荻野洋一 映画等覚書ブログ

コンテンツの配信 荻野洋一 映画等覚書ブログ
http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi
最終更新: 10年 17週前

『収容病棟』 王兵(ワン・ビン)

土, 07/19/2014 - 17:01
 このドキュメンタリー映画の舞台となる精神病棟が形成する「ロ」の字型の空間を、よもや「映画的」などと称したら不埒に過ぎるだろうか。中国西南部・雲南省の精神病棟のなかにカメラが分け入っている。四方八方を重度の精神異常者たちが徘徊する、と思いきや意外とおだやかな日常がある。ベッド下の洗面器に小便をドバッと垂れるシーンが何度も出てくるのには閉口するが…。だのに、なぜか大便がらみの不衛生描写は皆無である。そして、性欲がらみの描写が皆無なのはどういうわけなのか。ナースが単身で病棟内に入っていって、男性患者の尻にブスっと注射を突き刺したりするが、彼女と患者たちとのあいだで、まったく好色的なもめ事が起きないのである。どういうものだろう。
 本作における四囲の空間は、ドン・シーゲル『第十一号監房の暴動』の監獄空間がかもすドス黒い不快さと、ロベルト・ロッセリーニ『ロベレ将軍』の四囲空間で示される囚人同士のリスペクトの、ちょうど中間くらいの状況を素描しているように思える。王兵の前々作『無言歌』(2011)における、文化大革命の思想犯たちが入れられる、砂漠の洞穴のような収容所の苛酷さにくらべれば、平和そのものである(患者の中には思想犯も含まれていることが示唆される)。王兵は本作を通して、収容患者たちの不衛生な待遇を告発しているのだろうか。どうも、そういうものでもないようだ。しかしまあ、この病棟に入院しても、誰も病気が治らないことは、火を見るよりも明らかであるが。
 ただカメラを向けているといった執着のなさがいい。隣の住人を見るように、あるいは行きつけの飲み屋の常連を見るように、観客は、ここに出てくる患者たち各々の顔を完全に覚えてしまうだろう。年取った男性患者と、下の階の女性患者の鉄格子ごしの静かな交流には、すっかり時間が止まらせられた(しかし、女性患者は階段で上階下階と移動自由なのだろうか? それとも彼女の症状が軽いからなのか?)。第一部と第二部を、同日内に一挙に見終えることをお薦めする。


シアター・イメージフォーラム(東京・渋谷宮益坂上)ほか、全国順次公開
http://moviola.jp/shuuyou/

ルドルフ・シュタイナー展〈天使の国〉@ワタリウム美術館

木, 07/17/2014 - 13:40
 ハプスブルク帝国出身の神秘思想家・教育学者のルドルフ・シュタイナーの絵画、建築、家具デザイン、宝石デザインなど、美術的方面に絞った展示が、ワタリウム(東京・外苑前)で開催されている。ゲーテ、ニーチェ、カンディンスキー、ヨーゼフ・ボイス、ミヒャエル・エンデ、ル・コルビュジェといった固有名詞が脇をすり抜けながら、シュタイナーの活動を彩る。
 入場してしばらく続く〈黒板絵〉が展示の中心をなす。〈黒板絵〉とは、シュタイナーが思想講習会の壇上で板書をすることに対し、熱心な受講者グループが壇上の黒板に黒紙を毎回にわたり貼り付けて、シュタイナーの板書を保存しようと努めたことによって、今に見られるのである。黒地の模造紙に、黄色・赤・白の3色のチョークで厳密に素描されたさまざまな概念図。これにシュタイナーのアフォリズム(箴言)がポップに示され、シュタイナーの表現が内外の両面から理解できるようになっていて、見ていて楽しくなってくる。松岡正剛はシュタイナーの〈黒板絵〉連作を見て、「パウル・クレーに匹敵する」と評したが、じっさい、これらの〈作品〉は思想的裏付けはもちろん前提としてあるものの、単にチョークの走りとして、じつに闊達さが横溢している。


ワタリウム美術館(東京・外苑前)にて8月23日(土)まで会期延長とのこと
http://www.watarium.co.jp/museumcontents.html

『トランセンデンス』そして/あるいは『her 世界でひとつの彼女』

月, 07/14/2014 - 16:21
 現在公開中の2本の新作アメリカ映画──それは共通して、人工知能コンピュータが異常な進化をへて人称性を得るにいたり、さらには生身の人間と恋愛する物語をもっている。ひとつは、ウォーリー・フィスターの『トランセンデンス』であり、もうひとつは、スパイク・ジョーンズの『her 世界でひとつの彼女』である。前者では、志半ばにしてテロの犠牲となった科学者ジョニー・デップの脳神経プログラムがコンピュータ内に移植され、死後は人工知能として愛妻のレベッカ・ホールと再会する。後者では、孤独な中年男ホアキン・フェニックスが人工知能をもつOS「サマンサ」をひょんなきっかけでインストールし、そのオーラル機能であるスカーレット・ヨハンソン(の声)と恋に落ちる。
 前者ではやがて全能の野望が底なしとなり、マッド・サイエンティスト的破滅へと収束する。スーパーコンピュータの暴走を映画史上初めて描いた『2001年宇宙の旅』(1968)が下敷きとなっているのは、ジョニー・デップの設計したスパコンのセットデザインが「HAL 9000」そっくりであることからも明らかだ。いっぽう後者でもっぱら姿なきDJとしてのみ登場するスカーレット・ヨハンソンは、ギャランティをどれほど値切られたのだろうかと邪推してしまうのが、われら観客の俗な関心だ。不毛だと了解していてもなお、機械との恋に埋没するホアキン・フェニックスは、『ブレードランナー』(1982)のハリソン・フォードの生まれ変わりだろう。ビル影に大モニターが出没して、ちっぽけな主人公に覆い被さることからもそれは明らかだ。ロケ地としてロサンジェルスと上海の二都市をたくみにミックスし、どちらともつかぬ匿名のコスモポリタン都市として現出させるあたりも、多分に『ブレードランナー』風味である。
 そして『トランセンデンス』がB級SF的不毛を再生産し、『her 世界でひとつの彼女』がもてない男の幻想を肥大化させる。どっちもどっちの両作であるが、あえて個人的趣味から言わせてもらうなら、前者への苛立ちを、後者が癒やしてくれたことを告白せねばならない。まさかスパイク・ジョーンズに慰められるとは、想像だにしなかった。


『トランセンデンス』 丸の内ピカデリーほかで上映
http://transcendence.jp
『her 世界でひとつの彼女』 ヒューマントラストシネマ有楽町ほかで上映
http://her.asmik-ace.co.jp

