ニュースアグリゲータ

2014-05-18

『建築と日常』編集者日記 - 土, 05/17/2014 - 15:00
機会があって、《雲野流山の家》(1973)を見学させていただいた。坂本一成先生の30歳頃の設計作品。陸屋根のRC造で、内部の床に舗道用のブロックが敷かれていたり、発表時の文章で「無色で、無性格で非情な何も語らぬ空間」への指向が表明されていたり(「乾いた空間──即物性と存在性」『新建築』1974年2月号)、坂本先生の作品歴では比較的硬質なものという印象を持っていたけれど、実際訪れてみると、思っていたよりも《水無瀬の町家》(1970)および《代田の町家》(1976)との連続性が感じられた。 あらためて言葉 ...

『ソウル・パワー』ジェフリー・レヴィ=ヒント@LAST BAUS中村修七

nobodymag journal - 土, 05/17/2014 - 14:52
1974年にザイール(現・コンゴ民主共和国)の首都キンシャサで、モハメド・アリ対ジョージ・フォアマンの世界ヘビー級王者決定戦が行われるのに先駆け、“ブラック・ウッドストック”とも呼ばれる音楽祭が、3日間に渡って開催された。 音楽祭に出演したのは、ソウル・グループのザ・スピナーズ、“ソウルの帝王”ジェイムズ・ブラウン、“ブルーズの神様”B.B.キング、“サルサの女王”セリア・クルースとファニア・オー...

『極悪レミー』 グレッグ・オリヴァー、ウェス・オーショスキー @THE LAST BAUS / 爆音映画祭

荻野洋一 映画等覚書ブログ - 水, 05/14/2014 - 19:11
 私がモーターヘッドを聴くのは中学・高校時代以来、じつにおよそ30余年ぶりである。『ジ・エース・オブ・スペイズ』『アイアン・フィスト』など彼らにとっても代表作となるアルバムを立て続けにリリースしていた頃である。当時はパンク=ニューウェイヴの全盛時代だったにもかかわらず、同級生の大半はハードロック=ヘヴィメタルのファンだったが、私はハードロック=ヘヴィメタルが嫌いだった。しかし放課後にほぼほぼ毎日通っていた池袋北口の貸しレコード屋「サウンドボックス」の試聴コーナーでモーターヘッドを聴いたとき、「ここまで行っちゃってるなら、好きでないなりに認めてやるよ」などと高校生の分際でえらそうに考えていた。逆にヘヴィメタルファンの友人たちのうちモーターヘッドに耐えられるのは、一人くらいしかいなかったように記憶している。それほどモーターヘッドの音はただ単に轟音で、殺伐としており、当時のヘヴィメタルファンが欲する印象的なリフも陶酔的なギターソロも皆無だった。
 失礼ながら、モーターヘッドがいまだ現役であることは、本作を見て初めて知った次第だ。しかもこれまで知らなかったのは、リーダーのレミー・キルミスターがモーターヘッド以前にじゅうぶんなキャリアを積んできたプロフェッショナルであること。まさに継続は力なりである。レミーのタフネスもさることながら、この継続の源泉は、ロサンジェルスの街に対する信頼と安寧、愛情にかかわることなのだ。
 英国西部ウェールズ出身のレミーが、外国人の分際でいかにしてLAの象徴的存在たり得たか。それは畢竟この街の風通しのよさを示すであろうし、彼が身をもってLAで生き長らえるだけの資質の持ち主だったということもある。本作はレミーという人物の、コワモテだが飾らない誠実さをすくい取っている。もちろんヒューマニズムはあくまで塩胡椒であり、主食は、モーターヘッドのライヴやレコーディングで聴くことになる、鼓膜の破れそうなベース、ギター、ドラムス、ヴォーカルの轟音である。爆音であることが宿命づけられた音の塊である。


吉祥寺バウスシアター(東京・武蔵野市)の《THE LAST BAUS / 爆音映画祭》にて上映(本作の次回上映は5/20 16:00)
http://www.bakuon-bb.net

2014-05-14

『建築と日常』編集者日記 - 火, 05/13/2014 - 15:00
今のところまだ学生の名前を一人も覚えていない。提出物や講評会のやりとりをするうちに覚えることもあるとは思うけど、たとえ覚えたとしてもなるべく覚えていないフリをしたい。全員覚えていないか全員覚えているかのどちらかの状態が理想的であるような気がする。

