけて疾走する。そしてそれは本当に速い。無論、綾瀬はるかという実在の人物が100m何秒で走れるとか、彼女が昔なんのスポーツをやっていたかなどということとはまったく関係がない。カットとカット、シーンとシーンの積み重ねの上でしか獲得できないものこそが「リアル」なのだ。ともすれば手のひらからこぼれ落ちて行きそうになるものをつかみとる速度、瞬きの合間に見失いそうになるものを離さない速度。それが綾瀬はるかのダッシュにはあって、それだけで感動する。これこそこの作品が当初の予定の『アンリアル』ではなく、『リアル』というタイトルでなければいけないことへの偉大なる証明となっている。
そして『リアル』と同年につくられた、青山真治の『共喰い』を私が支持する理由もまさにここにある。『Helpless』とほぼ同じ地域を舞台とし、同じ時代を背景としたこの作品だが、そのふたつの「昭和の最後」の光景は天と地ほどの違いがある。『共喰い』が、検証可能なデータで裏付けることができるようなディテールをほとんど放棄し、「フラットな日本人そのものの視点」(『共喰い』インタビュー参照のこと)を導入したことは、青山真治個人の演出の変化という問題にとどまらない。彼もまた「リアル」とは外部からの裏付けや保証によってではなく、スクリーンの上でその都度つくりだされねばならないものだと考えているはずだ。
黒沢、青山両監督の2013年の新作は、原作つきの映画でなければ製作できないような現代日本映画の状況への身のふるまいを単に示しただけのものではない。そんなちっぽけな問題をこえて、世界中のあらゆる現代映画がさけてとおることのできない「世界の認識」に対しての高らかな態度表明だととらえるべきだ。

 

結城秀勇

10/28(月) 『リアル〜完全なる首長竜の日〜』 渡辺進也

 この映画の最初の台詞。綾瀬はるかが口にする、ずっとあなたと暮らしていたような気がする、といったような言葉だったろうか。その台詞がずいぶんと遠くから聞こえる声のような気がした。

 初見ではない。はじめて見たときは、途中で見ているこちらが次々と不安が増していくところがあって、よくわからないと混乱するところがあった。今回、そうした不安の所在が少し分かったような気がする。

 それは、見ているこちらが勝手にそう思い込んでいたことがあっさりと裏切られるということなのではないかと思う。

 観客は、この映画に置ける現実の世界と思われたところが「センシング」の世界であったとされた時、足下に揺さぶりがかけられる。それはミスリーディングを誘導するようにするように作られているわけで、それ自体は珍しいことではないのだけど、ただそれが不安を感じさせるのは、間違った方向に誘導されたとして、それに対する正しい方向というものがほとんど提示されないからではないか。

 改めて見てみると、はじめて見た時以上にすべてが現実性に欠けるように思えてしまう。例えば、ペンが空中に浮かびクルクルと回転を始めること、部屋の中が水で満たされていること、建物の周囲を靄が包み込んでいること、腐食した死体が目の前に突然現れること。  そして、この環境で見ると、音に関しても相当に手を加えていることがわかる。台詞の響き方、主な舞台となる部屋の中の限られた音、など。

 もちろんそれらは「センシング」という彼/彼女の意識の中の出来事ということなのであると言われてしまえばその通りなのだが、そうした事象は現実の世界と大して変わらない場所で行われているのであって、そこに違いはあるのかと言われれば説明するのは難しい。というよりも、「センシング」の外の世界が、この映画では病院のシーンなどわずかしか描かれていない。しかも、それは「センシング」で描かれた世界とほぼ違わない。

 もちろんそれがそういうものなのだという映画なのであれば何の問題はないのである。近未来映画にそういうことを求めても仕方がない。ただこの映画には、彼と彼女が戻る現実らしきものがあるのだと思う。そして、それを私たちは、彼の意識の中でしか見ることができない。

 つまり、こちらが見ている場所が絶えず崩れかける可能性を持ち、安心できない場所へと反転する危険性を常に持っているのだと思う。

 