クロード・レヴィ=ストロース 著『月の裏側』

日, 07/13/2014 - 16:24
 20世紀最大の知性、クロード・レヴィ=ストロース(1908-2009)の遺稿のうち、日本に関するものを採録した"L’autre face de la lune: Écrit sur le Japon"(Editions du Seuil)が2011年にフランスで刊行され、大好評を得たそうだが、それから3年をへてようやく『月の裏側──日本文化への視角』(中央公論新社 刊)として邦訳が出たばかりである。
 レヴィ=ストロースが初めて日本の土を踏んだのは70歳近くになってからに過ぎないが、彼と日本の出会いは決して浅くなく、6歳の時にジャポニスムに感化された画家である父から、善行のたびにごほうびでもらった浮世絵のコレクションがその馴れ初めなのである。「悲しき熱帯」ブラジルとの濃密なランデヴーが彼の業績の大部分を占めたため(今夏は別の意味で「悲しき熱帯」になってしまったが)、日本への関心は初恋からうっすらと続く通奏低音に過ぎなかったかもしれない。だが、それがやがて狂おしい老いらくの恋へと発展したことは、本書における率直な日本への愛の表明が証拠立てているだろう。
 本書を、ロラン・バルトによって書かれた、読み手の心を溶かすような日本論『記号の帝国』に次ぐ不朽の名著として、世界史に登録せねばならない。それは単に愛国的身振りであることを超越して、20世紀最大の知の巨人によってその狂おしい記述の対象となった側にとって、この世における最低限の礼儀ではないだろうか。
 巨人の弟子にして、日本における窓口を司った文化人類学者・川田順造による訳注はやや意地悪で、師の日本に対する誤解、思い違い、贔屓の引き倒しを容赦なく指摘して、この本の熱を冷ます。それによって、レヴィ=ストロースの晩年の稚気が強調されている。天才の稚気があぶり出されるのだ。しかし、禅僧画家の仙?(1750-1837)について書かれた「世界を甘受する芸術」ほどの美しいテクストを、私たちはいったいこの世のどこで読むことができるというのだろうか?
 クロード同様に日本マニアである彼の次男マテュー・レヴィ=ストロースが父の米寿の祝いに贈った日本製炊飯器を、晩年の巨匠は愛用してやまなかった。曰く、「ご飯に焼き海苔をふたたび味わえるのが、ほんとうに嬉しいのです。ご飯に焼き海苔、それは、この海藻の味わいとともに、プルーストにとってマドレーヌがそうでありえたのと同じくらい、私にとって日本を思い起こす力をもっているのです!」 …炊飯器の手柄が『失われた時を求めて』におけるマドレーヌの味わいに喩えられるとは、近年精彩を欠く日本の工業技術も、いくばくか貴重な歴史的役割を果たし得たと言えるのではないか。
 本書と同じ版元Editions du Seuilから去年出たばかりの"Nous sommes tous des cannibales"(われわれはみんな人食い人種である)の早期邦訳刊行も期待したいところである。

中野成樹+フランケンズ『ハイキング』『天才バカボンのパパなのだ』

金, 07/11/2014 - 21:19
 中野成樹+フランケンズ(以下、ナカフラ)の別役実戯曲2作同時上演『ハイキング』『天才バカボンのパパなのだ』を、水曜金曜と1日おきに見に行く。
 ナカフラといえば本来チェーホフほか海外戯曲の〈誤意訳〉による上演を得意とするグループで、前回の評では大谷能生と組んだチェーホフ『長単調(または眺め身近め』(あうるすぽっと)をとりあげた。今回は国内作家、それも別役実の不条理演劇である。誤訳、意訳が得意とはなんとも人聞きが悪いが、ナカフラの場合、その人聞きの悪さそのものが主題となっていると言って過言ではない。
 今回の2作上演を、大いなる笑いにつつまれて見終えた。〈間〉のズレの面白さは絶妙で、楽しい気分で劇場を後にした。しかし、不条理であることを笑う、〈間〉のズレを笑う、それでいいのだろうかという疑問を抱いた。深夜テレビなどで演じられる少しシュールな漫才と同じ感覚でこの体験を消費してもいいのだろうか。いや、私は演劇というものに、それ以上のものを要求する。それ以上とは何か。それは、演劇がすでに終焉したジャンルであるという諦念のあとにそれでも醸し出される油脂のことである。今回の2作上演にこの油脂が欠けていたとは断言しない。しかし、上演者側および観客である私たち双方にその油脂が完徹されていたかどうか。
 では、近年の別役戯曲の上演とくらべるとどうか。たとえば大滝秀治率いる劇団民藝が、伝統のメソッド演技を捨てて別役実を理解しようとして滑稽なほど悪戦苦闘する『らくだ』(2009 紀伊國屋サザンシアター)はどうだろう。NHKで『らくだ』上演までの故・大滝秀治の格闘に密着したドキュメンタリー番組が放送されていたのを見たことがあるが、高齢の大滝が別役戯曲への違和を克服しようともがく姿は、まさに「演劇」そのものであった(大滝秀治追悼記事)。そして昨夏に深津篤史演出で上演された『象』(2013 新国立劇場)。放射能によるケロイドのもてあそび(「オリーブオイルを塗ると塗らないとでは、ケロイドのツヤが違う」といったセリフの醸す笑いの黒々しさ)ほか、登場人物の一挙手一投足に息を飲んだ。大量の悲しみが溢れるのを受け止めきれぬほどだった。
 民藝や深津篤史にくらべると、緊張感のレベルが少し違うのではないか。選んだテクストが、よりライトな感覚のものだったに過ぎないのか。突然アニメソングを唄い出したりするパロディの援用におもねった世の小劇場演劇、あれらに時間を使う余裕は、私たちにはない。ナカフラはそういうレベルのものではないというのは今回も感じられたが、よりいっそう研ぎ澄ませてほしい。

P.S.
 見終えて、下北沢のバーで飲む。初めて入った上演会場のシアター711は、たしかシネマ下北沢(のちのシネマアートン下北沢)の跡地であるはずである。バーテンダー氏に確認したところ、やはりそうだと言う。711というのは劇場オーナーの誕生日なのだそう。とすると、きょうは誕生日だったということか。無料サービスとかそういうのはないのだね。シネマ下北沢は以前、あがた森魚の監修のもとで拙作短編も上映してくれた劇場である。入口階段から廊下、ホール内、併設のカフェまでふくめ、凝りに凝った愛に溢れるレトロモダンなセットデザインだったように記憶している。今回伺ったシアター711にその面影は、トイレのシンクに張られたタイル以外はほぼゼロ。スズナリ風の謹厳実直な普通のアングラ劇場となっていて、時計が逆に遡った感覚を覚えた。


