荻野洋一 映画等覚書ブログ

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最終更新: 10年 18週前

小林信彦 著『「あまちゃん」はなぜ面白かったか?』

金, 06/06/2014 - 16:11
 小林信彦の「週刊文春」連載エッセイ16度目の単行本がかかげる『「あまちゃん」はなぜ面白かったか?』(文藝春秋 刊)なるこれ見よがしの書名は、“羊頭狗肉” とまで決めつけはしないまでも、看板に何やらうさん臭さが感じられる。2013年分およそ50回の連載中、NHKの高視聴率ドラマ『あまちゃん』を見出しにかかげた回はわずか3回のみ。たったこれだけで上記の書名はいくらなんでも、ヒット商品誕生秘話のたぐいをやたらと読みあさるビジネスマンを釣り上げてやろうという水増し商法とさえ思える。
 とはいえ私は上の見解を、否定的感情とともに書いているのではない。むしろ、小林御大と文春の編集者に対して「あいかわらずお人の悪い方たちだ」という微苦笑とともに、俗世間に差し向けたサディスティックなユーモアとして受け止めているのである。このタイトルを思いついた編集子を前に、小林御大が屋形舟の上でイヤらしい笑顔を浮かべつつ、「おぬしもワルよのう」とのたまわっているのが目に見えるようである。
 「小林信彦があまちゃん本を出したぞ」と早合点して本書をレジに運んだ人たちは、期待を大いに裏切られるだろう。じつを言うと『あまちゃん』に関する記述は、本書のなかで最も精彩を欠いた部分でさえある。獅子文六への参照が、多少なりとも大御所の知恵を醸してはいるが…。しかしきょうびのインターネット時代では、この程度の感想・分析はあまたのブログ等でいくらでも読める。

 その代わり、福島原発の収束不能への不安と焦燥、東京オリンピック招致への違和感、安倍政権による「戦後レジームからの脱却」に対する怒り、大島渚の死(同年生まれ)のショック、宮崎駿『風立ちぬ』に対する擁護etc.、小林信彦らしい堂々たる真っ当さが貫かれている。誰もがお気軽に戦後民主主義の限界を揶揄して得意になっている現代にあって、もはや貴重な書き手であると言わねばならないのは残念なことである。
 そしてなんと言っても、健在の毒舌ぶり。「アメリカのコメディアンたち」という回では、こう書かれている。「ジェリー・ルイスは若さと服の着こなしが良いだけの、つまらないコメディアンだった。(中略)…ジェリー・ルイスはひとりで〈底抜け映画〉を演じつづけたが、六〇年代後半から人気が下り坂になり、一部のフランスの映画批評家だけが高く評価していた。ぼくは『底抜け大学教授』(六三年)あたりで観るのをやめた。」

『ブルージャスミン』 ウディ・アレン

日, 06/01/2014 - 21:06
 小林信彦が『ミッドナイト・イン・パリ』をけなして『ローマでアモーレ』を良しとするのは、この人の “アレン・ウォッチャー” としての自己韜晦が過剰に表出した結果としての言いがかりに過ぎないのではないか、というふうにだいぶ割り引いて取る必要がある。たしかに、アレン本人が出演しているかいないかは依然として大きいものがあり、『ローマでアモーレ』ではアレン本人が脇役ながら登場して、ローマへの飛行機の中で墜落への恐怖で年甲斐もなく動転してみせるなどというシーンが挿入されるだけで、見ているこちらも得したような気分になる。ひるがえって、オーウェン・ウィルソンが演ろうがケネス・ブラナーが演ろうがショーン・ペンが演ろうが、ウディ・アレンが自己の分身をほかの俳優に託した場合、それはあくまで擬態としての限界体験を出るものではないのである。
 しかしながら、仮にアレン本人が出ない場合でも、今回のケイト・ブランシェットのように女優が彼の代わりに、世界の苛酷さと接しあうとなると、がぜん凄味、苦味が増すのは、中期の『アリス』(1990)、『私の中のもうひとりの私』(1989)を思い出させる。女性のアイデンティティ・クライシスを扱うにあたり、ケイト・ブランシェットという高慢を絵に描いたような女優の出演は、本作にいつにも増した力をもたらしているのは明らかだ。
 本作を見てカサヴェテス映画におけるジーナ・ローランズを想起するのは決して間違いではないが、その前に出るべき名前は、『欲望という名の電車』『渇いた太陽(青春の甘き小鳥)』『しらみとり夫人』で、セレブ気どりのいけ好かない女たちの滑稽さ、俗物ぶりを描かせたら右に出る者のいなかった、テネシー・ウィリアムズの名前でなければならない。彼女のジャスミン・フレンチという名前の軽薄さは、いわばテネシー・ウィリアムズの戯曲『欲望という名の電車』における、上流階級の高慢さと虚栄心が抜けきらず、庶民的な妹やその粗暴な夫から忌み嫌われるヒロイン、ブランチ・デュボワの似非フランス風を多分に継承しているだろう。
 トルーマン・カポーティ原作『ティファニーで朝食を』のホリー(オードリー・ヘプバーン)や、F・スコット・フィッツジェラルド原作『華麗なるギャツビー』のデイジー(ミア・ファロー/キャリー・マリガン)といった、セレブ気どりで虚栄心まみれの女たちを、アメリカの20世紀は飽くことなく描いてきた。『ティファニー』も『ギャツビー』も、冷静な作者の分身(まだ世に出ていない無名のライターという立場)が登場して、彼女たちの生きざまをちゃんと見届けてくれていたわけだが、『欲望という名の電車』のブランチ・デュボワにも、そして今回の『ブルージャスミン』のジャスミン・フレンチにも、そうした一部始終を見届けてナラタージュ構造に包摂してくれる存在があてがわれていない。情け容赦がないという点で、ブランチとジャスミンは同じ状況下に置かれているのである。


