ニュースアグリゲータ

『ブルージャスミン』 ウディ・アレン

荻野洋一 映画等覚書ブログ - 日, 06/01/2014 - 21:06
 小林信彦が『ミッドナイト・イン・パリ』をけなして『ローマでアモーレ』を良しとするのは、この人の “アレン・ウォッチャー” としての自己韜晦が過剰に表出した結果としての言いがかりに過ぎないのではないか、というふうにだいぶ割り引いて取る必要がある。たしかに、アレン本人が出演しているかいないかは依然として大きいものがあり、『ローマでアモーレ』ではアレン本人が脇役ながら登場して、ローマへの飛行機の中で墜落への恐怖で年甲斐もなく動転してみせるなどというシーンが挿入されるだけで、見ているこちらも得したような気分になる。ひるがえって、オーウェン・ウィルソンが演ろうがケネス・ブラナーが演ろうがショーン・ペンが演ろうが、ウディ・アレンが自己の分身をほかの俳優に託した場合、それはあくまで擬態としての限界体験を出るものではないのである。
 しかしながら、仮にアレン本人が出ない場合でも、今回のケイト・ブランシェットのように女優が彼の代わりに、世界の苛酷さと接しあうとなると、がぜん凄味、苦味が増すのは、中期の『アリス』(1990)、『私の中のもうひとりの私』(1989)を思い出させる。女性のアイデンティティ・クライシスを扱うにあたり、ケイト・ブランシェットという高慢を絵に描いたような女優の出演は、本作にいつにも増した力をもたらしているのは明らかだ。
 本作を見てカサヴェテス映画におけるジーナ・ローランズを想起するのは決して間違いではないが、その前に出るべき名前は、『欲望という名の電車』『渇いた太陽(青春の甘き小鳥)』『しらみとり夫人』で、セレブ気どりのいけ好かない女たちの滑稽さ、俗物ぶりを描かせたら右に出る者のいなかった、テネシー・ウィリアムズの名前でなければならない。彼女のジャスミン・フレンチという名前の軽薄さは、いわばテネシー・ウィリアムズの戯曲『欲望という名の電車』における、上流階級の高慢さと虚栄心が抜けきらず、庶民的な妹やその粗暴な夫から忌み嫌われるヒロイン、ブランチ・デュボワの似非フランス風を多分に継承しているだろう。
 トルーマン・カポーティ原作『ティファニーで朝食を』のホリー(オードリー・ヘプバーン)や、F・スコット・フィッツジェラルド原作『華麗なるギャツビー』のデイジー(ミア・ファロー/キャリー・マリガン)といった、セレブ気どりで虚栄心まみれの女たちを、アメリカの20世紀は飽くことなく描いてきた。『ティファニー』も『ギャツビー』も、冷静な作者の分身(まだ世に出ていない無名のライターという立場)が登場して、彼女たちの生きざまをちゃんと見届けてくれていたわけだが、『欲望という名の電車』のブランチ・デュボワにも、そして今回の『ブルージャスミン』のジャスミン・フレンチにも、そうした一部始終を見届けてナラタージュ構造に包摂してくれる存在があてがわれていない。情け容赦がないという点で、ブランチとジャスミンは同じ状況下に置かれているのである。


シネスイッチ銀座(東京・銀座四丁目)ほか全国で上映
http://blue-jasmine.jp

2014-06-01

『建築と日常』編集者日記 - 土, 05/31/2014 - 15:00
前田英樹『ベルクソン哲学の遺言』(岩波書店、2013)をぱらぱらとめくってみたものの、やはりベルクソン本人のテキストを読んでいないと無理がある。それでもところどころ響いてくる個所はあった。たとえば下記の文。これは僕にとっては篠原一男と坂本一成の関係を考えると実感を持ちやすい。もちろんお二人は師弟関係なので、師匠から弟子への影響というのは無視できないけれど、坂本先生自身がその影響を確信的に語っておられることもあって、どうも一般にはその影響関係および時代の移り変わり(篠原[の時代]がこうだったから坂本[の ...