2014-05-13

『建築と日常』編集者日記 - 月, 05/12/2014 - 15:00
例の講義の第3回として、妹島和世さん設計《SHIBAURA HOUSE》(2011)と、岡啓輔さん設計施工《蟻鱒鳶ル》(2005年から建設中)を見学させていただいた。どちらも自分が興味をもっている建築だし、おたがいに歩いていける距離でもあるのだけど(途中の建築会館にも寄り道)、例えばゴシックとの対比でルネッサンスの理解が深まるように、ふたつの建築を合わせて観ることで、それぞれの建築の特質や、それらの建築が位置づく世界の広がりを、より認識しやすいのではないかと考えた。完全に後付けだけども、「SHIBAU ...

『ネイチャー』 パトリック・モリス、ニール・ナイチンゲール

荻野洋一 映画等覚書ブログ - 日, 05/11/2014 - 21:44
 大自然の驚異を映したドキュメント映像は、スペースオペラやタイムスリップ物などよりはるかにSF的ではないか。見知らぬ秘境に奥深く分け入れば分け入るほど、微細な昆虫のはたらきを拡大すればするほど、野生動物の俊敏さをスーパースローで引き延ばせば引き延ばすほど、漆黒の深海へ沈潜すればするほど、私たち文明人にとってそれらはフィクショナルなものとして映る。
 BBC EARTHは、かつてはNHK-BS、現在はWOWOWで断続的に放送が続いているネイチャー・ドキュメンタリー製作の世界最大手ブランドで、『ディープ・ブルー』『アース』『ライフ』といった映画作品もあるが、このブランドの最大の特色は、湯水のごとく使われる潤沢な予算、そして過剰という非難もまったく気に病まぬ美麗な映像である。対照的なのはナショナル・ジオグラフィック・チャンネルで、スカパー!で見ることのできるこのチャンネルは、多少なりとも科学調査的な青臭さ、そして探検隊のうさん臭さを残している。だがナショジオの活動を、BBC EARTHはまったく鼻にもかけていないだろう。
 BBC EARTHで私がこれまで確認し得た最高の瞬間は、オオトカゲが水牛を食べるシーンの冷酷さだ。オオトカゲが、自分より何倍も大きい水牛の足下あたりをチラっとだけ噛みつく。水牛からすればたいしたケガとも思えないが、いつのまにか、オオトカゲの仲間たちが周囲に集まってくる。オオトカゲの唾液には毒があり、だんだん水牛が衰弱していくのを、オオトカゲたちはただ気長に待つのみである。次のカットで時間経過。あれほど屈強に見えた水牛の巨体が、悪化した足の痛みに耐えきれず、ついにバタンと倒れ込む。水牛の鼻先を、オオトカゲが悪戯まじりにチョロチョロと細長い舌でくすぐっている。倒れ込みながらも威嚇を試みる水牛だが、それも長くは続かない。そして次のカットでは、たくさんのオオトカゲの口が、一塊の巨大な肉の塊を引きちぎっている。
 アフリカ各地の火山、海、砂漠、サバンナの生物の営みを紹介する今回の『ネイチャー』が、水牛vsオオトカゲに匹敵する映像を提供し得たかといえば、それはノーだろう。しかしながら、アフリカゾウの一群が水を求めた遙かなる長征の果てに、ついに大雨の後の水たまりを発見して、水浴びする場面の解放感──ある種人間的とさえ言えるような幸福の表情を、象たちがはばかることなく見せている。歓びに笑うのは、人間だけではないらしい。


TOHOシネマズみゆき座(東京宝塚劇場・地下)ほか全国で上映
http://nature-movie.jp

『ニール・ヤング/ジャーニーズ』ジョナサン・デミ@LAST BAUS田中竜輔

nobodymag journal - 金, 05/09/2014 - 16:56
自らの故郷トロント州オメミーを2011年の世界ツアーのファイナルに選んだニール・ヤング。このフィルムで私たちはギターを持ったその人の姿より先に、コンサート会場マッセイ・ホールへと、自らハンドルを握って車を走らせようとするニール・ヤングの横顔を見る。ニール・ヤングに(あるいは彼の車をマッセイ・ホールまで別の車で先導する実の兄に)導れるトロントの短い旅。車を運転しながらこの片田舎での思い出を語り続ける...