シネスイッチ銀座(東京・銀座四丁目)ほか全国で上映
http://blue-jasmine.jp

『チョコレートドーナツ』 トラヴィス・ファイン

金, 05/30/2014 - 15:46
 ゲイ・カップルが、親に見放されたダウン症児を引きとって幸福な家庭を築くが、世間の無理解に遭って法廷闘争に巻き込まれていく、という実話を元にしたストーリー。舞台は1979年、カリフォルニア州ウェスト・ハリウッド。70年代末という時代設定ゆえか、同性愛に対する無理解と偏見の描写は、失笑と義憤をもたらしてやまない。なおこの前年の78年には、同州のサン・フランシスコで、ゲイ運動の指導者ハーヴェイ・ミルク市議が暗殺されている。
 最近も『アデル、ブルーは熱い色』を見て、フランスの作家映画においてさえ、ヒロインの女子高生がレズビアンであることが判明すると、級友たちから一斉に「エンガチョ」扱いされる描写があって、その未開性にびっくりさせられたのだが(欧米ではとっくに認知されたものだと考えていたから)、われわれ日本人がとりわけ未開であるだけでなく、『最強のふたり』の白人/黒人の描き分けの古色蒼然を見ても分かるように、世界全体は思ったより変わっていないし、進歩してくれてもいない。なにしろUEFAは依然として「Say No to Racism」をスローガンに掲げざるを得ないのである。
 本作でダウン症児を育てようと奔走するゲイ・カップルのうち、片方はドラァグクイーンだからわかりやすい人物像だが、もう片方がカリフォルニア州の検察局に務める法律家である。彼はゲイであることが露見するとすぐに検察局から解雇されるが、さらに追い打ちをかけるように養育権取得法廷に対しておせっかいな横やりを入れてくる元上司が出てくる。この元上司を演じたクリス・マルケイという役者がなんとも、保守反動を絵に描いたようなツラ構えで、時代は遡るが、1940〜50年代の赤狩り時代に告げ口した人間たちの末裔という匂いをプンプン漂わせるのだ。
 このように本作は、1970年代末を描いた2010年代の映画だが、寒々しさ、暗さ、反動への憤怒、そして97分という上映時間、抒情性のなさ(主人公たちへの憐憫ゆえに、本作上映中の劇場内は観客のすすり泣きが響きわたるが、画面内の描写はさして湿り気を帯びていない)は、まるでフィフティーズの映画を見ている感触である。ただし、もう少しシネフィリックな手応えがあってもよかったし、その点はやや心残りである。


シネスイッチ銀座(東京・銀座四丁目)ほか全国順次公開
http://www.bitters.co.jp/choco/

黒眼帯の人は誰?

水, 05/28/2014 - 10:09
 さっき、箱崎エアターミナル(東京・日本橋箱崎町)で、黒眼帯をつけた初老の男性とすれ違った。これが初めてではない。このあたりの夜道で何度となく出くわし、地下鉄丸ノ内線の車内でも見かけたこともあり、銀座の四丁目交差点でも会ったこともある。フォード、ウォルシュ、ニコラス・レイばりの黒眼帯を、コスプレ的にではなく日常的に利用している人は、この大東京でもめったに見ない。おそらく、本当に独眼なのだろう。
 しかし、そういう物珍しさもさることながら、ジャケット、シャツ、時には紐ネクタイなど、着こなしの洒落た感じが尋常ではなく、間違いなくただ者ではあるまい。と言っても、やくざというのではない。もっと、なんというか、ジャズ評論家か何かかしら?とも考えたりする。ジャズ評論家という人と親しく接していないので、勝手なイメージで言っているだけである。ただ、たいがいはディスク・ユニオンの例の黒地に赤文字のビニール袋(それも12インチのLPサイズの袋)を小脇に抱えている。そんな初老男性はただ者ではないだろう。
 この男性のことを、いくつかの場で話したことがある。私は交友には恵まれていて、何か疑問や不明点があっても、たいがいは誰かの知識なり調査なりのおかげで解決できてしまう。物知りの知人に囲まれた──まるで百科全書の森に抱かれて生きているかのような──果報者の人生を、一度きちんと感謝せねばならない。しかしながら、わが百科全書たる知人友人たちをもってしても、その黒眼帯の男が何者なのか、いまだ判明し得ていない。「こんど会ったら、挨拶しちゃえばいいじゃん」「え」「なんなら荻野さんの知り合いに加えちゃったらどう?」
 残念ながら先ほどの邂逅の際には、声をかける勇気が湧かなかった。エアターミナルの長い廊下で、私はまたしてもなすすべなく、その姿を目で追うことしかできずに終わった。先方もトイレに向かっていくようだったし、仕方あるまい。また次もあるだろう。こんなに何度も会ったのだから。

『そこのみにて光輝く』 呉美保

日, 05/25/2014 - 18:34
 函館という街の地図が、この映画によって更新されている。郊外のバラック小屋、陋巷の中の安アパート、昭和の特飲街にあったようなちょんの間etc. 北の町の冬ではなく、夏の海水浴を照らす鈍いきらめき。今まで函館を映した映画史におけるどの函館ともまったく異なる表情を、この映画の函館は見せている。
 とはいえ、あらゆる事象がリアリズムのもとで描かれているように見えて、しかしああいう底辺の環境というものが、どこかメルヘンとも取れてしまうのは否定しようもなかった。悲惨な境遇の女(池脇千鶴)と、仲間の死をトラウマとして抱える男(綾野剛)。一組の男女が宿命的に出会うための装置として、彼らの境遇がしつらえられている。この点はどうなのだろう? 脳梗塞で寝たきりの父や前科一犯の弟(菅田将暉)を抱え、困窮する一家を支えるために、池脇千鶴はちょんの間で1回8000円の売春婦として働き、妻子持ちの造園業者(高橋和也)の2号をつとめ、あまつさえ寝たきりの父の性欲処理まで買って出ている。一観客としては実生活でここまで困窮したこともないし、底辺で清濁併呑の暮らしにやつしたこともないから、もうひとつリアルさの程度をつかみかねた。
 しかし、設定描写への疑問とは関係なく、池脇千鶴と綾野剛の最初の出会いシーンで交わされる視線は、純粋にいいラブシーンになっている。これ見よがしの理由づけはないし、テレビ局映画のような視線の美学化もない。いったん視線が交わされ、そしてそのすぐあとは不機嫌さと視線の停滞がある。池脇千鶴のつくったひどく不味そうな炒飯をみんなで食べて(料理なんていっさいできない女という設定なのだろう。いやそれどころか、この映画には食べ物の味なんかに関心をもつ登場人物は、火野正平くらいしか出てこない)、そのあと綾野剛が(女の感情を試すかのように)庭に出て、植物なんかを眺めるフリをする。そうすると池脇千鶴が男の淡い期待に応えるでもなく家から出てきて、一緒にそぞろ歩いたりする。ラストでも反復されるこの海岸での緩慢な道行きが、この男女にとっての至福の時空間であることが、見る者にははっきりとわかるだろう。