中野成樹+フランスケンズ〈誤意訳から別役へ〉2作上演は、下北沢シアター711(東京・世田谷)で7/15(火)まで
http://frankens.net

『郊遊』 蔡明亮

水, 07/09/2014 - 16:01
 蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)監督の最新作にして引退作でもある『郊遊〈ピクニック〉』を試写で見た。蔡明亮はまぎれもなく “作家” だ。この人の作風に拒否反応を示す人も少なくないが、1カットを見ただけで蔡明亮の映画だと誰でも言い当てることができる。これは認めるべきだと思う。今回の『郊遊』でも、常連役者の李康生(リー・カンション)が台北の場末を退屈まぎれにそぞろ歩いてみせるだけで、あっという間に蔡明亮の映画になってしまう。
 素朴な疑問として、なぜ蔡明亮は引退してしまうのか? 映画監督が存命中に引退宣言するのは、意外と見られないことだ。たいがいの人は未練たっぷりにフェイドアウトしていき、死ねばそれなりにオマージュを捧げてもらえるといった昨今の世の中だ。1957年生まれというから、やはり引退宣言した宮崎駿はもちろん、いまだ若手の気風を残す黒沢清よりも年下なのに。映画作家は次のように書いている。「私は、いつ死んでもおかしくないというほどに体調が悪くなった」「近頃のいわゆる、エンタテイメント・ヴァリュー、市場のメカニズム、大衆の好みへの絶え間ない迎合、それらが私をうんざりさせた」と。だがこれは、フィルムメイカーにあるまじき甘ったれた思想とも言える。映画が市場のメカニズムから解放されるなんてありえない。しかし、それも選択だ。映画から離れるのも悪くない選択である。皆が皆、すっかりやせ細ったこのジャンルにしがみついている必然性はない。
 試写後、配給スタッフの方が私に、蔡明亮は本国ではファインアート、パフォーマンスアートの分野ですごく高い評価を得ているから、とも注釈を加えてくださった。つまり、商業映画の枠を越えたいということだろう。そう言われてみれば、『郊遊』に写されたあらゆる事象──人間たちの営み/都市の片隅に打ち捨てられた廃墟/川っぺりの水際の泥/大通りに林立する人間立て看板/連日降りつづけるどしゃぶり/廃墟の壁に描かれた石ころだらけの風景画、エトセトラエトセトラ──これらは全部、インスタレーションだと思った。しかも、そんじょそこいらでお目にかかれないほどハイレベルな。誰もが侯孝賢のように、映画そのものであり続けることの栄光と悲惨を体現できるわけではないのだ。だから、蔡明亮の選択は決して甘えなどではなく、才能のある人特有の冷淡さというか、冷厳な選択なのである。
 現実という残酷にして有限の物象を素材とした、蔡明亮の無限なヴィジョンを具現化させた剥製として、この最終作『郊遊』は、青白く冷えきった光を、見る側に鋭利に差し向けている。それにしても、『郊遊』というのは、じつに美しいタイトルである。


8月下旬、シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開の予定
http://www.moviola.jp/jiaoyou/

『愛のあしあと(Les bien-aimés)』 クリストフ・オノレ

月, 07/07/2014 - 15:43
 クリストフ・オノレは最新作『メタモルフォーズ(Métamorphoses)』がすでに完成し、今年10月にフランスで公開される予定と雑誌で読んだ。そのオノレの2011年作品『愛のあしあと(Les bien-aimés)』を、アンスティテュ・フランセ東京(東京・市谷船河原町)で開催された〈女優たちのフランス映画史〉の最終日最終回で見ることができた。
 オノレはフランスの国立映画学校FEMISではノエミ・ルヴォフスキー、フランソワ・オゾン、グザヴィエ・ボーヴォワより少し後の世代に属する。これら90年代派のフランス作家たちはこぞってフィリップ・ガレル、ジャン・ユスターシュびいきに見える。アルノー・デプレシャンにしてもそうだが、フィジカルなリアリズムが根底をなし、これにアラン・レネの荒唐無稽が接ぎ木されている。ひるがえってクリストフ・オノレは今作を見るにつけ、彼らとは様相を若干異にする。まず彼は、毛沢東主義時代以前の1960年代的ヌーヴェルヴァーグへの親近感を隠そうとしない。これは、私がフランスという国を自分なりに見てきた限りにおいて、意外と勇気ある姿勢だと思う。というのも現代フランスにおいて、ヌーヴェルヴァーグなどと口走ろうものなら、「やめてくれ、あんなものはもう年寄りの骨董だよ」というアレルギー的な反応がすぐに返ってきてしまうのである。

 『愛のあしあと(Les bien-aimés)』はまず手始めに、トリュフォーの脚線美フェティシズムから入る。「ロジェ・ディディエ(Roger Didier)」なる(おそらく架空の)靴屋でさまざまな女性客の試着姿が写される。この靴屋の店員であるヒロインが店の地下倉庫からえび茶色の高級ハイヒールを盗み、安手のモカシンからこれに履き替えたとき、物語は高々と始動を宣言されるだろう。
 このヒロインはジャック・ドゥミ『シェルブールの雨傘』から飛び出してきた化身で、震える声で何曲もフレンチポップスを歌う。そして、このヒロインを年取ってから演じるのが、何を隠そうカトリーヌ・ドヌーヴである。若き日のヒロイン(リュディヴィーヌ・サニェ)はハイヒールを万引きしたのちパリの裏角で売春婦をはじめる。『女と男のいる舗道』である。ここになぜかヴェラ・ヒティロヴァー、ミロシュ・フォルマンらによるチェコ・ニューシネマが接ぎ木され、彼女が産む娘(ヒティロヴァーに敬意を表したか、ヴェラと名づけられる)は、ドヌーヴの実娘キアラ・マストロヤンニが演ることになる。母と娘は、それぞれ愛に接したり遠ざかったりするが、その主舞台はセーヌ川のいろいろな橋であったり、鉄道を下に見下ろす陸橋だったりする。『パリところどころ』である。
 キアラの年下のボーイフレンドをルイ・ガレルが演ることにより、フィリップ・ガレルとニコの恋愛に目配せしつつ、キアラは9.11テロで騒然とする北米の某都市でみずから昇天する。キアラが1990年代に入って片思いを寄せるゲイ・ドラマーの演奏シーンはまさに、『右側に気をつけろ』を彷彿とさせるだろう。つまり、どこまでもその時代時代に添い寝しようという覚悟を、オノレは自分自身に課したかのようである。
 最後は、パリから特急で1時間に位置するという北フランスの都市ランスの、瀟洒な一軒家が主舞台となり、なにやらリヴェットやシャブロルの後期作品のごとき、一軒家の怪しい人間模様に移行する。そして、カトリーヌ・ドヌーヴが、若き日に万引きしたえび茶色の高級ハイヒールを、どのように処理するか。これが最後のクライマックスとなる。みごとな共犯関係を張りめぐらすラストの演出で、見る者に感激をもたらすだろう。ヌーヴェルヴァーグについての、かなり遅刻気味ではあるが、冒険をいとわぬ総括として本作は在るように思う。