2014.05.10 シネクラブのお知らせ

Dravidian Drugstore - 金, 05/09/2014 - 07:58

5月10日(土)アンスティチュ・フランセ横浜シネクラブ

14:00〜
『壁にぶつかる頭』La tête contre les murs
(フランス/1959年/95分/モノクロ/デジタル/日本語字幕付)
監督:ジョルジュ・フランジュ
出演:ジャン=ピエール・モッキー、アヌーク・エーメ、ピエール・ブラッスール、シャルル・アズナヴール
http://www.institutfrancais.jp/yokohama/events-manager/cahier3/

高名な弁護士のジェラーヌ氏は、反抗的で情緒不安定な息子のフランソワを精神病院に入れた。フランソワは、伝統を重んじる院長のヴァルモン医師と、現代的なメソッドを採用するエムリー医師の対立を目の当たりにする。精神病ではないフランソワは、癲癇患者のウルトゥヴァンとともに病院から逃げ出すが…。

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16:00〜
『燈台守』Gardiens de phare
(1929年/フランス/82分/モノクロ/35mm/サイレント/日本語字幕付)
監督:ジャン・グレミヨン
出演:ジェニカ・アタナジウ、ガブリエル・フォンタン、ヴィタル・ジェイモン、ポール・フロメ
http://www.institutfrancais.jp/yokohama/events-manager/cahier4/

ブルターニュ地方の海沿いの小さな村に住む燈台守の父と息子は一ヶ月の間、女たちのもとを離れ、海の上での任務に就く。息子イヴァンには婚約者との別れがつらい。そのイヴァンが燈台の中で狂犬病を発症し、苦しみ始め、徐々に父親に対して攻撃的になっていく。海はどんどん荒れ始める。父は、息子の攻撃をかわしながら、遭難船を救うために灯をともさなければならない…。海と陸、男たちと女たち、光と闇、両者のコントラストが本作に宇宙的な広がりを与えている。
「グレミヨンは事後の映画作家である。不幸が起こった後、人間がどのようにそれを生きていくのかを描く。『燈台守』、『父帰らず』、そして『愛慾』でも殺人はほとんど見せられない。」(ステファン・ドゥロルム)
東京国立フィルムセンター所蔵作品

本作のフィルムは毎秒18コマで制作されていますが,上映設備の都合により毎秒24コマでの上映となります。映写速度が早まった状態での上映とな ります。
あらかじめご了承ください。

※上映後、映画評論家・大寺眞輔氏による講演があります。

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当日券のみ。会場にて開場時より販売。一般1200円、会員600円、芸大生無料 (同日2本目は一般も600円) 1本目と2本目のチケットの同時購入可能。開場は、各回30分前より。整理番号順でのご入場・全席自由席。
045-201-1514