テアトル新宿(東京・新宿伊勢丹裏)ほか全国で順次公開
http://hikarikagayaku.jp

『アメイジング・スパイダーマン2』 マーク・ウェブ

木, 05/22/2014 - 22:34
※本記事には、明瞭にではないにせよ、物語の核心に多少触れている点がありますのでご留意ください。
 スパイダーマンは多分にニューヨーク的な存在だろう。多少なりとも昆虫の能力を得て超人的に振る舞いつつも、スーパーマンのように大空を自由気ままに飛び回るというわけにはいかず、彼は手首から発射する蜘蛛の糸を命綱にしながら、重力という桎梏からヨーヨーの要領で限定的に離反していくのだ。彼はぶら下がり、張力と遠心力によってみずからの身体を中空に投げ出し、飛距離をダイナミックにゲインする。映画はそのゲインを画面に収めるかぎりにおいて、躍動感を維持することができる。
 スパイダーマンには、摩天楼のビルとビルの谷間がぜひとも必要である。彼は壁面に蜘蛛の糸を張りめぐらしながらジャンプ一番、飛び回り、ビルの窓を吸盤のような手の平で駆け上がってみせる。広大なオープンスペースほど、彼に似合わぬ場所はない。また、そうした場所に敵も存在しない。
 今回の作品に関して言うなら、敵はあくまでスパイダーマンをマン・ツー・マンでマークする者ばかりである。スパイダーマンが図らずも敵を作りだし、スパイダーマンの周囲でのみ敵が暴れてみせる。敵たちは悪さをする際でさえ、スパイダーマンによる承認が必要なのである。スパイダーマンは、彼ら敵を元来は敵だと思っておらず、できれば彼らの弱々しいメンタルを手助けしたいと思っているが、敵方の要請によって不承不承に敵として承認してやっているに過ぎない。したがって、この『アメイジング・スパイダーマン2』には、物語を推進するだけのモチベーションが欠けているのである。
 重力に対する抵抗。それだけが主人公の動力源である。そして、彼は最後の最後で、重力に敗れ去る。ヒッチコックの『めまい』か、ノートルダムのせむし男を下敷きにした、時計台のごとき細長い塔のセットイメージがしつらえられ、『めまい』のキム・ノヴァクのように、ブロンドの美女が落下していく。ジェームズ・スチュワートが見つめる下方の先には、虚無だけが、ガバリと口を開けているのみだ。


TOHOシネマズ日劇(東京・有楽町マリオン)ほか全国で上映
http://www.amazing-spiderman.jp/

『ウィズネイルと僕』 ブルース・ロビンソン @THE LAST BAUS

月, 05/19/2014 - 15:26
 わが偏愛の一作のリバイバル公開を、ひとり孤独に祝いたい。1988年のイギリス映画『ウィズネイルと僕』、俳優ブルース・ロビンソンの監督としての長編第1作である。しかし、祝う、と言ったら語弊があるかもしれない。本作は吉祥寺バウスシアターの閉館イベント《THE LAST BAUS》の一環として、爆音映画祭の裏でひそかに掉尾を飾っているからだ。思えば本作を23年前の5月に見たのも、どうやらバウスだったらしい。私は勝手に渋谷桜丘時代のユーロスペースだったと記憶していたが、それは勘違いのようである。クロージング興行の一環として本作をセレクトしたバウスのスタッフの鑑識眼にも、ブラボーの快哉を叫びたいと思う。そして、「そんな過大評価な」という外野の声を、私は完全に無視するだろう。
 ブルース・ロビンソンといえば、まず俳優として、フランソワ・トリュフォー監督『アデルの恋の物語』(1975)でヒロインのイザベル・アジャーニが一方的に片思いするイギリス軍中尉を演じたことで記憶される。『ウィズネイルと僕』はロビンソンの自伝的映画であり、1969年ころのロンドンのカムデン・タウン、売れない俳優として、ルームメイトのハンサム俳優といっしょにアルコールとドラッグに溺れた自堕落な生活を、愛惜をこめてカメラに収めている。ラストシーンで主人公「僕」はオーディションに受かり、ぼろアパートを出て行く。うぬぼれ屋でわがままだが憎めないルームメイトのウィズネイルを置いて…。そして主人公が去ったあと、ひとり取り残されたウィズネイルが、誰もいないリージェンツ・パークで朗誦してみせるシェイクスピアが泣けるんだよ。ようするに、主人公がトリュフォー映画でアジャーニの相手役を射止める、その5〜6年前の物語ということになるのだろう。
 ブルース・ロビンソンにはじつは監督作として『ラム・ダイアリー』(2011)という新作もあって、しかもこれはジョニー・デップが主演であるにもかかわらず、ほとんど顧みられることなく公開を終えてしまった。この『ラム・ダイアリー』も内容的には『ウィズネイルと僕』とほとんど同じで、こちらは売れない俳優ではなく、デップ演じる売れないライターがプエルトリコに赴任してラム酒中毒になっていくというだけの物語である。もしあなたがブコウスキーの小説が好きなら、マルコ・フェッレーリ監督『ありきたりな狂気の物語』(1981)に登場するベン・ギャザラとオルネラ・ムーティが好きなら、『ラム・ダイアリー』もオススメしたい。
 ちなみに、『ウィズネイルと僕』はイギリスのハンドメイド・フィルムズ社の作品であり──つまり、故ジョージ・ハリソンのプロデュース作品である。だからこんな低予算の映画なのに、ザ・ビートルズの「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」が堂々とかかってしまう。イギリス映画に対するジョージ・ハリソンの貢献は、『モンティ・パイソン』『バンデットQ』を製作してテリー・ギリアムを見出したことや、『モナリザ』(1986)を製作してニール・ジョーダンを売り出したこと、あるいは『上海サプライズ』(1986)をプロデュースしてマドンナとショーン・ペンを出会わせたことに留まらないのである。
 『ウィズネイルと僕』という一篇のフィルムは、フランソワ・トリュフォー、ジョージ・ハリソンなどあらゆる固有名詞が跳梁跋扈する美しい星座のドまん中にある。