『チョコレートドーナツ』 トラヴィス・ファイン

荻野洋一 映画等覚書ブログ - 金, 05/30/2014 - 15:46
 ゲイ・カップルが、親に見放されたダウン症児を引きとって幸福な家庭を築くが、世間の無理解に遭って法廷闘争に巻き込まれていく、という実話を元にしたストーリー。舞台は1979年、カリフォルニア州ウェスト・ハリウッド。70年代末という時代設定ゆえか、同性愛に対する無理解と偏見の描写は、失笑と義憤をもたらしてやまない。なおこの前年の78年には、同州のサン・フランシスコで、ゲイ運動の指導者ハーヴェイ・ミルク市議が暗殺されている。
 最近も『アデル、ブルーは熱い色』を見て、フランスの作家映画においてさえ、ヒロインの女子高生がレズビアンであることが判明すると、級友たちから一斉に「エンガチョ」扱いされる描写があって、その未開性にびっくりさせられたのだが(欧米ではとっくに認知されたものだと考えていたから)、われわれ日本人がとりわけ未開であるだけでなく、『最強のふたり』の白人/黒人の描き分けの古色蒼然を見ても分かるように、世界全体は思ったより変わっていないし、進歩してくれてもいない。なにしろUEFAは依然として「Say No to Racism」をスローガンに掲げざるを得ないのである。
 本作でダウン症児を育てようと奔走するゲイ・カップルのうち、片方はドラァグクイーンだからわかりやすい人物像だが、もう片方がカリフォルニア州の検察局に務める法律家である。彼はゲイであることが露見するとすぐに検察局から解雇されるが、さらに追い打ちをかけるように養育権取得法廷に対しておせっかいな横やりを入れてくる元上司が出てくる。この元上司を演じたクリス・マルケイという役者がなんとも、保守反動を絵に描いたようなツラ構えで、時代は遡るが、1940〜50年代の赤狩り時代に告げ口した人間たちの末裔という匂いをプンプン漂わせるのだ。
 このように本作は、1970年代末を描いた2010年代の映画だが、寒々しさ、暗さ、反動への憤怒、そして97分という上映時間、抒情性のなさ(主人公たちへの憐憫ゆえに、本作上映中の劇場内は観客のすすり泣きが響きわたるが、画面内の描写はさして湿り気を帯びていない)は、まるでフィフティーズの映画を見ている感触である。ただし、もう少しシネフィリックな手応えがあってもよかったし、その点はやや心残りである。


シネスイッチ銀座(東京・銀座四丁目)ほか全国順次公開
http://www.bitters.co.jp/choco/

2014-05-31

『建築と日常』編集者日記 - 金, 05/30/2014 - 15:00
最近DVDなどで観た映画。ヴィクター・フレミング『オズの魔法使』(1939)、ウィリアム・ワイラー『ローマの休日』(1953)、ウディ・アレン『恋のロンドン狂騒曲』(2010)、北野武『アウトレイジ ビヨンド』(2012)。 前2作はたいへん有名な作品ながら、これまで観るきっかけがなかった。それが『オズの魔法使』はたまたまBSで放送していて、『ローマの休日』は例の講義(バロックの回)で紹介しようと思って、それぞれ観ることになった。きっかけがなかったというのは、僕になんらかの先入観があって、あまり積極的 ...

2014-05-29

『建築と日常』編集者日記 - 水, 05/28/2014 - 15:00
テレビの大相撲中継を観ようとして、ある人がその日の解説をしていると、音声を消して観たほうがましではないかと思うほど残念な気分になる。とはいえやはり行司の声や力士がぶつかる音やお客の歓声などまで消えてしまうのは惜しいから、結局は音を消して観ることはしないのだけど、その代わり取組のあいまにその人がしゃべり出したとき、反射的にチャンネルを替えるということは間々ある。 残念な気分になる原因は、その人がする話の底の浅さであり、そこから透けて見えるその人自身の底の浅さである。大相撲中継の解説者はみな元力士だから、 ...

黒眼帯の人は誰?