渡辺進也

10/28(月) 『マーヴェリックス/波に魅せられた男たち』渡辺進也

 爆音収穫祭で見ると、この映画はもの凄くシンプルな映画として見ることができる。

 それは単純明快で、マーヴェリックスという何十年に1度あるかという10m強のもの凄い波があり――こう聞いて想像する何倍も凄い――、その波に乗りたいという若者がいる。事をシンプルにすればそれだけのことでしかない。

 そう考えると、この映画の掛け金はどこに置かれるか。それは、ひとつには誰が見ても驚く程に、波がとにかく凄いものであるということである。そして、もうひとつは、その波に男が乗ることができるということを証明することである。

 その波は男たちの人生を惹き寄せるのだが、それだけの力があることを明らかにするほど、力強い。真上から襲いかかってくるのではないかというような轟音と圧力、ひとつひとつのしぶきの粒子に包み込まれているような感覚となる。やはり、この波をどこまで伝えることができるかにこの映画は賭けられたのではないか。海の上から、海中から、空の上から、陸の上から。波とそれに挑戦し乗りこなす男たち。それだけでドラマが立ち上がる。

 そして、そこには波に向かう若者の鍛錬があり、男を見守るサーファーたちの姿があり、家族や友人といった青春期特有の問題がある。この映画が実際に存在した人物を主人公としていることで、エピソードはいくらでも広がる。しかし、そういった複雑な事象からシンプルに物事を取り出し、力強い物語にすることに関してはカーティス・ハンソンはやはり上手なのである。

渡辺進也

 

10/28(月)『マーヴェリックス/波に魅せられた男たち』宮一紀

名の知れたサーフィンの聖地、カリフォルニア州マーヴェリックス。ローカルの少年たちは髪を濡らしたまま町を歩いている。サイケな落書きで彩られたバンに乗り込み出かけていく若者たち。夜の砂浜では、焚き火を囲み、女同士の秘密の会話――「彼を守ってあげてね」「任せて」。あるいはまた、屋根を伝い女の子の二階の部屋の窓へのアプローチ。次の瞬間、女の子はきっとこう言うだろう――「両親が起きてきちゃう!」。すべての瞬間が正しく青春映画的で、ワクワクする。

もちろん最後には息を呑むような奇跡のビッグウェーブが訪れる。そこで体感される音響のカタルシスは凄まじい。20フィートの大波が砕けて重低音が轟いたあと、スクリーン一面に飛沫が飛び散り、カラカラと乾いた音が鼻先をかすめていく――本当にくすぐったくなるくらいに。しかし、このフィルムが上映時間のほとんどを費やして描き出すのは、ビッグウェーブがやってくるまでの12週間のあいだに起こる出来事である。主人公にできることと言えば、パドリングと息止めの訓練くらいのもので、ひたすら地味な特訓の日々が繰り返される。

近所に住む憧れのヴェテラン・サーファー、少しだけ先にサーフィンを始めた友人、幼なじみのかわいい女の子、意地の悪そうな先輩。家に帰らなくなった軍人の父親、酒に頼るようになった母親。どこにでもあるような町、どこにでもいるような人々、彼ら彼女らの暮らし。家の修繕、ピザ屋のバイト、裏口から忍び込む市営プール、無遅刻無欠勤による昇格、町のショーウィンドウで見かけた89ドルのラジオ、母親に貸した15ドル……。 驚くくらいシンプルに出来事が積み重ねられていき、それらをすべてひっくるめて、このフィルムは主人公の少年にこう言わせる――「Mavericks is real」。少年が目を輝かせてそう口にした瞬間から、このフィルムは私たちのことを語り始める。

宮一紀

10/28(月)『リアル〜完全なる首長竜の日〜』 田中竜輔

『リアル』を再見かつ再聴して、佐藤健の声がどことなく画面を包み込むような音の広がりを有しているのに対して、綾瀬はるかの声がスクリーンの中央部に定位し閉じこもったような感じで聴こえたことに気づく(本当にそうつくられたものかどうかはわからないが)。佐藤健が綾瀬はるかの心の中に入り込むという物語が、中盤から見事に反転していく作品の構造を考えると、実に周到な音配置であるように思える。最初から綾瀬はるかの声は、佐藤健の内側にだけ響くものとして録られていたのかもしれない。佐藤健はいくつかのシーンでスカッシュに興じていたが、ボールを壁に向かって打ち込むそこでの音響は、まさしく佐藤の心の内側に反響する綾瀬の声をボールと壁に置き換えたような示唆的な場面であるようにも見えてくる。