吉祥寺バウスシアター(東京・武蔵野市)にて5/31(土)まで
http://w-and-i.com

『革命の子どもたち』 シェーン・オサリバン

土, 05/17/2014 - 20:29
 バーダー=マインホフ(ドイツ赤軍)のリーダー、ウルリケ・マインホフ。日本赤軍のリーダー、重信房子。このふたりの共通点は暴力革命を推進して指名手配となった点だけでなく、美女であるという点も共通している。さらに彼女たちには一人娘をもつという共通点がある。マインホフの娘ベティーナ・ロールさん、重信の娘・重信メイさん。この二組の母子4人をめぐるドキュメンタリーが『革命の子どもたち』である。他の登場人物は、映画作家の足立正生、赤軍派の塩見孝也、重信房子の弁護士・大谷恭子。
 重信房子の娘・メイさんの父親はパレスチナ・ゲリラで、イスラエルのミサイル攻撃により落命したとされる。まさに革命家の落とし種である。日本+アラブのハイブリッド美女で、映画はいくぶん破廉恥なまでに彼女のオリエンタルな魅力をフィーチャーしようとさえしている。若松孝二が晩年、本作の日本公開を切望したらしいが、こうした当事者、シンパたちの思い入れとは裏腹に、この映画にはどことなく甘いロマンティシズムがただよっている。私は本作を見ながら、ロラン・バルトが、ローザ・ルクセンブルクのテクストを読むモチベーションを与えてくれるのは、彼女の美しいポートレイトを見たことがあるからだ、というようなことをどこかに書いていたのを思い出した。
 この映画の監督をつとめたイギリス人がクセモノだという気がする。「1960年後半に日本で強まった抗議の精神について、またそのエネルギーがどこに消えてしまったのかを、日本の若い世代が考える助けになれば」というのが望みだと語る監督のシェーン・オサリバン。彼は本作に『革命の子どもたち』、つまりChildren of the Revolutionというタイトルを与えた。この題には、彼のブリティッシュな美意識がたっぷりとかかっているだろう。Children of the Revolution、これはT・レックスのブギー・ナンバーの曲タイである。血なまぐさいテロリズムの映像的総括としてグラムロックが援用される(T・レックスと、ウルリケ・マインホフ、重信房子の活動は同時代)のも、時代表現の一形体なのか(そしてそれは軽薄さ一歩手前の痛快さだ)と、合点がいった。


7/5(土)よりテアトル新宿ほか全国で順次公開予定
http://www.u-picc.com/kakumeinokodomo/

『極悪レミー』 グレッグ・オリヴァー、ウェス・オーショスキー @THE LAST BAUS / 爆音映画祭

水, 05/14/2014 - 19:11
 私がモーターヘッドを聴くのは中学・高校時代以来、じつにおよそ30余年ぶりである。『ジ・エース・オブ・スペイズ』『アイアン・フィスト』など彼らにとっても代表作となるアルバムを立て続けにリリースしていた頃である。当時はパンク=ニューウェイヴの全盛時代だったにもかかわらず、同級生の大半はハードロック=ヘヴィメタルのファンだったが、私はハードロック=ヘヴィメタルが嫌いだった。しかし放課後にほぼほぼ毎日通っていた池袋北口の貸しレコード屋「サウンドボックス」の試聴コーナーでモーターヘッドを聴いたとき、「ここまで行っちゃってるなら、好きでないなりに認めてやるよ」などと高校生の分際でえらそうに考えていた。逆にヘヴィメタルファンの友人たちのうちモーターヘッドに耐えられるのは、一人くらいしかいなかったように記憶している。それほどモーターヘッドの音はただ単に轟音で、殺伐としており、当時のヘヴィメタルファンが欲する印象的なリフも陶酔的なギターソロも皆無だった。
 失礼ながら、モーターヘッドがいまだ現役であることは、本作を見て初めて知った次第だ。しかもこれまで知らなかったのは、リーダーのレミー・キルミスターがモーターヘッド以前にじゅうぶんなキャリアを積んできたプロフェッショナルであること。まさに継続は力なりである。レミーのタフネスもさることながら、この継続の源泉は、ロサンジェルスの街に対する信頼と安寧、愛情にかかわることなのだ。
 英国西部ウェールズ出身のレミーが、外国人の分際でいかにしてLAの象徴的存在たり得たか。それは畢竟この街の風通しのよさを示すであろうし、彼が身をもってLAで生き長らえるだけの資質の持ち主だったということもある。本作はレミーという人物の、コワモテだが飾らない誠実さをすくい取っている。もちろんヒューマニズムはあくまで塩胡椒であり、主食は、モーターヘッドのライヴやレコーディングで聴くことになる、鼓膜の破れそうなベース、ギター、ドラムス、ヴォーカルの轟音である。爆音であることが宿命づけられた音の塊である。


吉祥寺バウスシアター(東京・武蔵野市)の《THE LAST BAUS / 爆音映画祭》にて上映(本作の次回上映は5/20 16:00)
http://www.bakuon-bb.net

『ネイチャー』 パトリック・モリス、ニール・ナイチンゲール

日, 05/11/2014 - 21:44
 大自然の驚異を映したドキュメント映像は、スペースオペラやタイムスリップ物などよりはるかにSF的ではないか。見知らぬ秘境に奥深く分け入れば分け入るほど、微細な昆虫のはたらきを拡大すればするほど、野生動物の俊敏さをスーパースローで引き延ばせば引き延ばすほど、漆黒の深海へ沈潜すればするほど、私たち文明人にとってそれらはフィクショナルなものとして映る。
 BBC EARTHは、かつてはNHK-BS、現在はWOWOWで断続的に放送が続いているネイチャー・ドキュメンタリー製作の世界最大手ブランドで、『ディープ・ブルー』『アース』『ライフ』といった映画作品もあるが、このブランドの最大の特色は、湯水のごとく使われる潤沢な予算、そして過剰という非難もまったく気に病まぬ美麗な映像である。対照的なのはナショナル・ジオグラフィック・チャンネルで、スカパー!で見ることのできるこのチャンネルは、多少なりとも科学調査的な青臭さ、そして探検隊のうさん臭さを残している。だがナショジオの活動を、BBC EARTHはまったく鼻にもかけていないだろう。
 BBC EARTHで私がこれまで確認し得た最高の瞬間は、オオトカゲが水牛を食べるシーンの冷酷さだ。オオトカゲが、自分より何倍も大きい水牛の足下あたりをチラっとだけ噛みつく。水牛からすればたいしたケガとも思えないが、いつのまにか、オオトカゲの仲間たちが周囲に集まってくる。オオトカゲの唾液には毒があり、だんだん水牛が衰弱していくのを、オオトカゲたちはただ気長に待つのみである。次のカットで時間経過。あれほど屈強に見えた水牛の巨体が、悪化した足の痛みに耐えきれず、ついにバタンと倒れ込む。水牛の鼻先を、オオトカゲが悪戯まじりにチョロチョロと細長い舌でくすぐっている。倒れ込みながらも威嚇を試みる水牛だが、それも長くは続かない。そして次のカットでは、たくさんのオオトカゲの口が、一塊の巨大な肉の塊を引きちぎっている。
 アフリカ各地の火山、海、砂漠、サバンナの生物の営みを紹介する今回の『ネイチャー』が、水牛vsオオトカゲに匹敵する映像を提供し得たかといえば、それはノーだろう。しかしながら、アフリカゾウの一群が水を求めた遙かなる長征の果てに、ついに大雨の後の水たまりを発見して、水浴びする場面の解放感──ある種人間的とさえ言えるような幸福の表情を、象たちがはばかることなく見せている。歓びに笑うのは、人間だけではないらしい。