荻野洋一 映画等覚書ブログ - 水, 05/28/2014 - 10:09
 さっき、箱崎エアターミナル(東京・日本橋箱崎町)で、黒眼帯をつけた初老の男性とすれ違った。これが初めてではない。このあたりの夜道で何度となく出くわし、地下鉄丸ノ内線の車内でも見かけたこともあり、銀座の四丁目交差点でも会ったこともある。フォード、ウォルシュ、ニコラス・レイばりの黒眼帯を、コスプレ的にではなく日常的に利用している人は、この大東京でもめったに見ない。おそらく、本当に独眼なのだろう。
 しかし、そういう物珍しさもさることながら、ジャケット、シャツ、時には紐ネクタイなど、着こなしの洒落た感じが尋常ではなく、間違いなくただ者ではあるまい。と言っても、やくざというのではない。もっと、なんというか、ジャズ評論家か何かかしら?とも考えたりする。ジャズ評論家という人と親しく接していないので、勝手なイメージで言っているだけである。ただ、たいがいはディスク・ユニオンの例の黒地に赤文字のビニール袋(それも12インチのLPサイズの袋)を小脇に抱えている。そんな初老男性はただ者ではないだろう。
 この男性のことを、いくつかの場で話したことがある。私は交友には恵まれていて、何か疑問や不明点があっても、たいがいは誰かの知識なり調査なりのおかげで解決できてしまう。物知りの知人に囲まれた──まるで百科全書の森に抱かれて生きているかのような──果報者の人生を、一度きちんと感謝せねばならない。しかしながら、わが百科全書たる知人友人たちをもってしても、その黒眼帯の男が何者なのか、いまだ判明し得ていない。「こんど会ったら、挨拶しちゃえばいいじゃん」「え」「なんなら荻野さんの知り合いに加えちゃったらどう?」
 残念ながら先ほどの邂逅の際には、声をかける勇気が湧かなかった。エアターミナルの長い廊下で、私はまたしてもなすすべなく、その姿を目で追うことしかできずに終わった。先方もトイレに向かっていくようだったし、仕方あるまい。また次もあるだろう。こんなに何度も会ったのだから。

2014-05-28

『建築と日常』編集者日記 - 火, 05/27/2014 - 15:00
例の講義も第5回まで終わった。未だにぜんぜん慣れない。途中、すこし観念的に入り組んだような話があると、うまく喋れずに言い淀んでしまったりする。たぶん文章で書けばなんてことはない内容だし、3〜4人くらいの会話でもそれなりに無理なく話すことができると思う。しかし大人数を前にして、相手方の呼吸がつかめないような場所に身を置くと、どうにも居たたまれない気分になってきて、自分が発する言葉から実感が失われていってしまう。それは裏を返せば、そこで話そうとしていることは、他のいわゆる教科書的な内容と違って、自分で実感 ...

2014-05-27

『建築と日常』編集者日記 - 月, 05/26/2014 - 15:00
雨上がりの庭。窓辺にいて物音がして、猫かと思って見ると蛙だった。

『そこのみにて光輝く』 呉美保

荻野洋一 映画等覚書ブログ - 日, 05/25/2014 - 18:34
 函館という街の地図が、この映画によって更新されている。郊外のバラック小屋、陋巷の中の安アパート、昭和の特飲街にあったようなちょんの間etc. 北の町の冬ではなく、夏の海水浴を照らす鈍いきらめき。今まで函館を映した映画史におけるどの函館ともまったく異なる表情を、この映画の函館は見せている。
 とはいえ、あらゆる事象がリアリズムのもとで描かれているように見えて、しかしああいう底辺の環境というものが、どこかメルヘンとも取れてしまうのは否定しようもなかった。悲惨な境遇の女(池脇千鶴)と、仲間の死をトラウマとして抱える男(綾野剛)。一組の男女が宿命的に出会うための装置として、彼らの境遇がしつらえられている。この点はどうなのだろう? 脳梗塞で寝たきりの父や前科一犯の弟(菅田将暉)を抱え、困窮する一家を支えるために、池脇千鶴はちょんの間で1回8000円の売春婦として働き、妻子持ちの造園業者(高橋和也)の2号をつとめ、あまつさえ寝たきりの父の性欲処理まで買って出ている。一観客としては実生活でここまで困窮したこともないし、底辺で清濁併呑の暮らしにやつしたこともないから、もうひとつリアルさの程度をつかみかねた。
 しかし、設定描写への疑問とは関係なく、池脇千鶴と綾野剛の最初の出会いシーンで交わされる視線は、純粋にいいラブシーンになっている。これ見よがしの理由づけはないし、テレビ局映画のような視線の美学化もない。いったん視線が交わされ、そしてそのすぐあとは不機嫌さと視線の停滞がある。池脇千鶴のつくったひどく不味そうな炒飯をみんなで食べて(料理なんていっさいできない女という設定なのだろう。いやそれどころか、この映画には食べ物の味なんかに関心をもつ登場人物は、火野正平くらいしか出てこない)、そのあと綾野剛が(女の感情を試すかのように)庭に出て、植物なんかを眺めるフリをする。そうすると池脇千鶴が男の淡い期待に応えるでもなく家から出てきて、一緒にそぞろ歩いたりする。ラストでも反復されるこの海岸での緩慢な道行きが、この男女にとっての至福の時空間であることが、見る者にははっきりとわかるだろう。