なべおさみ 著『やくざと芸能と』

土, 07/05/2014 - 20:21
 日本テレビ『ルックルックこんにちは』やおびただしい数のドラマなど、なべおさみというと1980年代くらいまでは、あのプンプン怒って紅潮したチビな兄ちゃんという風采でお茶の間の欠かせぬ顔だった。海援隊の武田鉄矢が出てきたとき、私は子供心に「あ、このキャラはなべおさみのマネだよな」と感じたものである。そんななべおさみも1991年、息子の「明治大学裏口入学事件」を起こして芸能活動を自粛。1年後に『笑っていいとも!』を口火に芸能界復帰を果たしたらしいが、私自身テレビを視聴しなくなったこともあり、なべおさみの顔は久しく見ていない。なお、裏口入学事件の当事者は、当時高校生だった息子の「なべやかん」である。
 先々月(5月)末、吉祥寺バウスシアターの「爆音映画祭」でブライアン・デ・パルマの『ファントム・オブ・パラダイス』を見た帰り、アーケード内のBooksルーエで立ち読みしていたときに新刊コーナーで小林信彦『「あまちゃん」はなぜ面白かったか?』と、本書『やくざと芸能と』(イースト・プレス 刊)の2冊を発見した。本書の帯には「知られざる昭和裏面史」と銘打たれ、「ビートたけし、絶讃。“こりゃあ凄い本だ!”」と印刷されている。読まずにいられるわけがない。
 彼の自伝として書かれた前半も面白いことは面白い。不良高校生として闊歩した1950年代の銀座の不良グループの実態やいろいろな店の名前、喜劇役者をめざして水原弘と勝新太郎の付き人をしていた設立初期のナベプロの動向などは、じつに興味深い東京の歴史である。しかし、後半章の〈「本物」のやくざを教えよう〉こそ、この本の真の驚きだ。たけしが “こりゃあ凄い本だ!” と言ったのもこの章を読んでのことかと思われる。やくざ社会の成り立ち、そして観阿弥・世阿弥、出雲の阿国、吉原遊郭を仕切った浅草弾左右衛門からはじまる河原者(カワラモノ)・芸能者(カブキモノ)の歴史、穢多・非人の歴史が、〈なべおさみ史観〉によってダイナミックに語られる。ここ四半世紀はあまりこの人の顔を見ないと思っていたら、こんなことを研究していたのか!
 のれん、手ぬぐい、ほっかぶり、編み笠といった日常品の誕生も、穢多・非人の歴史と関わっていることが、この人独特の熱血的な筆致で語られる。そしてその源流を、倭国に渡来してきた秦氏とその氏族集団に求めている。この氏族集団は、金属加工・皮革加工・石工・養蚕などを倭国(古代の日本)にもたらした技術者集団であり、また祭祀における太鼓の制作(皮革加工)や雅楽といった芸能活動のエキスパートとして、初期の天皇制を裏側から支えつつあったのだという。そしてこの秦氏の源流はもともと、中国北方(現在のカザフスタン)に移った北イスラエル十支族のうちのひとつであり、日本語の「ヤクザ」「クサ(草)」「クズ(屑)」「カスミ(霞)」「クシュイ(臭い)」といった単語の語源は古代ヘブライ語の「クシュ」なのだそうで、そのあたりの言語的な説明もくわしい。なべおさみ、あの紅潮したプンプン顔はペンの中に健在なりである。

『GF*BF』 楊雅?(ヤン・ヤーチェ)

木, 07/03/2014 - 21:33
 台湾映画の新作『GF*BF』を見ようとして、劇場の切符売り場で思わず口ごもってしまった。係員も心得たもので、すぐさま「『GF*BF』でございますね」と助け舟を出してくれたから、このタイトルを失念する客、どう読んでいいか途方に暮れる客は少なくないのであろう。中国語の原題は『女朋友。男朋友』なので、“邦題にも台湾映画らしい風情が欲しかったなあ、いま思えば『恋恋風塵』とか『恐怖份子』とか『山中伝奇』とかああいうタイトルは洒落ていて良かったなあ” などとお節介なことをいろいろと考えめぐらせた。どうやら普通に「ジーエフ、ビーエフ」と読めばよいらしいこの味も素っ気もない記号のような邦題は、IMDbを参照すると正式なインターナショナル・タイトルらしい。
 映画の中味は、男子2人(張孝全、鳳小岳)と女子1人(桂綸鎂)による三角関係を編年体の長いスパンで描きこんだラブロマンスである。ただ画面はしっとりとメロウなのに、BGMに当時流行したと思われる若者向けのアップテンポな台湾ポップスが無造作にがんがんかかるので、画面と音響がやや遊離した感が否めない。作り手側はその遊離感も味という気でやっているのだろうが。
 映画は4部構成をとっている。まず1985年夏、戒厳令下の高雄。この南部の町で3人はまだ高校生である。彼らの三角関係が始まる。ちょうどこの時代は楊徳昌や侯孝賢といった台湾ニューウェイヴの映画が日本に紹介されはじめたころで、その時代の青春映画を思い出しながら画面を眺めることができる。そして1990年春、台北。大学生となった彼らは民主化運動に励んでいる。三角関係の核心は、張孝全の思いを寄せる相手が桂綸鎂ではなく鳳小岳であること──つまり日本風にいえば「おこげ」の物語だという点なのだが、この問題は冒頭から最後まで彼らを縛り続けるのである。1997年台北。彼らは社会人となっているが、行き詰まりを見せる。三人の関係もここでは詳述しないが終焉を迎える。そして現在──という編年体の構成である。
 楊雅?(ヤン・ヤーチェ)監督は、楊徳昌や侯孝賢のような映画史を揺るがすタレントではもちろんない。でも、民主化運動をからめた青春映画としてはじつによくできていると思う。台北の中正紀念堂を使って民主化要求学生デモのシーンがロケされているが、蒋介石を追悼したこの施設でよく撮影許可が下りたものだ。台湾本国でひょっとすると本作は、官民挙げてとり組んだ注目作品という位置づけなのかもしれない。とくにすぐれた人物が登場するわけではないが、彼らなりに生き、彼らなりに輝いている。そして、私はどうやらこういう編年体のラブストリーリーに弱いらしい。吉田喜重『秋津温泉』(1962)とマックス・オフュルス『忘れじの面影』(1948)の2つが、わが落涙必至2部作なのだが、ようするに私はだらしのないセンチメンタリストということだろう。だから当然、今回の『GF*BF』への点も甘くなる。


シネマート新宿、シネマート心斎橋ほか全国順次公開
http://www.pm-movie.com/gfbf/

ナショナル・シアター・ライヴ2014『ザ・オーディエンス』

火, 07/01/2014 - 18:53
 近年シネコンでは必ずしも映画作品だけでなく、ポール・マッカートニーやローリング・ストーンズ、ビリー・ジョエル、サイモン&ガーファンクルといったビッグ・アーティストのコンサート・ムービーや、パリ・オペラ座の歌劇とバレエの公演映像が上映されるケースが増えている。かつて私の子ども時代には「フィルム・コンサート」というものがあって、来日を望めそうもない海外ミュージシャンのライヴ映像が公民館などで上映された。中学時代、四谷の公民館でフレッド・フリス(元ヘンリー・カウ)のフィルム・コンサートを見たし、新宿5丁目の黙壺子アーカイブでレッド・ツェッペリン『狂熱のライヴ』なんかを見たのもその流れである。
 1980〜90年代のバブル時代前後は、日本の好景気、国際的地位の向上と共に、ピーター・ブルックのような高名な演出家とロマーヌ・ボーランジェをはじめとする豪華キャストがホテル西洋銀座に長期滞在して、銀座セゾン劇場で来日公演を打ったりした贅沢な時代もあった(当時、友人が銀座の「つばめグリル」でブルックとボーランジェが昼ご飯を食べているのを目撃したりしている)。現代でもミュージカルの分野ではブロードウェイの引っ越し公演がおこなわれたり、オペラやダンスの分野ではパリやヴッパータールからの来日もないことはない。しかし、ことストレート・プレイ(ミュージカルではない普通の演劇)における海外アーティストの来日公演となると、日本の国際的地位の低下とともに激減し、いや激減というよりほぼ皆無に等しくなった。首都・東京でさえも1年に何件もない海外演劇の来日公演を、私自身なるべく見逃さないように努めているが、しょせん雀の涙である。