TOHOシネマズみゆき座(東京宝塚劇場・地下)ほか全国で上映
http://nature-movie.jp

ジャック・カロ──リアリズムと奇想の劇場 @西美

木, 05/08/2014 - 17:00
 いまの国立西洋美術館に行けば、版画という表現形式が醸すあやしげな魔力にどっぷりと浸かることができるだろう。黒インク単色の線のみを表現手段とする版画は、ぱっと見親しみが湧きにくく、個人的には殺伐とした感情を抱かせることもなくはなかったのだが、いったん好きになると、油彩画など放っておいて、そちらばかり見てしまうような中毒性がある。ましてや同館の所蔵作品のうちほとんどが版画作品であり、名品も多い。今冬に同館で開催された《モネ、風景を見る眼》を見に行った際も、私がもっとも感動したのはモネの油彩ではなく、『吸血鬼』(1853)をはじめとするシャルル・メリヨンの連作『パリの銅版画』の連作であった。
 同館地下の企画展示室では、《ジャック・カロ──リアリズムと奇想の劇場》が催されている。ジャック・カロ(1592-1635)はロレーヌ公国(現・フランス北東部)の首都ナンシーが輩出した銅版画の名手で、とくにコジモ・デ・メディチに寵愛されたフィレンツェ時代の充実ぶりはすばらしい。
 マニエリスムからバロックへの転換期に、奇矯な形体への関心と写実精神が結びついたと言われる。カロの版画は、戦争のむごたらしさ、トスカーナ地方の豊饒なる市の光景、宮廷主催の祝祭的行事、〈七つの大罪〉ほか宗教的主題、ロマ族や身体障害者といった社会的弱者の肖像など、さまざまな画題に挑んでいるけれども、そのすべてがすさまじく精巧なクオリティにあり、バロック台頭の高揚感が、彼の削り出した一本一本の線から湧出しているかのようだ。
 図に掲げた『二人のザンニ(喜劇の従者役)』(1616頃)は、当時のフィレンツェで大人気だった劇団コメディア・デラルテの登場人物を描き、浮世絵で言うところの「役者絵」ということになるが、この奇想ぶりは東洲斎写楽も真っ青だろう。
 ジャック・カロ展と同時並行で開催されている《非日常からの呼び声 平野啓一郎が選ぶ西洋美術の名品》も、版画ファンには見逃すべからざる部屋である。デューラー『メレンコリア?』、ゴヤ『飛翔法』、デッラ・ベッラ『子どもを運ぶ死』、パルミジャニーノ『キリスト埋葬(第1ヴァージョン)』、ブレダン『善きサマリア人』といった、同館所蔵の版画作品の傑作がきちんと含まれており、近代エッチングの傑作であるエドヴァルド・ムンクの『接吻』(1895──もちろん映画が発明された年だ)を前にすれば、この部屋の最後で、如何ともし難く大きな感動と動揺を、鑑賞者は抑えきれないだろう。


国立西洋美術館(東京・上野公園)で6/15(日)まで
http://www.nmwa.go.jp/

『アデル、ブルーは熱い色』 アブデラティフ・ケシシュ

月, 05/05/2014 - 17:46
 去年の10月にバルセロナに滞在していたとき、情報誌「TimeOut Barcelona」の誌上で、同時期に公開されている映画が星5つ満点のうち軒並み3つ星以下という状況下(『インシディアス第2章』『グランドピアノ 狙われた黒鍵』『キャプテン・フィリップス』、そしてミヒャエル・ハネケについてのドキュメンタリー『Michael H.』など)において、唯一5つ星を与えられていたのが『アデル、ブルーは熱い色』だった。
 ジュリー・マロの原作漫画『ブルーは熱い色』は未読だが、シナリオはどことなく日本映画ふうである(近年で言えば『NANA』『ハナミズキ』『横道世之介』『舟を編む』といったロングスパンの編年体による青春映画)と同時に、あきらかにオリヴィエ・アサイヤスふう(『8月の終わり、9月の初め』『5月の後』)、またはミア・ハンセン=ラヴふう(『グッバイ・マイ・ファーストラヴ』)でもある。青い髪をしたカリスマ的な男装の令嬢(レア・セドゥ)のありようは、非常に日本的だ。そして、ほぼ全編を手持ちカメラで親密かつ即席的な反美学的画風を強調しているあたりは、90年代以降の「カイエ」派の若手映画作家の系譜に属するだろう。私はこの系譜を勝手に「フィジカル・リアリズム」と名づけているのだが、『アデル、ブルーは熱い色』はそのフィジカル・リアリズムの最新の収穫である。
 シックスナインやら松葉崩しやら、微に入り細に入り克明に描かれる百合族(レア・セドゥとアデル・エグザルコプロス)のセックスシーンが長すぎるという指摘があって、私もそれに首肯するのだが、これらのからみはいささかサービスカット的に過ぎはしまいか。本作を話題作にしたいというアブデラティフ・ケシシュ監督のあせりのようなものを感じてしまった。とはいえ、この二人の女の同性愛が決して精神的なきれい事で始まったのではなく、動物的な性的欲望から始まったということを言いたかったことは、じゅうぶんに伝わってくる。
 スター街道の途上にあるレア・セドゥのカリスマ性もさることながら、本作の最もすばらしい点は、ヒロインのアデルを演じたギリシャ系フランス人の新人女優アデル・エグザルコプロスが醸す兇暴なまでのプリミティヴさであろう。映画の前半で彼女は、パスタをむさぼり食いつつ校内で喫煙ばかりしている、労働者階級出身のドキュン女子高生として現れて、野生児のような粗暴さがかえって見る者を惹きつける。映画の後半では一転、幼稚園の温かく美しい保母に成長しており、荒々しいヘアスタイルはそのままでも、メランコリックな孤立を際立たせている。このメタモルフォーゼがこの映画の主題だと言っても過言ではない。
 ただし、《トマトのパスタ=労働者階級、生牡蠣=インテリ階級》といった描き分けはあまりにも図式的で、この図式性が『最強のふたり』と同レベルなのはいただけない。ヒロインが百合族の仲間入りをしたことが判明すると、高校の仲良しグループが急にヒロインをパージする描写のコンサバさも、どこか『最強のふたり』に似かよっている。


