10/28(月) 『リアル〜完全なる首長竜の日〜』 結城秀勇

見に行ってないのでレポートでもなんでもないのだが、書きそびれていたことがあったのでここで書いておく。 黒沢清の『リアル〜完全なる首長竜の日〜』という映画が2013年にあったのは私にとって象徴的な出来事で、今年映画を見るおりにふれ、たびたびその存在を考えさせられる。
たとえば、昨日までアンスティチュフランセ東京で開催されていたアブデラティフ・ケシシュの特集上映。彼の映画を見た誰もが口にするのは、その会話の自然さや生々しさといったことだろう。だがその実現に必要なのが、いわゆる一般的に「自然な」撮影方法とはかけ離れたものだということは、映画をよく見たり、監督の言葉を少しでも聞いたりすればすぐわかる。だがケシシュの「自然さ」(より正確に監督自身の言葉を用いれば「スクリーン上の真実」)によって私が考えさせられるのは、昨今の新作映画の多くがいかに安易な自然主義によりかかっているかということだ。ここでいう安易な自然主義とは美学的な装飾のことではなく、要するに映画のなかの「リアル」を生み出す根拠を映画の外の世界から無意識に借りてきているような作品があまりに多いということ。多くのフランス映画、多くの日本映画、あまつさえ少なくないアメリカ映画にさえ、そう言える。だが、当然のように映画にとっての「リアル」とは、外の世界がどうなっているかということによって損なわれることはありこそすれ、全面的にそれだけで保証されるようなものではない。映画の「リアル」は、自然に見えることでも、もっともらしいことでも、蓋然性が高いと感じることでもない。
完全なる首長竜のほうの『リアル』に話を戻すと、この作品内にはどれが現実なのかわからない複数の世界のレイヤーが登場する。いやもちろん、ストーリーの上ではこれが現実であるという世界は存在しているのだが、いつまたそれが反転してしまうかという不安なしに映画を見終えることなどできないし、もしかすると昏睡者の意識のなかの夢という、いちばんリアルじゃなさそうな世界の光景こそが現実なのではないか、などと深読みしたくもなる。だがこの文章で言いたいのは、いくつもあるレイヤーのどれが「よりリアル」であるかなどという話ではなくて、そのように相対化することのできないものこそ、映画の「リアル」だろうということなのだ。
それはつまり、この作品のラストに置かれた綾瀬はるかのダッシュなのである。ブーツとひらひらしたスカートという、とても走りやすそうとは言えない格好で、彼女は海辺にそそり立つフェンスめがけて疾走する。そしてそれは本当に速い。無論、綾瀬はるかという実在の人物が100m何秒で走れるとか、彼女が昔なんのスポーツをやっていたかなどということとはまったく関係がない。カットとカット、シーンとシーンの積み重ねの上でしか獲得できないものこそが「リアル」なのだ。ともすれば手のひらからこぼれ落ちて行きそうになるものをつかみとる速度、瞬きの合間に見失いそうになるものを離さない速度。それが綾瀬はるかのダッシュにはあって、それだけで感動する。これこそこの作品が当初の予定の『アンリアル』ではなく、『リアル』というタイトルでなければいけないことへの偉大なる証明となっている。
そして『リアル』と同年につくられた、青山真治の『共喰い』を私が支持する理由もまさにここにある。『Helpless』とほぼ同じ地域を舞台とし、同じ時代を背景としたこの作品だが、そのふたつの「昭和の最後」の光景は天と地ほどの違いがある。『共喰い』が、検証可能なデータで裏付けることができるようなディテールをほとんど放棄し、「フラットな日本人そのものの視点」(『共喰い』インタビュー参照のこと)を導入したことは、青山真治個人の演出の変化という問題にとどまらない。彼もまた「リアル」とは外部からの裏付けや保証によってではなく、スクリーンの上でその都度つくりだされねばならないものだと考えているはずだ。
黒沢、青山両監督の2013年の新作は、原作つきの映画でなければ製作できないような現代日本映画の状況への身のふるまいを単に示しただけのものではない。そんなちっぽけな問題をこえて、世界中のあらゆる現代映画がさけてとおることのできない「世界の認識」に対しての高らかな態度表明だととらえるべきだ。

 

結城秀勇