東京藝術大学 (横浜・馬車道校舎)大視聴覚室
〒 〒231-0005
横浜市 中区本町 4-44

ジャック・カロ──リアリズムと奇想の劇場 @西美

荻野洋一 映画等覚書ブログ - 木, 05/08/2014 - 17:00
 いまの国立西洋美術館に行けば、版画という表現形式が醸すあやしげな魔力にどっぷりと浸かることができるだろう。黒インク単色の線のみを表現手段とする版画は、ぱっと見親しみが湧きにくく、個人的には殺伐とした感情を抱かせることもなくはなかったのだが、いったん好きになると、油彩画など放っておいて、そちらばかり見てしまうような中毒性がある。ましてや同館の所蔵作品のうちほとんどが版画作品であり、名品も多い。今冬に同館で開催された《モネ、風景を見る眼》を見に行った際も、私がもっとも感動したのはモネの油彩ではなく、『吸血鬼』(1853)をはじめとするシャルル・メリヨンの連作『パリの銅版画』の連作であった。
 同館地下の企画展示室では、《ジャック・カロ──リアリズムと奇想の劇場》が催されている。ジャック・カロ(1592-1635)はロレーヌ公国(現・フランス北東部)の首都ナンシーが輩出した銅版画の名手で、とくにコジモ・デ・メディチに寵愛されたフィレンツェ時代の充実ぶりはすばらしい。
 マニエリスムからバロックへの転換期に、奇矯な形体への関心と写実精神が結びついたと言われる。カロの版画は、戦争のむごたらしさ、トスカーナ地方の豊饒なる市の光景、宮廷主催の祝祭的行事、〈七つの大罪〉ほか宗教的主題、ロマ族や身体障害者といった社会的弱者の肖像など、さまざまな画題に挑んでいるけれども、そのすべてがすさまじく精巧なクオリティにあり、バロック台頭の高揚感が、彼の削り出した一本一本の線から湧出しているかのようだ。
 図に掲げた『二人のザンニ(喜劇の従者役)』(1616頃)は、当時のフィレンツェで大人気だった劇団コメディア・デラルテの登場人物を描き、浮世絵で言うところの「役者絵」ということになるが、この奇想ぶりは東洲斎写楽も真っ青だろう。
 ジャック・カロ展と同時並行で開催されている《非日常からの呼び声 平野啓一郎が選ぶ西洋美術の名品》も、版画ファンには見逃すべからざる部屋である。デューラー『メレンコリア?』、ゴヤ『飛翔法』、デッラ・ベッラ『子どもを運ぶ死』、パルミジャニーノ『キリスト埋葬(第1ヴァージョン)』、ブレダン『善きサマリア人』といった、同館所蔵の版画作品の傑作がきちんと含まれており、近代エッチングの傑作であるエドヴァルド・ムンクの『接吻』(1895──もちろん映画が発明された年だ)を前にすれば、この部屋の最後で、如何ともし難く大きな感動と動揺を、鑑賞者は抑えきれないだろう。


国立西洋美術館(東京・上野公園)で6/15(日)まで
http://www.nmwa.go.jp/

『ザ・シャウト/さまよえる幻響』イェジー・スコリモフスキ@LAST BAUS隈元博樹

nobodymag journal - 木, 05/08/2014 - 09:56
 穴のあいた缶詰をひっかく、グラスの淵を指でこする、タバコに火をつける……。あらゆる音源をダイナミックマイクで録音し、その振動音を電気信号に変えてミキシングするアンソニー(ジョン・ハート)に対し、クロスリー(アラン・ベイツ)がポツリと挑発する。「君の音は空疎だな」。どこか自信さえうかがえるその一言に、笑みを浮かべるのも無理はない。彼にはこの世の生物を一瞬にして殺めるための「叫び」があるのだから。 ...

『プラットホーム』ジャ・ジャンクー@LAST BAUS結城秀勇

nobodymag journal - 木, 05/08/2014 - 02:36
『プラットホーム』はシネスコの映画だと、長らく勝手に思い込んでいたのだが、実際にはヴィスタサイズだった。あの、石造りの狭い室内を光が零れる開口部方向にカメラを向けて撮る、初期ジャ・ジャンクースタイルを決定的に特徴づける美しいショット群と初めて出会ったのはこの作品だったが、その小さな家から一歩足を踏み出せば、巨大な山々や霞む地平線などの広大な中国の大地がどこまでも広がっている、そんな印象を持っていた...

ロシア・ソヴィエト映画 連続上映/第9回 キラ・ムラートワ

今回は、昨年のロッテルダム映画祭で特集が組まれるなど、世界的に再評価の機運が高まるキラ・ムラートワ監督に注目。ウクライナを拠点に、現在も活動を続ける彼女の初期2作品を上映します。