このフィルムに終始流れ続ける不穏な音響は、『リアル』というフィルムを包み込む音響のようにも聴こえるし、一方で『リアル』というフィルム自体が発しているものであるようにも聴こえる。前者が「揺れ」と表現できるのならば、後者は「震え」と表記すべきものだろうか。おそらくそれらはどちらも偏在している。佐藤健は覆しようのない自らの過去という「震え」に向き合い、大きな「揺れ」としての「首長竜」を目の前に屹立させることとなるだろう。これは決して受動的なだけの経験ではないのだ。

だから『リアル』の物語とは、「首長竜」の腹の中からその表皮へと辿り着くまでの物語なのだと言えるかもしれない。佐藤と綾瀬の原罪としての「首長竜」というイメージは、いつの間にか彼らがかつて見殺しにした少年の化身として外部化される。彼らは自らの過去を捻じ曲げたと考えることもできるが、一方で彼らは自らの「震え」を「揺れ」に置き換えることで、その残酷な運命に直接的に対峙することを選択したのかもしれない。

そんなことを考えれば考えるほどに、中谷美紀演じるあの女医が、やはりこのフィルムの中で圧倒的に不可解な存在であることに突き当たる。何が起きてもまるで表情を崩さずに(唯一の例外はあの「船」をめぐるシーンだが……)、このフィルムのあらゆる「揺れ」や「震え」と関係を有することのないこの人物は何なのか? そして、彼女にはなぜ吹くはずもない「風」が吹き荒ぶのだろうか? つまるところ、『リアル』における「風」とは何なのか?

田中竜輔

10/28(月) 『マーヴェリックス/波に魅せられた男たち』代田愛実

マーヴェリックスの波は、塊であった。ゴゴゴ、ドドド、ズズズ、といったオノマトペで表現されるであろうその波の音は、ピチャピチャとか、ザァザァといった一般的に水を連想する音とは全く異なっていた。流れるのではなく厚みと重みと弾力と硬さを持った物体として平行移動し、我々観客の目前に屹立した。それはまさに、主人公の目の前にそびえ立つ、壁であった。

唐突だが、革命的になること即ち創造することについて、『絶望論 革命的になることについて』(廣瀬純、月曜社、2013年刊)にはこう記されている。
" 不可能性の壁を屹立させ、逃走線を描出せよ。" 

今日偶然、カイエ・デュ・シネマ・ジャポン27号を手に取った。 冒頭の記事で、樋口泰人氏が、新レーベル「BOID」――" 徹底して個人的なレーベル" ――を立ち上げたことを報告している。"始めた理由など、うまく説明はできない。ただ、怠惰な私が何かをし始めなければならなかったくらいには、状況は十分悪かったのだということだけは言える。" もちろん世の中にCDや書籍というコンテンツは大量に溢れている、と前置きした上で、でも" 状況が悪い" ことを読み取ってしまった、だからこそ見出した1つの逃走線としてのレーベルの立ち上げ。革命的になること、すなわち創造し始めること。その発端がここに書かれていた。

この作品の主人公も、波の距離や間隔と計ることから始め、やがて自ら壁を生み出し、逃走線を描き出す。
あの凄まじい波を不可能性の壁と置くことも出来る。だが主人公には、もう1つの壁がある。 父親からの手紙が、絶望であるはずの手紙が、彼には開けられなかった。
パドル、パドルばっかりじゃねーかとからかわれたり、思いを寄せる幼なじみに避けられたり、フロスティに罵倒されたり、といった主人公の不遇は、彼の絶望がまだまだ足りないことを示したのではなかったか。本当の問題、恐怖のありかは、まだしまいこまれていた。
マーヴェリックスを目前に控え、数年放置していた父親からの手紙を開ける。そこに書かれていた言葉はわからない。しかし、その手紙を読んだことが、彼に別の手紙を書かせ、いよいよ壁(波)に向かわせたということになる。" 「絶望」あるいは不可能性の壁" は遂に屹立し、逃走線が綺麗に伸びる瞬間であった。彼は革命的であり、同時に、創造するに至ったのだ。