 TOHOシネマズのチェーンが今年シリーズで開催中の《ナショナル・シアター・ライヴ2014》は、イギリス演劇の最高峰ロイヤル・ナショナル・シアター(ロンドン サウス・バンク)の舞台上演を、ハイビジョンの高画質で英国外の観客に見せようという企画である。そして現在上映されているのは、エリザベス女王と歴代12人の首相たちの「謁見(The audience)」を風刺的に描いた喜劇『ザ・オーディエンス』である。戯曲を書いたのはピーター・モーガンで、この人は映画界でもスティーヴン・フリアーズの『クィーン』(2007)で同種の題材を手がけたほか、ロン・ハワードの『フロスト×ニクソン』『ラッシュ プライドと友情』、クリント・イーストウッド『ヒア アフター』のシナリオも担当している。演出は『リトル・ダンサー』『めぐりあう時間たち』の監督スティーヴン・ダルトリー。主役のエリザベス2世を演じるのは、『クィーン』でも同役を演じたヘレン・ミレン。女王と歴代12人の首相たちの謁見で交わされる会話は、まさに良質そのものと言っていい喜劇に仕上がっている。ロイヤル・ナショナル・シアターの観客のヴィヴィッドなリアクションともども、伝統あるイギリス演劇の魅力をこの目で知る機会となる。
 海外演劇の日本語字幕付きシネコン上映の波は、もっと広がってもいいのではないか。ロイヤル・ナショナル・シアターのような最高峰のもの以外にも、私たちが旅行しなければ見ることのできない素晴らしい演劇は、もっとマイナーなものもふくめ、世界中にごろごろしているのだから。


《ナショナル・シアター・ライヴ2014》シリーズはTOHOシネマズ日本橋ほかで巡回開催
http://www.ntlive.jp

『オール・ユー・ニード・イズ・キル』 ダグ・ライマン

日, 06/29/2014 - 19:52
 トム・クルーズ映画のハズレのなさ加減は異常なほどである。日本のラノベ原作だろうとなんだろうと、今回もしれっと料理しアクションの好篇に仕立てられているが、トム・クルーズは現代の奇跡なのではないか。先日の『X-MEN: フューチャー&パスト』評でも述べたが、この『オール・ユー・ニード・イズ・キル』は、またしても地球文明の終焉を描くカタストロフの映画である。それはもはや現代映画が抱えるオプセッションであり、ループ現象と言っていい。本作において、異性からの物体との戦争に無理やり参加させられた主人公(トム・クルーズ)が戦死を遂げ、タイムループの中で戦死の前日にリセットされる。時をつかさどる能力をもつ敵の中心的存在をたまたまやっつけたことで、そうしたタイムループの能力を得てしまったとのこと。彼は戦死の前日と当日をなんどもやり直していくうちに、強大な敵と張り合うノウハウを徐々に身につけていく。
 スピルバーグの『プライベート・ライアン』(1998)の前半でくり広げられたノルマンディ上陸作戦がここで反復されている。そして、ちょっとした失敗がすぐにリセットを引き起こす。歴史はこのようにくり返すのだろうか? 人生はこのようにリセットされうるのだろうか? 観客はこの反復をクルーズと共に追体験しながら、自問自答するのである。ちょうど大島渚『帰ってきたヨッパライ』(1968)のごとく、砂浜で眠りから覚めて反復が開始され、青山真治『ユリイカ』(2000)のごとく、乗り物が一度目はカタストロフとして、くり返しとしては再生の契機として出現する。


7/4(金)より丸の内ピカデリー(東京・有楽町マリオン)ほか全国で上映予定
http://wwws.warnerbros.co.jp/edgeoftomorrow

『ぷくぷく、お肉』(おいしい文藝 第一弾)

金, 06/27/2014 - 18:06
 ウシ・ブタ・ニワトリが日本における3大食肉であるのは、ここ1世紀半くらい変わっていない。しかし必ずしもこれらが3トップとは限らず、日本で古くはイノシシ、ウマ、カモ、キジ、シギなどが先んじて食肉として愛されてきた。安藤広重の浮世絵なんかを見ると、「やまくじら」なる看板が描かれていたりするけれども、もちろん山にクジラが生息するはずはなく、シシ鍋など獣肉を喰わせる店が世間をはばかってそう自称したに過ぎない。室町時代の高名な禅僧に一休さんがいるが、アニメでは頓智に長けた坊主としか描かれていなかったものの、じっさいの一休さんは女を抱き放題、肉を食い放題だったという。人間が動物性タンパク質を欲するのはしごく自然なことなのである。
 これにウサギ、ハトや、シカなどのフランス系ジビエもふくめ、寒くなる季節にはなんとも悦楽への切符となる。わがエピキュリアン的欲望が満足されるのは、寒い季節にジビエ、そば屋でカモ、上野周辺でとんかつ、そして京割烹でスッポンにかぶりつく時だ。ステーキだけは難物で、これは一流の店で食べたことがなく、いまだいい思い出がない。自分で焼いたステーキのうまさ以上のものを、外で食べたことがないのである。はばかりながら、私は肉食系男子だ。きょうも朝からヒツジを野菜といっしょに炒めてガブガブ喰らった。朝食に肉、というのがわが一日のパターンだ。
 でも、私にとってのオプセッション的な肉といえば、ラムチョップである。「これを与えておけば、子どもも文句はないだろう」という心境で母が焼くのが、いつも仔羊の骨付き肉(ラムチョップ)だった。たしかにこれは普通のヒツジより癖がなくてうまいことはうまいが、ただいつも食べているとちょっと飽きるというか胸焼けするというか、いやそれはラムチョップのせいではなく、若き日の母が醸す罪滅ぼし的、取りなし的な気分が自分には重かったのだろうと思う。

 河出書房新社から今回出た『ぷくぷく、お肉』は、肉食に関する随筆をあつめたアンソロジー本である。赤瀬川原平、阿川弘之、池波正太郎、伊丹十三、色川武大、内田百ケン(ケンはモンガマエに耳)、開高健、邱永漢、檀一雄、古川緑波、向田邦子、山田太一、吉田健一、四方田犬彦など、私の大好きな書き手たちがこぞって肉を喰らうことの快楽を述べていて、本屋の新刊コーナーで立ち読みしていたら思わず買ってしまった。グルメガイド的な本を読むのは気恥ずかしい気分がある。映画監督の山本嘉次郎が書いた『たべあるき東京 横浜 鎌倉地図』(1972)のようなお墨付きのものなら大丈夫で、我ながらそういうところはなんとミーハーなのだろうと思う。
 本書を読んでいて意外の感も抱いたし、またうれしくも感じたのが、現代の書き手たちが上の先達たちに伍して健闘以上の文を見せてくれていることだ。角田光代、川上未映子、菊地成孔、久住昌之、島田雅彦、馳星周、平松洋子、町田康といった書き手たちである。とくに馳星周と角田光代の文には感銘を受けた。油断禁物なり。ところで私の早大の卒業アルバムには角田光代の角帽姿も出ている(早大は角帽なのである)が、ほとんど見た目は今と変わらない。