テアトル新宿(東京・新宿伊勢丹裏)ほか全国で順次公開
http://hikarikagayaku.jp

2014-05-25

『建築と日常』編集者日記 - 土, 05/24/2014 - 15:00
最近VHSで観た映画。ジャン・ルノワール『黄金の馬車』(1953)、ホン・サンス『豚が井戸に落ちた日』(1996)。『豚が井戸に落ちた日』はホン・サンスのデビュー作。洗練されない感じはあるけれど、ホン・サンスは最初からホン・サンスだった。

【出版告知】『演劇・映画図書総目録2014-2015』(演劇図書総目録刊行会)

革命の日の朝の屑拾い日記 - 土, 05/24/2014 - 03:56

今年も『演劇・映画図書総目録2014-2015』(演劇図書総目録刊行会)に巻頭エッセイ「2013年の日本映画界」を執筆しております。書店で入手可能です。 参考までに、言及している映画のタイトルだけ抜き出しておきましょうか。『風立ちぬ』『永遠の0』『なみのおと』。

2014-05-24

『建築と日常』編集者日記 - 金, 05/23/2014 - 15:00
藤本壮介さん設計の《T house》(2005)を訪問。群馬県前橋市。住人であるご家族4人を実行委員会とする「場所・T house」プロジェクトの第1回として、先々週から今週まで、週末限定で白川昌生展が開かれている。今後も1年に1回程度は企画をしていきたいとのこと。 私たちの家が豊かでなければ、 私たちの街は豊かにならない。 私たちが豊かでなければ、 私たちが出会う人と豊かな関係を築けない。 地域の豊かさに気づかなければ、 世界の豊かさを知ることはできない。 ───「場所・T house」宣言より ...

『アメイジング・スパイダーマン2』 マーク・ウェブ

荻野洋一 映画等覚書ブログ - 木, 05/22/2014 - 22:34
※本記事には、明瞭にではないにせよ、物語の核心に多少触れている点がありますのでご留意ください。
 スパイダーマンは多分にニューヨーク的な存在だろう。多少なりとも昆虫の能力を得て超人的に振る舞いつつも、スーパーマンのように大空を自由気ままに飛び回るというわけにはいかず、彼は手首から発射する蜘蛛の糸を命綱にしながら、重力という桎梏からヨーヨーの要領で限定的に離反していくのだ。彼はぶら下がり、張力と遠心力によってみずからの身体を中空に投げ出し、飛距離をダイナミックにゲインする。映画はそのゲインを画面に収めるかぎりにおいて、躍動感を維持することができる。
 スパイダーマンには、摩天楼のビルとビルの谷間がぜひとも必要である。彼は壁面に蜘蛛の糸を張りめぐらしながらジャンプ一番、飛び回り、ビルの窓を吸盤のような手の平で駆け上がってみせる。広大なオープンスペースほど、彼に似合わぬ場所はない。また、そうした場所に敵も存在しない。
 今回の作品に関して言うなら、敵はあくまでスパイダーマンをマン・ツー・マンでマークする者ばかりである。スパイダーマンが図らずも敵を作りだし、スパイダーマンの周囲でのみ敵が暴れてみせる。敵たちは悪さをする際でさえ、スパイダーマンによる承認が必要なのである。スパイダーマンは、彼ら敵を元来は敵だと思っておらず、できれば彼らの弱々しいメンタルを手助けしたいと思っているが、敵方の要請によって不承不承に敵として承認してやっているに過ぎない。したがって、この『アメイジング・スパイダーマン2』には、物語を推進するだけのモチベーションが欠けているのである。
 重力に対する抵抗。それだけが主人公の動力源である。そして、彼は最後の最後で、重力に敗れ去る。ヒッチコックの『めまい』か、ノートルダムのせむし男を下敷きにした、時計台のごとき細長い塔のセットイメージがしつらえられ、『めまい』のキム・ノヴァクのように、ブロンドの美女が落下していく。ジェームズ・スチュワートが見つめる下方の先には、虚無だけが、ガバリと口を開けているのみだ。


TOHOシネマズ日劇(東京・有楽町マリオン)ほか全国で上映
http://www.amazing-spiderman.jp/

『吉祥寺バウスシアター 映画から船出した映画館』@LAST BAUS渡辺進也

nobodymag journal - 水, 05/21/2014 - 05:44
 この本の後ろの方に「バウスシアター年間上映年表1984〜2014」という80頁の資料があって、バウシアターのオープンしてからのすべての上映作品が掲載されている。ぼんやりとこの資料を見ていると、僕が最初にバウスに行ったのは2001年5月の〈「降霊」劇場初公開記念・黒沢清監督特集〉が最初らしい。『地獄の警備員』とか『ワタナベ』とか見たなあと思う。  吉祥寺の近くに住んだことなどないから、僕がバウスシ...

