10/30(水) 『マーヴェリックス/波に魅せられた男たち』結城秀勇

どこでだったか、廣瀬純さんはサーフボードのスケールの変遷について書いていたはずで、その要旨は、世界の中心とでも呼ぶべきどこかに波を生じさせる巨大な力が原因として存在し、最終的にはその原因そのものへの同一化を図るというロングボードの哲学から、もはや原因としての力はすでにどこにも存在せず、だからただ目の前に次々と生じる波をひたすらに乗りこなしていくショートボードの哲学へとパラダイムシフトした、という話だった。それを読んでなるほどそうかと納得したものの、個人的なスタイルとしての嗜好的にはロングボードへの憧れを捨てきれなかった(無論サーフィンなんて一回もやったことなくて、単に見た目の話)のだが、『マーヴェリックス』を見て、やっぱりロングボードは必要だ、と思った。 命の恩人のサーファーに憧れて、自分もやってみようと思い立ったジェイ少年は、物置からおそらく昔父親が使っていたサーフボードを引っ張りだし、しかしそれにフィンがないことに気づいて、恩人サーファーの家に借りに行く。そしてその納屋に入った途端、巨大なサーフボードに目が釘付けになる。それは近くの海で波乗りをするのにはまったく不向きなサイズで、巨大な波が来ない限り、それに乗ってもパドリングしかやることがない。だがサーファーたちが"竜"と形容するようなとんでもない波が来たときに、はじめてそれが必要となる。 この映画で描かれる「ネス湖の怪獣」級の波・マーヴェリックスは、その形容通り巨大怪獣か大災害かとでもいうほどのルックスと音響を備えている。それに向かっていくサーファーたちを近くの崖のうえから双眼鏡で眺める家族や友人の姿は、まるで自分たちは災害から避難したが被災地の中心に身内を取り残してきた人たちであるかのように見える。おそらくこの映画を普通の上映形態やDVDで見たとしても好きになったとは思うのだが、おそらく今回の爆音上映と同じような感慨を抱くことはなかっただろう。自分はあの波打ち際にいた、少なくともそれが双眼鏡で覗けるあの崖の上にはいた、そんな気がしてならない。そしてそれはこの上映に立ち会った人間がひとり残らず抱く記憶なのだという気がする。

ちなみに本日18:30からの上映である『フライト』について、樋口さんは「『マーヴェリックス』から続けて見ると前半20分は飛行機でサーフしているようにしか見えない」と語っていた。まさしく『フライト』のデンゼル・ワシントンは、普通の波乗りには向かないビッグガンで酔っ払いながら海上を漂っていたら、なんかとんでもなくデカイ波にあってしまったような人物だ。そしてそうした人物は、その波以降の人生をいかに送るのかという映画である。やっぱり人として生まれた以上、一生に一度来るかどうかわからない巨大な波に備えて、納屋に超ロングボードを用意し、常に「四つの柱」の鍛練を積み続けていたいものだ。こんな時代なのだし。