『アメリカの兵隊』@ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー映画祭2014

水, 06/25/2014 - 16:19
 1階の「カフェ・テオ」でデア・レーヴェンブロイをたのんで、2階のオーディトリウム渋谷に上がる。ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー映画祭2014で『アメリカの兵隊』(1970)を見る。ファスビンダー主宰の劇団アンチテアーター総出の初期作品。今作は初見。ファスビンダーのファンを自称しておきながら、未見作品がちらほらある。
 ドイツ出身でアメリカに渡ったベトナム帰還兵リッキー(=リチャード ドイツ語発音でリヒャルト)が殺し屋稼業となり、ミュンヘン警察から受けたいくつかの極秘の依頼を淡々とこなしながら、安ホテルの一室や小汚いバーでバランタインを瓶ごとラッパ飲みするのが何度もくり返される。途中、ミュンヘン郊外の実家に立ち寄り、母親と弟に久しぶりに再会するシーンがあって、そこで母親がやっぱりバランタインをラッパ飲みするので、ああこれは遺伝なのだなと合点した。
 リッキーといい仲になる刑事の情婦ローザ・フォン・プラウンハイムを演じたエルガ・ゾルバスは、本作のあと『ニクラスハウゼンへの旅』(1970)、『リオ・ダス・モルテス』(1970)、『インゴルシュタットの工兵隊』(1971)、『四季を売る男』(1971)とつづく初期ファスビンダー映画の顔となる女優だが、少したるんだお腹、いかにもゲルマン的なブロンドヘアともども、なんともコケティッシュに写っている。また、去年『ハンナ・アーレント』で大いに株を上げた女性監督マルガレーテ・フォン・トロッタがホテルのメイド役で結構きれいなプロポーションを見せているほか、来月に同じくオーディトリウム渋谷で開催予定のダニエル・シュミット映画祭でたくさん拝むであろうイングリット・カーフェンがバーの女性歌手として出ている。
 そしてなんといっても、ペーア・ラーベンのサントラのすばらしさ。かつて中原昌也とペーア・ラーベンのすばらしさについて一晩中語り明かしたことがある。ラーベンの白々しくも慈しむべきメロディにギュンター・カウフマンの薄らざむい歌声(誰かの声に似ていると思うのだが、それが誰なのか、四半世紀くらい思い出せない)が乗っかってくると、これはもうトリップ的ファスビンダー的世界そのものである。
 主人公の “アメリカの兵隊” リッキーを演じたカール・シャイトをググったら、2009年4月に68歳で亡くなっていた。遅まきながら合掌。原題の『デア・アメリカーニッシェ・ゾルダート(Der Amerikanische Soldat)』は、今にしても思えば、ノイエ・ドイチェ・ヴェレ(ジャーマン・ニュー・ウェイヴ)の盟友ヴィム・ヴェンダースの最良の作品『アメリカの友人(Der Amerikanische Freund デア・アメリカーニッシェ・フロイント)』(1977)によって後韻を踏まれただろう。主人公のニックネームが「ムルナウ」だったり、情報屋の女が「フラー」だったり、バーの店名が「ローラ・モンテス」だったりするのが、それを証明している。


ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー映画祭2014がオーディトリウム渋谷(東京・渋谷円山町)で開催中
http://a-shibuya.jp/

『プロミスト・ランド』 ガス・ヴァン・サント

月, 06/23/2014 - 21:29
 ガス・ヴァン・サントの新作『プロミスト・ランド』を東銀座の松竹試写室で見る。ヴァン・サントは『永遠の僕たち』(2011)のような極甘の陶酔劇も、『ミルク』(2008)のような行動原理だけの禁欲的映画も撮れる。今回は後者。何をやっても中途半端だったスティーヴン・ソダーバーグ(嫌いじゃないけど)とは、器が違う気がする。今年はもう62歳になるというから、むかしならとっくに押しも押されもせぬ巨匠といっていいが、依然として若手の気風を残しているのがヴァン・サントらしい。彼と同世代のコーエン兄弟も同じようなものだ。
 シェールガス革命に一石を投じた社会派サスペンスと呼んでいいだろう今回の『プロミスト・ランド』を見ながら、なんとなく浮かんできたのがシドニー・ルメットの名だった。考えてみれば、たとえばシドニー・ルメット(1924-2011)が快作『セルピコ』(1973)を発表したのはまだ48歳の時であったし、その翌年から『オリエント急行殺人事件』(1974)、『狼たちの午後』(1975)、『ネットワーク』(1976)と続く。私がこれらルメット70年代の佳作群を見たのはテレビ放映だったが、じつにわくわくさせられる面白さだった(依然として『ウィズ』は未見)。そしてついに初めて劇場で見たルメット映画が『プリンス・オブ・シティ』(1981)である。ニューヨーク市警の麻薬捜査員たちにはびこる汚職を、地味にねちねち延々と3時間近く描くさまは、どうにも咀嚼困難なものを感じたものだ。うむこういうものもまたアメリカ映画である、と無理やり納得するほかはなかったことを憶えている。
 本作『プロミスト・ランド』をスモールタウンもの、あるいはジリジリとした一攫千金ものとしてとらえながら、アンソニー・マン監督『神の小さな土地(公開時邦題 真昼の欲情)』(1958)も思い出した。この作品はDVDリリース時(2006)に梅本洋一からDVDを借りてようやく見ることができた。いろいろと参照的に他作品を思い出してばかりで恐縮だが、社会派という点で『プリンス・オブ・シティ』が、スモールタウンものという点で『神の小さな土地』が出てくるというのも、この映画の醸す魅力だとのみ伝えておきたいと思う。
 マット・デイモンが『グッド・ウィル・ハンティング』(1997)以来じつに15年ぶりに脚本・主演でヴァン・サント作品に参加している。