2014-05-21

『建築と日常』編集者日記 - 火, 05/20/2014 - 15:00
キング・ヴィダー『摩天楼』(1949)をDVDで観た。個人の信念を貫く天才的建築家と、大衆迎合主義との対立。原作のアイン・ランド著『水源──Fountainhead』(1943)は例の講義の課題図書の1冊にあげているので(3月27日)、出題者として読まないわけにはいかないのだけど、A5版に2段組で1000ページ以上ある邦訳を開くタイミングがつかめず、とりあえず映画版を観てみた次第。 建築家を描いた映画として存在自体は学生の頃から知っていた。しかしレンタルショップにあまり置いていないこともあって、これま ...

オスカー・ミショー/アメリカン・インディペンデント

非ハリウッドの映画会社において、厳しい制作条件のもと、40本以上の黒人専用劇場映画を監督したオスカー・ミショー。その代表作を上映し、ハリウッドとは異なるもうひとつのアメリカ映画史に光を当ててみます。

『ウィズネイルと僕』 ブルース・ロビンソン @THE LAST BAUS

荻野洋一 映画等覚書ブログ - 月, 05/19/2014 - 15:26
 わが偏愛の一作のリバイバル公開を、ひとり孤独に祝いたい。1988年のイギリス映画『ウィズネイルと僕』、俳優ブルース・ロビンソンの監督としての長編第1作である。しかし、祝う、と言ったら語弊があるかもしれない。本作は吉祥寺バウスシアターの閉館イベント《THE LAST BAUS》の一環として、爆音映画祭の裏でひそかに掉尾を飾っているからだ。思えば本作を23年前の5月に見たのも、どうやらバウスだったらしい。私は勝手に渋谷桜丘時代のユーロスペースだったと記憶していたが、それは勘違いのようである。クロージング興行の一環として本作をセレクトしたバウスのスタッフの鑑識眼にも、ブラボーの快哉を叫びたいと思う。そして、「そんな過大評価な」という外野の声を、私は完全に無視するだろう。
 ブルース・ロビンソンといえば、まず俳優として、フランソワ・トリュフォー監督『アデルの恋の物語』(1975)でヒロインのイザベル・アジャーニが一方的に片思いするイギリス軍中尉を演じたことで記憶される。『ウィズネイルと僕』はロビンソンの自伝的映画であり、1969年ころのロンドンのカムデン・タウン、売れない俳優として、ルームメイトのハンサム俳優といっしょにアルコールとドラッグに溺れた自堕落な生活を、愛惜をこめてカメラに収めている。ラストシーンで主人公「僕」はオーディションに受かり、ぼろアパートを出て行く。うぬぼれ屋でわがままだが憎めないルームメイトのウィズネイルを置いて…。そして主人公が去ったあと、ひとり取り残されたウィズネイルが、誰もいないリージェンツ・パークで朗誦してみせるシェイクスピアが泣けるんだよ。ようするに、主人公がトリュフォー映画でアジャーニの相手役を射止める、その5〜6年前の物語ということになるのだろう。
 ブルース・ロビンソンにはじつは監督作として『ラム・ダイアリー』(2011)という新作もあって、しかもこれはジョニー・デップが主演であるにもかかわらず、ほとんど顧みられることなく公開を終えてしまった。この『ラム・ダイアリー』も内容的には『ウィズネイルと僕』とほとんど同じで、こちらは売れない俳優ではなく、デップ演じる売れないライターがプエルトリコに赴任してラム酒中毒になっていくというだけの物語である。もしあなたがブコウスキーの小説が好きなら、マルコ・フェッレーリ監督『ありきたりな狂気の物語』(1981)に登場するベン・ギャザラとオルネラ・ムーティが好きなら、『ラム・ダイアリー』もオススメしたい。
 ちなみに、『ウィズネイルと僕』はイギリスのハンドメイド・フィルムズ社の作品であり──つまり、故ジョージ・ハリソンのプロデュース作品である。だからこんな低予算の映画なのに、ザ・ビートルズの「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」が堂々とかかってしまう。イギリス映画に対するジョージ・ハリソンの貢献は、『モンティ・パイソン』『バンデットQ』を製作してテリー・ギリアムを見出したことや、『モナリザ』(1986)を製作してニール・ジョーダンを売り出したこと、あるいは『上海サプライズ』(1986)をプロデュースしてマドンナとショーン・ペンを出会わせたことに留まらないのである。
 『ウィズネイルと僕』という一篇のフィルムは、フランソワ・トリュフォー、ジョージ・ハリソンなどあらゆる固有名詞が跳梁跋扈する美しい星座のドまん中にある。