主人公が勝利を勝ち取る瞬間は、はっきりいって、地味だ。巨大な波を乗りこなしたり制したりするのではなく、波との根比べ。波=壁がゆっくりと隆起し、自らのバランスを崩して砕けてゆく中で、自分は崩れずに耐えること。"4本の柱"によって自らを支え続けること。壁がくだけ、波しぶきになった後、その中から姿を現すという、何とも地味な勝利。だがその地味さが、この作品の、あるいはカーティス・ハンソン作品の持ち味とも言える。1人の人間が、やっていることはおおまかには変わらないはずなのに、どこか――魂と呼べるようなもの――が変化してゆく様が、カーティス・ハンソンの作品にはいつも描かれていたのだから。
そして、彼にサーフを教えた友人。
「このために生まれたと感じる瞬間があるかい?」 「ある。TVを観ているとき。」
この一見能天気な少年なしには、主人公のあらゆる不遇は生きなかったに違いない。愛すべき魅力的な友人である。

 

代田愛実

10/30(水) 『マーヴェリックス/波に魅せられた男たち』結城秀勇

どこでだったか、廣瀬純さんはサーフボードのスケールの変遷について書いていたはずで、その要旨は、世界の中心とでも呼ぶべきどこかに波を生じさせる巨大な力が原因として存在し、最終的にはその原因そのものへの同一化を図るというロングボードの哲学から、もはや原因としての力はすでにどこにも存在せず、だからただ目の前に次々と生じる波をひたすらに乗りこなしていくショートボードの哲学へとパラダイムシフトした、という話だった。それを読んでなるほどそうかと納得したものの、個人的なスタイルとしての嗜好的にはロングボードへの憧れを捨てきれなかった(無論サーフィンなんて一回もやったことなくて、単に見た目の話)のだが、『マーヴェリックス』を見て、やっぱりロングボードは必要だ、と思った。 命の恩人のサーファーに憧れて、自分もやってみようと思い立ったジェイ少年は、物置からおそらく昔父親が使っていたサーフボードを引っ張りだし、しかしそれにフィンがないことに気づいて、恩人サーファーの家に借りに行く。そしてその納屋に入った途端、巨大なサーフボードに目が釘付けになる。それは近くの海で波乗りをするのにはまったく不向きなサイズで、巨大な波が来ない限り、それに乗ってもパドリングしかやることがない。だがサーファーたちが"竜"と形容するようなとんでもない波が来たときに、はじめてそれが必要となる。 この映画で描かれる「ネス湖の怪獣」級の波・マーヴェリックスは、その形容通り巨大怪獣か大災害かとでもいうほどのルックスと音響を備えている。それに向かっていくサーファーたちを近くの崖のうえから双眼鏡で眺める家族や友人の姿は、まるで自分たちは災害から避難したが被災地の中心に身内を取り残してきた人たちであるかのように見える。おそらくこの映画を普通の上映形態やDVDで見たとしても好きになったとは思うのだが、おそらく今回の爆音上映と同じような感慨を抱くことはなかっただろう。自分はあの波打ち際にいた、少なくともそれが双眼鏡で覗けるあの崖の上にはいた、そんな気がしてならない。そしてそれはこの上映に立ち会った人間がひとり残らず抱く記憶なのだという気がする。

ちなみに本日18:30からの上映である『フライト』について、樋口さんは「『マーヴェリックス』から続けて見ると前半20分は飛行機でサーフしているようにしか見えない」と語っていた。まさしく『フライト』のデンゼル・ワシントンは、普通の波乗りには向かないビッグガンで酔っ払いながら海上を漂っていたら、なんかとんでもなくデカイ波にあってしまったような人物だ。そしてそうした人物は、その波以降の人生をいかに送るのかという映画である。やっぱり人として生まれた以上、一生に一度来るかどうかわからない巨大な波に備えて、納屋に超ロングボードを用意し、常に「四つの柱」の鍛練を積み続けていたいものだ。こんな時代なのだし。