本年8月にTOHOシネマズシャンテ、新宿武蔵野館ほか全国で公開予定
http://www.promised-land.jp

『青天の霹靂』 劇団ひとり

金, 06/20/2014 - 21:08
 現在公開中の作品に『X-MEN: フューチャー&パスト』と並ぶタイムスリップものとして、劇団ひとりが監督・助演した『青天の霹靂』もある。『X-MEN: フューチャー&パスト』はいわばシリーズとしてのこれまでの物語全体を自己否定する動きを見せるという点でアクロバティックたりえているわけであるが、事実関係のつじつま合わせに終始しているだけということも言える。これに対して、『青天の霹靂』は完全にオーソドックスな自分探しの物語となっている。
 私はわがままな人間で、こういう「劇団ひとり」などという甘ったれた芸名じたい大嫌いなのだが、それでも作品は一応見る。マジシャンの主人公(大泉洋)が何ごともうまく行かずうだつの上がらぬ自分を呪っていると、稲妻が彼の体を撃ってくれて、生まれる直前の1973年にタイムスリップする。この1973年という年はなぜか『X-MEN: フューチャー&パスト』でウルヴァリン(ヒュー・ジャックマン)がタイムスリップする年と符合する。かつて、ヴェンダース、エリセ、シュミット、イーストウッドを顕揚するために蓮實重彦が特権化した年号だが、『X-MEN』も劇団ひとりももちろんそれは埒外である。そして自分を捨てて去ったと聞いていた母(柴咲コウ)とダメ親父(劇団ひとり)の愛の形を目の当たりにするという、メロドラマが展開される。パパ-ママ-ボクをめぐる関係修復のメロドラマとしてだけでなく、柴咲コウという女優の三十路に達した一番美しい季節を目に焼き付けるという楽しみを無駄にすべきではない。
 しかしこの映画の一番いい点は、演芸の街として機能し得た最後の時代の浅草を愛惜をこめて描いていることだ。荒川土手での死体発見というまがまがしい導入から始まって、浅草の人情味と非情さの両方が写し出されている。ひょっとして、浅草が映画の舞台になるのはこれが最後ではないか、という感慨を抱きながら本作を見た。


TOHOシネマズ日本橋ほか全国で上映中
http://www.seiten-movie.com

『X-MEN: フューチャー&パスト』 ブライアン・シンガー

金, 06/20/2014 - 01:18
 近年の映画界が飽きることなく地球の終わりや人類の絶滅を描きつづけていることは、このブログ上でも繰り返し言ってきた。この傾向が顕著なのはアメリカ映画だが、日本の黒沢清監督『回路』(2000)が見せた破局のビジョンは、「自分が生きているあいだに、こんな光景は絶対に見たくはない」と思わせるインパクトを観客に与えた。
 そして興味深いのは、これらのディザスター・フィルムに「トレーニング効果」ともいえる経験値の累積がだんだん見えてきている点だ。後発作品の登場人物たちに、またそれを見る観客にも、先行作品でさんざんくり返されたビジョンに対する耐性が生まれているのだ。そして現在公開中の『ノア 約束の舟』は、物語こそ旧約聖書から採られた古いものではあるけれども、じっさいは滅亡ビジョンについての最新ロットを示そうとするもので、『回路』の返答的リメイクと言っても過言ではない。
 『X-MEN』シリーズの最新作『フューチャー&パスト』も、この文脈につらなっている。ミュータントと人間のあいだで延々とつづく戦争に登場人物の全員がうんざりし、飽き飽きしている。「もうこんなことは、最初からなかったことにしたい」という厭戦気分が、この映画のテーマだ。──そこで思いついたアイデアはようするに、このシリーズで語ってきた物語そのものをご破算にしよう、暴力連鎖のきっかけとなった出来事を、誰かが過去にさかのぼって阻止してしまおう、ということだ。そしてウルヴァリン(ヒュー・ジャックマン)が選ばれて、1973年時点にタイムスリップする。
 シリーズ第3作『ファイナル ディシジョン』(2006)と前作(といってもシリーズ全体の前日譚を語っている)『ファースト・ジェネレーション』(2011)の両方の続編として書かれたシナリオは、アクロバティックな仕事ぶりだ。パラレルワールドを語るSF映画はたくさんあるけれども、2つの時代それぞれに別々の前作から引き継ぐべき文脈が存在するというのは前代未聞だと思う。ただ、シリーズの不真面目な観客でしかない私が、この二元的に構成されたディテールをすべて受け止めきれたかというと、甚だ心許ないところだ。


TOHOシネマズスカラ座(東京・日比谷)ほか全国上映中
http://www.foxmovies.jp/xmen/

『ノア 約束の方舟』 ダーレン・アロノフスキー

月, 06/16/2014 - 20:08
 『ブラック・スワン』から4年ぶり、『レスラー』からは早6年ぶりとなるダーレン・アロノフスキー監督の新作である。ニューヨーク・ブルックリン出身の彼がユダヤのなんらかの原理に殉じているというのを聞いたことがないが、なんとも奇妙な作品で、駄作扱いされることもカルト作扱いされることも、両方覚悟したようなところがある。アロノフスキーが無名時代から転がしていたシナリオのようだから、キャリア上の損得抜きでケジメとしてまとめたのかもしれない。『レスラー』や『ブラック・スワン』でアロノフスキーを好きになった人は、ちょっと今回は引くのではないか。
 子ども時代にテレビ放送で、ジョン・ヒューストン監督『天地創造』(1966)を興味津々で、またはいくぶんかの幻滅をもって見たことを思い出す。いくら史劇スペクタクル好きの私でも、何カットも費やしてひとつのモチーフを強調しようとする習性(たとえばセシル・B・デミルの『十戒』)はぞっとしない。
 この『ノア』も序盤でカインがアベルを殺害するいきさつが述べられ(へんてこな逆光のCG)、カインの子孫であるトバル・カイン(レイ・ウィンストン)、そしてカインとアベルよりも後にイヴが産んだ末弟セツの子孫ノア(ラッセル・クロウ)という同族同士の近親憎悪をもっぱらの主題とする。
 アブラハムという同一の父祖を持つことにより、ユダヤ人とアラブ人の起源が同一であることは明らかであり、その点で私は本作を見ながら、スティーヴ・ライヒが1993年にリリースした3枚組アルバム『ザ・ケイヴ』を想起せずにはいられなかった。アブラハムの妾から生まれた子がイシュマエルで、これがアラブ民族の始祖。正妻の子がイサクであり、このイサクがユダヤ民族(イスラエル人)の始祖となる。カインとアベル、イシュマエルとイサク、そしてこの映画のノアの息子たち──セムとハム。最初の戦争は兄弟ゲンカだというのである。
 方舟という密室における男女間、親子間の近親憎悪が増長する後半の展開は、まさに地球という惑星の運命を絵解きしたものだろう。ノアの妻をジェニファー・コネリーが、義理の娘をエマ・ワトソンが演じる。これら女優陣が、人類最初の密室劇を(ドワイヨンばりに)盛り上げる。


東宝洋画系で全国上映中
http://www.noah-movie.jp
P.S. 本作をTOHOシネマズ日本橋(東京・三越前)のTCX/DOLBY ATMOSをそなえたシアター8で見たのだが、かなり光量が暗く感じられた。通常の上映と見比べたわけではないが、都内ではまだこのTOHOシネマズ日本橋だけというTCXのクオリティに疑問符のつく上映であった。