吉祥寺バウスシアター(東京・武蔵野市)にて5/31(土)まで
http://w-and-i.com

2014-05-20

『建築と日常』編集者日記 - 月, 05/19/2014 - 15:00
例の講義の第4回。西洋建築史が始まった。先週の見学会(5月13日)のあと、学生たちは篠原一男設計の《上原通りの住宅》(1976)も見学したらしく、《SHIBAURA HOUSE》(2011)、《蟻鱒鳶ル》(2005-)と合わせて3つのうちでどの建築がいちばん印象に残ったかを聞いてみた。関係者の方々に配慮して、結果は伏せておくことにする。 見学会で学生たちが撮影した写真をリンク先のサイトに載せました。今後も講義に関連して、なにかしらアップロードするかもしれません(しないかもしれません)。 建築・都市概 ...

2014-05-19

『建築と日常』編集者日記 - 日, 05/18/2014 - 15:00
事前に《雲野流山の家》(1973)の図面と写真を見ていて気になったのは、これも西洋建築史のことが頭にあってか、主室の4.5m角の正方形断面がどのように体験されるのかということだった。特にルネッサンスの建築では、単純な比例関係がこれでもかというくらいに用いられるわけだけど、その幾何学性が現実の空間にどう現れてくるのか、図面と写真を見るだけでは今ひとつ実感がない。しかし結局《雲野流山の家》では、正方形の幾何学性はほとんど感じられなかった。そもそも断面における正方形は平面や立面の正方形よりも知覚しづらいし、 ...

『革命の子どもたち』 シェーン・オサリバン

荻野洋一 映画等覚書ブログ - 土, 05/17/2014 - 20:29
 バーダー=マインホフ(ドイツ赤軍)のリーダー、ウルリケ・マインホフ。日本赤軍のリーダー、重信房子。このふたりの共通点は暴力革命を推進して指名手配となった点だけでなく、美女であるという点も共通している。さらに彼女たちには一人娘をもつという共通点がある。マインホフの娘ベティーナ・ロールさん、重信の娘・重信メイさん。この二組の母子4人をめぐるドキュメンタリーが『革命の子どもたち』である。他の登場人物は、映画作家の足立正生、赤軍派の塩見孝也、重信房子の弁護士・大谷恭子。
 重信房子の娘・メイさんの父親はパレスチナ・ゲリラで、イスラエルのミサイル攻撃により落命したとされる。まさに革命家の落とし種である。日本+アラブのハイブリッド美女で、映画はいくぶん破廉恥なまでに彼女のオリエンタルな魅力をフィーチャーしようとさえしている。若松孝二が晩年、本作の日本公開を切望したらしいが、こうした当事者、シンパたちの思い入れとは裏腹に、この映画にはどことなく甘いロマンティシズムがただよっている。私は本作を見ながら、ロラン・バルトが、ローザ・ルクセンブルクのテクストを読むモチベーションを与えてくれるのは、彼女の美しいポートレイトを見たことがあるからだ、というようなことをどこかに書いていたのを思い出した。
 この映画の監督をつとめたイギリス人がクセモノだという気がする。「1960年後半に日本で強まった抗議の精神について、またそのエネルギーがどこに消えてしまったのかを、日本の若い世代が考える助けになれば」というのが望みだと語る監督のシェーン・オサリバン。彼は本作に『革命の子どもたち』、つまりChildren of the Revolutionというタイトルを与えた。この題には、彼のブリティッシュな美意識がたっぷりとかかっているだろう。Children of the Revolution、これはT・レックスのブギー・ナンバーの曲タイである。血なまぐさいテロリズムの映像的総括としてグラムロックが援用される(T・レックスと、ウルリケ・マインホフ、重信房子の活動は同時代)のも、時代表現の一形体なのか(そしてそれは軽薄さ一歩手前の痛快さだ)と、合点がいった。


7/5(土)よりテアトル新宿ほか全国で順次公開予定
http://www.u-picc.com/kakumeinokodomo/
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