10/26(土) 『スプリング・ブレイカーズ』宮一紀

極限に達した退屈さが少女たちを犯罪へと駆り立てる。強盗されるために存在するかのような片田舎のダイナーから、めくるめく快楽の酒池肉林としてのマイアミへ――。

そこで待ち受けるプッシャー役のジェームズ・フランコがすばらしい……全身にタトゥーを刻み、金のグリルを嵌め、長いコーンロウを編み込み、もはや誰だがわからなくなってしまっている。アメリカ西海岸のカリカチュア、黒人コンプレックスを体現するアングロサクソン、(役名の)エイリアンというよりはむしろロボットのように空虚でメタリックな存在感で、シボレー・カマロのハンドルを握り、終始にやけながら不気味に揺れている男。

サングラス、リング、ネックレス、鉈、ピストル、マシンガン、そして、だらしなく開け放たれた口から覗く金色のグリル――彼の身を包むありとあらゆる金属質のものが、フロリダの風にたなびく派手なシャツの下で、揺らぎ、擦れ合い、音を立てる。いや、果たしてそんな音など鳴っていたかどうか、今となっては定かでない。なにしろ、場面が切り替わるたびに挿入されるピストルの撃鉄を起こす音が強烈だ。弾倉が装填され、巨大なリロードの残響とともに、私たちは見たばかりの光景を忘れ続ける。

ネオンカラーの色彩、弛緩した運動、硬質な音響に支配される中、孤独で弱い者たちが徒党を組み、敢えなく崩れ去っていく様子は痛ましい。最後には欲望の抜け殻だけが暖かいフロリダの海に漂うことになるだろう。それでも、永遠に終わることのないアンチ・アメリカン・ドリームをいつまでも見ていたいと思った。

宮一紀

11/1(金) 『スプリング・ブレイカーズ』 結城秀勇

"黄色くて、なめらかで、死ぬほど危険なもの、な〜んだ?"
それはマイアミで古くから言われているなぞなぞなのだそうで、答えは、"サメ入りカスタード"。でもその答えは、『スプリング・ブレイカーズ』であってもおかしくない。
ここですでに書いたように『スプリング・ブレイカーズ』とは、ほんの一口のカスタードとサメへの一触れを求めてやってきた山のような観光客の中で、"サメ入りカスタード"そのものになってしまう女の子たちの物語である。抱えきれないほどの甘いカスタードと、そのスパイスになるくらいのサメへのちょっとした遭遇。その程よい比率がおかしくなってきたときに、観光客は地元へ帰ることを選択する。だが、あのビーチに集まる人々は程よい刺激と興奮の束の間の現実逃避を求めていただけなのか?本当は心の奥底で、それが永遠になるのを欲望していたのではなかったか?本当は"サメ入りカスタード"になってしまいたかったんじゃないのか?
だから、春休みが不穏な影を帯び始めたことから帰宅を決意するセレナ・ゴメスに、ジェイムズ・フランコが「君が好きだ」としきりに繰り返す「I like you」は、ほとんど「I "am" like you」と同義だ。マリリン・モンローになりたくてもなれなかった者たち。ブリトニー・スピアーズになれなかった者たち。それは女の子たちだけではなく、フランコや金歯の双子のようなあの場所にいるすべての人間の叫びでもある。「おれとお前は似ている」。
ジェイムズ・エルロイはかつてカーティス・ハンソンを、自分と同じく想像上のLAでの終身刑に服している男だと評していた。「その刑には永住義務条項が付き、獄外労働の権利放棄が明記されていた」(「金ぴかの街のバッド・ボーイズ」)。それに対して『スプリング・ブレーカーズ』におけるハーモニー・コリンは、まるで想像上のマイアミから永久追放を宣告された男のように映画を作り上げる。乳とケツが揺れ、酒と白い粉と煙とが飛散し、爆音でBGMが流れ出すその都度、想像上のマイアミは観客から遠ざかって行くように感じる。マリリン・モンローにも、ブラック・ダリアにすらもなれなかった者たちにむかって、この黄色くて甘くなめらかな塊は繰り返しつぶやき続ける。「おれとお前は似ている」。