ヒューマントラストシネマ有楽町(東京・有楽町イトシア)ほか全国で順次公開
http://adele-blue.com

『テルマエ・ロマエII』 武内英樹

日, 05/04/2014 - 00:42
 『テルマエ・ロマエ』の続編がなぜ製作され、公開されるのか? 前作がちゃんと儲かったからであろう。私が2年前に拙ブログでこの作品に言及する際、作品名を表題とせず、「ローマの風呂について」という抽象的な表題としたのは、「この作品を相手にせず」という意地があったのではないか、と今になっては思うのである。
 と同時に、上のブログ記事にも書いたことであるが、私は幼少期から、テルマエらしき浴場につかる夢を数えきれぬ位の回数見てきた、という問題がある(もうひとつたくさん見た夢は、雪の日、囲炉裏のそばで座っている「週刊新潮」の表紙のような切り絵の夢である)。
 映画に登場するテルマエはいずれも室内であるが(そしてそれは映画製作スタッフ、原作者の調査に基づく歴史的真実なのかもしれないが)、私が(夢で)体験したテルマエはつねに露天風呂である。ぬけるような快晴の青空のもと、白い石造りの広大な風呂が見渡すかぎりにあり、そこの快適な湯につかるのは、私だけではない。美しい女たちも湯につかっているが、私も彼女たちも全裸ではなく着衣のまま湯につかり(あのローマ独特の袈裟みたいな、ゆるりとした衣装)、談笑しながら、彼女たちはときどき私に葡萄の実やワインを口に入れてくれる。そして湯船のそばのプールサイドのような平地では、ときにハープ奏者がおだやかな楽曲を演奏してくれている。
 今回の新作『テルマエ・ロマエ?』でもどうしても抱かずにおられぬ欲求不満、それが以上のような、テルマエに対する圧倒的な充足感なのである。主人公のルシウス(阿部寛)が群馬県草津温泉の温泉につかるシーンで見せる充足の表情が、この映画のクライマックスだろう。ローマ帝国の権力闘争がらみや、タイムパラドックスの修正に奔走する後半クライマックスは、前作同様マーケティング的な意味で必要なのかもしれぬが、私には不快な蛇足に思える。
 もっと、入浴が醸す究極の充足感、いけないほどのエピキュリスム──ああいう、私が夢の中で抱いてきた絶頂的感情──を映画にできないものか。ローマの風呂を映画化する、というのはじつに羨ましいが、であるからこその欲求不満を、このシリーズに感じてやまない(あらたな温泉リゾートを開発するという今回の構想には賛同する点多し、その点で言うと今作は筆者の主張をそれなりに叶えようとしてくれている)。ここに書いてきたことは、ほとんど言いがかりに過ぎないけれども。


TOHOシネマズ日劇、TOHOシネマズ日本橋ほか全国で公開
http://thermae-romae.jp/

『男として死ぬ』 ジョアン・ペドロ・ロドリゲス @THE LAST BAUS/爆音映画祭

水, 04/30/2014 - 15:41
 ジョアン・ペドロ・ロドリゲスの『男として死ぬ』(2009)がTHE LAST BAUS/爆音映画祭で上映された。主人公は、ポルトガルの首都リスボン在住のドラッグクイーン、トニア(フェルナンド・サントス)。その恰幅のいい肉感は、在りし日のディヴァイン、あるいは、肉乃小路ニクヨをイメージさせる。
 「トニア」という名前は、主人公の男性時代の本名「アントニオ」を女性形に変化させた「アントニア」の略称である。「アントニオ」のばあい「トニ」と呼ばれることが多い。語尾変化によって名前が変わると同時に彼自身もまた女として生きようとして、妻も息子も捨てた。みずからを鬼畜として位置づけているらしい彼(彼女)は、非常なる諦念と共に生きている。つまり、自分は幸福のうちに死ぬことを許されぬ存在であると。いっぽうで彼(彼女)は出来の悪い息子たちをいつも心配しては鬱陶しがられ、結局は子どもたちの不始末の尻ぬぐいに精を出すはめに陥るお母ちゃんでもあって、いわばヘンリー・キング『ステラ・ダラス』(1925)、プドフキン『母』(1926)から連綿とつづく母ものメロドラマ(Maternal melodrama)の系譜につらなる。実の息子ゼ・マリアは殺人を犯し、同棲相手のロザリオは薬物依存症、ヌバ族出身の店の若手ジェニーは店の看板スターの座を伺う邪魔な存在である。母にとって、子どもたちは頭痛の種でなければならない。
 爆音上映によって、つねに苛立っている登場人物たちが物を乱暴に置く音、突如として発砲されるライフル、バタンと閉められる扉、主人公トニアがつとめるゲイ・バーの陳腐なダンスミュージック、薬物依存症のロザリオによる破滅的な自動車運転エトセトラ、エトセトラ──この映画の音響的な兇暴さが明るみに出た。不断にとげとげしい世界と素肌で無防備に接しあっている主人公の魂に、幸あれと祈りたいと思う。


吉祥寺バウスシアター(東京・武蔵野市)の《THE LAST BAUS/爆音映画祭》で上映
http://www.bakuon-bb.net

春で朧の京都で、溝口健二の時代考証を担当した甲斐庄楠音の絵を見る

木, 04/24/2014 - 18:55
 2009年、文藝春秋の子会社である求龍堂から、甲斐庄楠音(かいのしょう・ただおと 1894-1978)の画集『ロマンチック・エロチスト』が出版されたとき、これはすごい画集だと思った。酒井抱一にしろ池大雅にしろ、あるいは松岡正剛『千夜千冊』にしろ、求龍堂の出版活動には度肝を抜かされることが少なくないが、『ロマンチック・エロチスト』はその中でも指折りにやばい部類に入る。
 うす気味悪い女たちの肖像画がこれでもかこれでもかと掲載(美しいのもあれば醜いのもある)されているのに留まらず、画家みずからが女装して自己陶酔しきった写真もたくさん掲載されている。中には、それなりに色っぽく撮れているものもあるが、見るに堪えない代物もある。果ては彼のスクラップブックもスキャンされて掲載されているが、最後の方はエロ本からの切り抜き帖といった体だ。

 そんな甲斐庄の作品を初めて実見する機会があると聞いて、春爛漫の京都に飛んだ(左京区岡崎の京都国立近代美術館)。上記画集に掲載の絵たちが、私の眼前にものすごい轟音を奏でながら屹立している。日本におけるデカダンの極致と私が位置づけたいのは次の二人──この甲斐庄楠音と、それから冷泉為恭(れいぜい・ためちか 1823-1864)である。後者の為恭のばあい「冷泉」などと名乗っているが、これは冷泉家(藤原定家の末裔)に無断で勝手に名乗ったに過ぎない。しかし為恭は、幕末に尊攘派の志士に暗殺されるというバイオグラフィによって、京都文化史にあやしげなデカダンを振りまくことに成功したのである。
 楠音と為恭、両者に相通じるのは、近代の荒波にあってもなお、公家文化の雅に染まりきっている点である。そしてそれは当時においてすら、もはやフィクショナルかつ擬態的なものであった。冷泉為恭については、遅かれ早かれどこかに書くことになるだろう。