『アデル、ブルーは熱い色』 アブデラティフ・ケシシュ

荻野洋一 映画等覚書ブログ - 月, 05/05/2014 - 17:46
 去年の10月にバルセロナに滞在していたとき、情報誌「TimeOut Barcelona」の誌上で、同時期に公開されている映画が星5つ満点のうち軒並み3つ星以下という状況下(『インシディアス第2章』『グランドピアノ 狙われた黒鍵』『キャプテン・フィリップス』、そしてミヒャエル・ハネケについてのドキュメンタリー『Michael H.』など)において、唯一5つ星を与えられていたのが『アデル、ブルーは熱い色』だった。
 ジュリー・マロの原作漫画『ブルーは熱い色』は未読だが、シナリオはどことなく日本映画ふうである(近年で言えば『NANA』『ハナミズキ』『横道世之介』『舟を編む』といったロングスパンの編年体による青春映画)と同時に、あきらかにオリヴィエ・アサイヤスふう(『8月の終わり、9月の初め』『5月の後』)、またはミア・ハンセン=ラヴふう(『グッバイ・マイ・ファーストラヴ』)でもある。青い髪をしたカリスマ的な男装の令嬢(レア・セドゥ)のありようは、非常に日本的だ。そして、ほぼ全編を手持ちカメラで親密かつ即席的な反美学的画風を強調しているあたりは、90年代以降の「カイエ」派の若手映画作家の系譜に属するだろう。私はこの系譜を勝手に「フィジカル・リアリズム」と名づけているのだが、『アデル、ブルーは熱い色』はそのフィジカル・リアリズムの最新の収穫である。
 シックスナインやら松葉崩しやら、微に入り細に入り克明に描かれる百合族(レア・セドゥとアデル・エグザルコプロス)のセックスシーンが長すぎるという指摘があって、私もそれに首肯するのだが、これらのからみはいささかサービスカット的に過ぎはしまいか。本作を話題作にしたいというアブデラティフ・ケシシュ監督のあせりのようなものを感じてしまった。とはいえ、この二人の女の同性愛が決して精神的なきれい事で始まったのではなく、動物的な性的欲望から始まったということを言いたかったことは、じゅうぶんに伝わってくる。
 スター街道の途上にあるレア・セドゥのカリスマ性もさることながら、本作の最もすばらしい点は、ヒロインのアデルを演じたギリシャ系フランス人の新人女優アデル・エグザルコプロスが醸す兇暴なまでのプリミティヴさであろう。映画の前半で彼女は、パスタをむさぼり食いつつ校内で喫煙ばかりしている、労働者階級出身のドキュン女子高生として現れて、野生児のような粗暴さがかえって見る者を惹きつける。映画の後半では一転、幼稚園の温かく美しい保母に成長しており、荒々しいヘアスタイルはそのままでも、メランコリックな孤立を際立たせている。このメタモルフォーゼがこの映画の主題だと言っても過言ではない。
 ただし、《トマトのパスタ=労働者階級、生牡蠣=インテリ階級》といった描き分けはあまりにも図式的で、この図式性が『最強のふたり』と同レベルなのはいただけない。ヒロインが百合族の仲間入りをしたことが判明すると、高校の仲良しグループが急にヒロインをパージする描写のコンサバさも、どこか『最強のふたり』に似かよっている。


ヒューマントラストシネマ有楽町(東京・有楽町イトシア)ほか全国で順次公開
http://adele-blue.com

2014-05-06

『建築と日常』編集者日記 - 月, 05/05/2014 - 15:00
講義の場でもし僕が5分間無駄な話をしたとしたら、学生が20人いたとして、100分間の無駄な時間が生まれるというような意識が頭のどこかにある。5分ならともかく、それがどんどん短くなって、30秒くらいでもそんなことを感じてしまっているかもしれない。

2014-05-05

『建築と日常』編集者日記 - 日, 05/04/2014 - 15:00
スタンリー・キューブリック『スパルタカス』(1960)をDVDで観た。例の講義の西洋建築史古代編で紹介しようと思って、15年くらいぶりに観てみた。198分。長い。大作とはいえCGのない時代の映画だから、古代ローマの建築がそれほど再現されているわけではなく、コロセウムも出てこなかったし、講義の場でわざわざ紹介することはないかもしれない。 西洋建築史古代編では他にD・W・グリフィス『イントレランス』(1916)とマノエル・ド・オリヴェイラ『永遠の語らい』(2003)を取り上げようと思っていたのだけど、この ...