ミルチャ・エリアーデ 著『ポルトガル日記 1941-1945』

木, 06/12/2014 - 15:44
 フランシス・F・コッポラ近年の快作『コッポラの胡蝶の夢』(2007)の原作者であるルーマニアの作家・宗教学者・民俗学者ミルチャ・エリアーデ(1907-1986)の戦後の日記はだいぶ以前に既刊だが、第二次世界大戦中に在リスボンのルーマニア大使館で文化参事官を務めていた1941から1945年にかけての『ポルトガル日記 1941-1945』がこのたび刊行された(作品社 刊)。
 戦後はフランスに亡命し、同郷のシオランやイヨネスコと共に、パリ文壇で華やかな活躍を見せることになるが、この本ではそれ以前のエリアーデの苦悩に満ちた姿が刻まれている。この期間、彼は愛する妻ニーナの死に立ち会っている。ニーナの闘病と臨終をめぐる記述は、凄惨の極致に達している。
 しかし、この日記を大きく特徴づけているのは、まず第一にエリアーデの書き手としてのすさまじい自負である。そして第二に、第二次世界大戦で枢軸側(ナチスドイツ側)に付いて参戦したルーマニアへの不安である。エリアーデはシオラン同様、戦前戦中はルーマニアにおける親ナチス・反ユダヤの極右組織「軍団運動(鉄衛団)」のシンパだった。つまりナチスドイツが敗れたばあい、ルーマニアという小国は隣国ロシアによって蹂躙され、無化されるだろうという、これが彼にとっての最大の心配である。以下、少し長くなるが、重要と思われる日記をいくつか引用しておこう。

 まず第一の自負に該当する記述。1941年12月11日から。「私の知的地平はゲーテのそれよりも広大なのだ。たとえば、その気になれば今日にでも、19世紀のポルトガル詩に関する本を容易に書くことができるだろう。私はけっして碩学ではないが、単なる碩学以上の何者かである。」
 第二のマージナルであるルーマニアについての憂国的な記述。1942年9月3日から。「マイナーな文化であることの劣等感が私を苦しめている。あらゆる手段を講じ、そしてできるだけ速やかに、他の国の人々に我々の文化を懸命になって知らせなくてはならない。フランスやイギリスの文化はなんと幸運なことか。」
 同年9月23日から。「いかなる努力も無益だ、という思いに再び囚われている。文化の研究を成し遂げようとすることが、まったく何の意味もないことは確かだ。自分が一つの歴史のサイクルの終焉の時期を生きていること、そして、そのあとに来るはずの楽園のような混沌の世界に同化しえないことはわかっている。英米とソヴィエトが支配する新世界が、私のような人間を、その懐に受け入れるはずがない。新世界は私にとって苦悩そのものだ。生き続けようと死のうと、私にとっては同じだ。共産主義者たちが私を銃殺刑にしようがすまいが関係ない。私を苦しめているのはそのことではない。私の死後、私の理想としたものが実現に向かって推し進められるという確信を得ながらの死であれば、もしその死が意味をもった死であるなら、それはむしろ、私がつねに望んできた死であるはずだ。いわゆるプロレタリアートの独裁、実際のところ最も卑俗なスラヴ的要素の独裁の下に屈したキリスト教ラテン文明のなかに生き長らえることこそ恐ろしい。」
 同年11月28日から。「もしロシアが勝ったなら、私の民族も、私の著作も、私自身も、文字どおりの意味でも比喩的な意味でも、消滅してしまうだろう。しかしだからといって私は天職も、また自らに課した義務も放棄するつもりはない。私は最後まで働く。」
 同年12月25日から。「私に残される道は、神秘主義か、世界からの隠遁か、無秩序状態か、世界との完全な決別かのいずれかだろう。今ほど私の心と体のなかで、希望と絶望が激しくせめぎあっている時はかつてなかった。そのために私の創造的な仕事は滞っている。ロシア戦線での作戦を前にして、創作活動はすべて中断している。」

 上でエリアーデが書いている「最も卑俗なスラヴ的要素の独裁の下に屈したキリスト教ラテン文明」という悪い予感は、戦後に現実のものになる。ソ連の衛星国として共産化したルーマニアは、マルクス主義の理想とは似ても似つかぬ「最も卑俗なスラヴ的要素の独裁」に堕したのである。
 ひとつ注釈しておくなら、ルーマニアは東欧の国だがスラヴ民族の国ではなく、ラテン民族の飛び地であるという事実である。古代のローマ帝国の騎士団がこの地を植民地化し、ダキアという地名で開墾した。それが今のルーマニアの源流である。ルーマニア=Romania(ローマニア)。そして、ルーマニア語というのは、古代ローマで使用されていた旧ラテン語の息吹を、現代イタリア語以上に、最も正統的に伝える言語だといわれている。
 そうしたルーマニア文明のコンテクストに照らし合わせながら、この日記を読むべきだろう。「軍団運動(鉄衛団)」との関係から、戦前戦中のエリアーデを批判することはたやすいが、それだけでは不十分なのである。

『花と蛇 ZERO』 橋本一

火, 06/10/2014 - 14:53
 石井隆などが監督した2000年代東映版の『花と蛇』シリーズは一本も見ていない。したがって日活・小沼勝版(1974)の記憶をたよりに、団鬼六による物語をたぐり寄せ、突き合わせてみるのだが、さてこんな話だったか。小沼版で谷ナオミ=静子が存分に「犠牲者=獲物」として晒し続けられていたのに対し、今回も静子という女は濱田のり子によって演じられてはいるが、それはあくまで静子の一側面でしかない。アクロバティックな脚本によって、映画はあられもない地点へと拡散し複数化し、最終的にはファルス(笑劇)の域で解放化する。監督は『探偵はBARにいる』シリーズを手がけた東映社員出身の橋本一。
 監禁SMストリーミングサイトの被写体として登場する静子(濱田のり子)。そして、それを自宅のパソコンで鑑賞しながらみずから静子のパロディと化す主婦(桜木梨奈)。さらに、サイトの違法性を調べ上げ、摘発しようとする警視庁の女性刑事(天乃舞衣子)。三者三様の「犠牲者=獲物」ぶりがパラレルに語られる。中でも、こわもてだったはずの女性刑事が捜査の過程でSM調教の世界を垣間見て、その魔性に怖じ気づくプロセスが、今回版の一番のみどころとなっている。残念ながら、天乃舞衣子の稚拙な演技のために、こわもての刑事が怖じ気づいていくメンタル・サスペンスが、今ひとつ真に迫らない。
 いっぽう、監禁SMがコミカルな実演へと昇華されていくあたりの、糸の切れた展開は圧巻だった。マルキ・ド・サドのSM小説を読んでいても、あまりの事態になにやら笑いを誘われるケースがある。本作はああいう感覚を誇張して出している。SMショーの司会を担当する地下組織の幹部を菅原大吉が演っていて、この人が醸す滑稽さは秀逸である。『あまちゃん』における「ブティック今野、ダサダサ」の商工会長役も悪くなかったが、今回の菅原大吉は一世一代の名三枚目だったのではないか。


丸の内TOEI2(東京・銀座)で6/13(金)まで(他劇場では続映)
http://www.dmm.co.jp/hanatohebi0/

「ロンブー淳と自分そして荻野洋一。」というブログ記事

土, 06/07/2014 - 17:21
 先ほど「ロンブー淳と自分そして荻野洋一。」なるブログ記事を発見しました。こんなに以前から、こんなことを感じてくれている方も世の中にはいらっしゃるんだな、とうれしく思いました。ありがとうございます。もうこの方はブログでの更新をストップし、ツイッターに移行なさったようなので、当該記事もいつまで閲覧できるかわかりませんが。ロンブー淳と自分そして荻野洋一。