 私たち映画ファンにとって甲斐庄楠音という存在は、画家としてよりも、溝口健二や伊藤大輔ら京都の映画作家たちのために風俗・時代・衣裳考証をつとめた人物として名高いだろう。映画界における30年のキャリアが甲斐庄の美術家としての生命を台無しにしたという評価もあるが、『雨月物語』(1953)ではアカデミー衣裳デザイン賞にノミネートされている。溝口健二の『歌麿をめぐる五人の女』(1946)で、主人公の喜多川歌麿と狩野派の絵師が、絵のテクニックの果たし合いをする場面があるが、ここで戦いの小道具として描かれる観音像は、まぎれもなく甲斐庄の手になるものだ。
 甲斐庄と溝口のなれそめは1939年の『残菊物語』だったそうだが、そこで描かれた上方歌舞伎の非情なる世界こそ、甲斐庄が最も自家薬籠中のものとしていた宇宙ではなかったか。


京都国立近代美術館《生誕120年 甲斐庄楠音特集》は5/11(日)まで開催
京近美コレクション・ギャラリー平成26年度第1回展示
※今春の京近美のコレクション・ギャラリーは、一粒で何度もおいしい展示となっていてオススメです。まずエルンストとピカビア、ふたりのダダイストの絵を同館が新規購入したということでお披露目しています。そして次にこの甲斐庄楠音レトロスペクティヴ。都築響一〈着倒れ方丈記〉も非常にアクチュアルで面白いコーナーでした。これは京都というよりきわめて東京的な展示です。そして《チェコの映画ポスター》展。ミロシュ・フォルマン、ヴェラ・ヒティロヴァーといったチェコ映画に留まらず、アメリカ映画、ヌーヴェルヴァーグを当然含むフランス映画、そして日本映画のチェコ版ポスターを見ることができるのですが、それらはいずれもデザイン的におそろしく秀逸です。ブレッソン『やさしい女』のポスターは美術作品としても一級品だと思います。

『サンブンノイチ』 品川ヒロシ

火, 04/22/2014 - 14:23
 世の中には、伊藤俊也の『ロストクライム 閃光』であるとか角川春樹の『笑う警官』のような、なぜこんなものが作られてしまったのか見当もつかない、おそろしく無惨なる愚作というものが厳然と存在してしまうから、一人前の映画ファンの定義のひとつに、少々の駄作、凡作を見たくらいでうろたえたり、金を返せなどとヒステリーを起こしたりしない耐性を身につけた者たち、ということがあるのではないか。そして、その伝で言うなら『サンブンノイチ』は大丈夫なのではないか。
 金庫破り、銀行強盗の映画と聞いて、映画をまともに見てきた人なら、前田陽一の『三億円をつかまえろ』(1975)くらいのレベルのものを期待する権利はある。ところが驚くべきことに、『サンブンノイチ』では金庫破りも銀行強盗も描かれていないのである。いや、申し訳程度に描かれていたような気もするが、正直もう憶えていないというレベルである。
 犯人三人組のアジトであるキャバクラの店内で、三人組──藤原竜也、小杉竜一、田中聖──が札束の分け前をめぐって化かし合いをする。そして、このズッコケトリオ結成のいきさつがフラッシュバックされる。それがどうやらこの映画の本筋らしい。「人生の一発逆転をかけた大バクチ」などというふれ込みで藤原竜也が登場すると、『カイジ』『カイジ2』の続きを見ているかのような既視感がある。
 「窪塚洋介演じるイカれたヤクザが突然シネフィル批判を始めたところでマジでドン引き」とgojoさんが書いているが、まったく異存なしである。作者の感覚はずれてる。
 珍しく川崎の風俗街・堀ノ内がメイン舞台になっていて、猥雑な空間にスポットが当たることがどんどん減っているから興味津々だったが、あまり街の空気が伝わってこなくてもったいない。


角川シネマ新宿(東京・新宿文化ビル)ほか全国公開
http://www.sanbunnoichi.jp

『キャプテン・アメリカ ウィンター・ソルジャー』 ルッソ兄弟

土, 04/19/2014 - 22:22
 マーベル・コミックの映画化『アベンジャーズ』(2012)は総花的で、さして感興を呼ばなかったが、今回の新作『キャプテン・アメリカ ウィンター・ソルジャー』の頑張りには快哉を送る。前作から引き継がれたキャラとしては、今回の主人公キャプテン・アメリカ(クリス・エヴァンス)のほか、ウィンター・ソルジャー(セバスチャン・スタン)、ブラック・ウィドウ(スカーレット・ヨハンソン)、ニック・フューリー長官(サミュエル・L・ジャクソン)、ペギー・カーター(ヘイリー・アトウェル)、マリア・ヒル(コビー・スマルダーズ)、ゾラ博士(トビー・ジョーンズ)など多数で、私のような不真面目な観客にはいちいち把握できない。今回はアイアンマンもハルクも登場せず、したがってグウィネス・パルトロウもお休みであるという点が、淋しいといえば淋しい。それだけにいっそうスカーレット・ヨハンソンの性的魅力がクロースアップされるしくみだ。
 スカーレット・ヨハンソン扮するブラック・ウィドウは、秘密文書提出のシーンでも分かるように、ウクライナ人だ。これもまた、現代の紛争地図からするときな臭い。ブラック・ウィドウの本名ナターシャ・ロマノフから言って、おそらく彼女はウクライナ人ではなく、ウクライナ領内のロシア系住民の出身ではないだろうか。しかもロマノフという苗字は、帝政ロシアの皇室の姓である。
 今回作品に緊張感をもたらすのは、「世界の警察」の自称をいまだ捨てないアメリカ合衆国が、全世界に向けてテロリストの予備軍となりそうな人物像2000万人をあらかじめあぶり出し、衛星空母からその人たちを一斉に狙撃するシステムを作りあげるという想定のためであろう。この映画を見てテロリスト候補2000万人などという膨大な数字を出されると、私自身が当たり前のごとくそれに該当してくるという気がしてしかたがないし、この計画を阻止しようと内ゲバを開始する主人公キャプテン・アメリカをひたすら応援したくなるのである。アメリカの国防システムがナチスの残党「ヒドラ」(映画内では「ハイドラ」と発音されていた)に乗っ取られているという壮大な陰謀論は、あながち突拍子もない設定ではない。


TOHOシネマズ日本橋、丸の内ルーブルほか全国で上映
http://studio.marvel-japan.com/blog/movie/category/captain-america2

『フルートベール駅で』 ライアン・クーグラー

木, 04/17/2014 - 16:16
 アカデミー作品賞受賞の『それでも夜は明ける』と同じく、『フルートベール駅で』も黒人差別をめぐる実話である点が大きい。1841年の南部プランテーションで主人公は奴隷として扱われ、2009年ベイエリアの主人公は鉄道の公安部隊に無意味な発砲を受けて死亡する。この間の時差は170年近いが、文明は思ったよりも進歩していないことが分かるだろう。ベイエリア高速鉄道(BART)フルートベール駅のプラットフォーム上で主人公は訳の分からぬまま撃たれてしまうのだが、彼の一日が親密な日記のように展開される。
 主人公がスーパーの食肉係を解雇されたこと、きょうが大晦日だからサンフランシスコ湾でのカウントダウンイベントを見に行こうと計画していること、実家の忘年会に出席して母親から「道路の渋滞がひどいので電車で行ったほうがいい」と諭されること、妻の姉に預けた幼い娘が不安そうな表情で両親の夜遊びを見送ること、ラッシュ状態となっている帰りの電車で、昼間に親切にしてあげた白人女性に再会して声をかけられること、そしてたまたま同じ車輌に乗り合わせ、彼の名を呼ぶその女の声を聞いた彼の敵対グループが彼に気づいてしまうこと、エトセトラエトセトラ。
 まさに運命の、偶然の戯れが、主人公の死を手繰り寄せてしまうという描写をさりげなく案配して、気の毒な主人公を私たち観客全員が悼むように作り込んでいる。病院の手当も空しく絶命した主人公の体を前に、母親はこう嘆くのだ。「私が電車で行けと言いさえしなければ!」
 本作のうまいのは、主人公も無傷の存在ではないことを示している点だ。つまり彼がかつてはヤクの売人で、懲役刑に服したこと、更正した現在も寝坊と遅刻の常習犯で、悪友たちですらそのことに呆れていることなど。
 『ロッキー』(1976)という三流ボクサーのシンデレラストーリーがあったが、あの映画が頭脳的だったのは、試合が主人公の判定負けに終わるという点だ。それでもロッキー夫婦はリング上で幸福の絶頂を味わい、しかも判定負けというグレーな決着が絵空事じみたストーリーにどことなくフェアな印象を持たせることに成功したのだ。この『フルートベール駅で』も、主人公のネガティヴな部分を克明に描くことによってロッキー効果をもたらしている。


ヒューマントラストシネマ有楽町(東京・有楽町イトシア)ほか全国で順次上映
http://fruitvale-movie.com

『セインツ 約束の果て』 デヴィッド・ロウリー

日, 04/13/2014 - 21:39
 『セインツ 約束の果て』を見ているうちに、冒頭から作品のふところへと誘いこまれ、からめ捕られていく感覚に襲われる。
 良からぬ稼業で生計を立てているらしい若い夫婦が、テキサスの広大な荒れ地の中を歩きながら口げんかしているシーンで幕を開ける。歩くふたりの輪郭は日没前の低い逆光を受けて、にぶい輝きを帯びている。「実家へ帰る」と吐き捨てながら足早に歩いて行く若妻(ルーニー・マーラ)の機嫌をなんとか直そうと、夫(ケイシー・アフレック)は必死に求愛の言葉を繰り出しながら彼女に追いすがる。妻の口から妊娠の事実が告げられ、それがきっかけとなってこのシーンはいっきに雪解けとなるが、彼らふたりの心理的推移は、逆光の影の中からもはっきりと見て取ることができる。
 早朝、夕方、真夜中といった時間のロケーションを多用しながら、ぜいたくとしか言いようのない停滞が画面をじわじわと活気づけ、ピカレスク・ロマンと西部劇の中間地点で酔わせてくれる。
 出産前の最後の仕事でしくじり、刑務所に入った男は数年後、愛する妻とまだ見ぬ娘に会いたい一心で脱獄をはかる。彼は一目散に妻と娘の暮らす住居を訪ねるかと思いきや、ペナルティエリアの外で留め置かれる。そして、親友である黒人(ネイト・パーカー)が経営するバー(このバーがさすがテキサスで、黒人が経営しているとは思えぬ、カントリー&ウエスタンなサルーンの趣きなのだ)の2階に匿われながら、自分と妻の育ての親(キース・キャラダイン)のもとへ面会に訪ねたりしているのみだ。ケイシー・アフレックとルーニー・マーラとのはざまには、目に見えぬ不可侵ラインが引かれているのだろう。このラインの苛酷すぎる引かれ方に、それを見る私たちは戦慄と哀切を感じるほかはないのである。
 35mmのフィルム撮りとのことだが、惜しむらくはブルーレイ上映であるため、シネマート新宿の小さい方のハコでさえ、画質がきびしい。もう少し良質な素材で見たかった。


シネマート新宿(東京・新宿文化ビル)ほか全国で順次公開
http://www.u-picc.com/saints/

『ローン・サバイバー』 ピーター・バーグ

水, 04/09/2014 - 15:13
 アメリカ海軍の特殊部隊ネイビーシールズが、アフガニスタンの山地でタリバンの幹部を暗殺する計画を実行し、ひょんな運命のいたずらから作戦が無惨に失敗していくさまを、単調さということをまるで恐れていないかのごとく、夥しいカットを畳みかけながら辿っていく。
 どちらかというと軽薄な作風が魅力と言えば言えなくもない作り手であるピーター・バーグだけに、受け手としては、画面に漲る生真面目な緊張感に対して眉に唾をつけたくなるのが人情ではないだろうか。本作でタフな隊員を演じたベン・フォスターとは、本作を見た一週間後、愛すべき作品『セインツ 約束の果て』で再会することになる。マイケル・チミノ『ディア・ハンター』のロバート・デ・ニーロばりにあご髭をたくわえつつ、夫不在の母子家庭にしけ込む警官を演じていたのだが、これには、なにやら知り合ったばかりの友に、予想せぬ場所で再会してしまったかのような感慨をもよおした。
 この『ローン・サバイバー』を強力に定義づけるのは、『シン・レッド・ライン』や『父親たちの星条旗』と同様、山地での軍事行動に避けられぬ斜面という空間性が突きつける恐怖である。銃撃戦にしろ、追撃にしろ、斜面においては上側の軍にくらべて下側で退却を余儀なくされる軍は、圧倒的な不利で悲惨な敗戦を強いられる。ネイビーシールズはこの斜面の下側で退却に次ぐ退却を続けるほかはなく、それがこの映画がやっていることのすべてと言っていい。
 彼らは下から上に向かって抗戦することで、重力の受難を甘受しなければならないし、一足跳びの敵前逃亡を図って崖から飛び降りるという無茶な作戦を実行すれば、当然彼らの身体は深刻なダメージを被る。おそらく、笑っては失礼だが、アメリカ海軍の訓練メニューには、絶体絶命の事態において高所からの飛び降りというものも含まれているのであろう。


TOHOシネマズ日本橋(三越前)、シネスクとうきゅう(新宿歌舞伎町)ほか全国で公開中
http://lonesurvivor.jp