『テルマエ・ロマエII』 武内英樹

荻野洋一 映画等覚書ブログ - 日, 05/04/2014 - 00:42
 『テルマエ・ロマエ』の続編がなぜ製作され、公開されるのか? 前作がちゃんと儲かったからであろう。私が2年前に拙ブログでこの作品に言及する際、作品名を表題とせず、「ローマの風呂について」という抽象的な表題としたのは、「この作品を相手にせず」という意地があったのではないか、と今になっては思うのである。
 と同時に、上のブログ記事にも書いたことであるが、私は幼少期から、テルマエらしき浴場につかる夢を数えきれぬ位の回数見てきた、という問題がある(もうひとつたくさん見た夢は、雪の日、囲炉裏のそばで座っている「週刊新潮」の表紙のような切り絵の夢である)。
 映画に登場するテルマエはいずれも室内であるが(そしてそれは映画製作スタッフ、原作者の調査に基づく歴史的真実なのかもしれないが)、私が(夢で)体験したテルマエはつねに露天風呂である。ぬけるような快晴の青空のもと、白い石造りの広大な風呂が見渡すかぎりにあり、そこの快適な湯につかるのは、私だけではない。美しい女たちも湯につかっているが、私も彼女たちも全裸ではなく着衣のまま湯につかり(あのローマ独特の袈裟みたいな、ゆるりとした衣装)、談笑しながら、彼女たちはときどき私に葡萄の実やワインを口に入れてくれる。そして湯船のそばのプールサイドのような平地では、ときにハープ奏者がおだやかな楽曲を演奏してくれている。
 今回の新作『テルマエ・ロマエ?』でもどうしても抱かずにおられぬ欲求不満、それが以上のような、テルマエに対する圧倒的な充足感なのである。主人公のルシウス(阿部寛)が群馬県草津温泉の温泉につかるシーンで見せる充足の表情が、この映画のクライマックスだろう。ローマ帝国の権力闘争がらみや、タイムパラドックスの修正に奔走する後半クライマックスは、前作同様マーケティング的な意味で必要なのかもしれぬが、私には不快な蛇足に思える。
 もっと、入浴が醸す究極の充足感、いけないほどのエピキュリスム──ああいう、私が夢の中で抱いてきた絶頂的感情──を映画にできないものか。ローマの風呂を映画化する、というのはじつに羨ましいが、であるからこその欲求不満を、このシリーズに感じてやまない(あらたな温泉リゾートを開発するという今回の構想には賛同する点多し、その点で言うと今作は筆者の主張をそれなりに叶えようとしてくれている)。ここに書いてきたことは、ほとんど言いがかりに過ぎないけれども。


TOHOシネマズ日劇、TOHOシネマズ日本橋ほか全国で公開
http://thermae-romae.jp/

2014-05-04

『建築と日常』編集者日記 - 土, 05/03/2014 - 15:00
メモ。ハンナ・アーレント『アイヒマン論争──ユダヤ論集2』(ジェローム・コーン/ロン・H・フェルドマン編、みすず書房、2013)より。  われわれには一世紀[…]にわたる便宜主義的な政治の経験がある。この時期には、便宜主義的な政治家が民衆を政治から疎外したのとおなじ仕方で、学者や文献学者が民衆を歴史から遠ざけるのに成功した。人類の進歩という崇高な概念からはその歴史的意味が奪われ、単純な自然的事実へと歪曲された。それによれば、つねに、息子は父親よりも善良で賢明な者、孫は祖父よりも啓蒙された者だというこ ...

『アメイジングスパイダーマン2』マーク・ウェブ結城秀勇

nobodymag journal - 土, 05/03/2014 - 05:33
スパイダーマンが他のマーヴェルヒーローやDCヒーローよりもスペクタクル的な理由として、彼が重力や慣性といった物理法則に拘束されているから、そしてそれを利用して運動のダイナミズムを生み出すからだというのは言を待たないだろう。その運動の快感はおそらく、球技において走り回るプレイヤーを置き去りにしつつ一瞬でゲーム全体の状況を一変させるボールの動きを見つめることに似ているのではないか。スタンドの向こうに消...

2014-05-03

『建築と日常』編集者日記 - 金, 05/02/2014 - 15:00
最近DVDで観た映画。ウィリアム・フリードキン『エクソシスト ディレクターズ・カット版』(1973/2000)、ダリオ・アルジェント『サスペリア』(1977)。どちらも『映画空間400選』(INAX出版、2011)選出作品。ホラー映画なので空間性が強調される。ただ『サスペリア』は映画としての様式美みたいなものを強く感じて、今ひとつ馴染めなかった。それに比べると『エクソシスト』はわりと現代的でリアリスティックで、例の講義のために最近詰め込んでいる西洋建築史の世界観とも響いてくるものがあった。 『映画空 ...

『アクト・オブ・キリング』評@一年の十二本 付記

革命の日の朝の屑拾い日記 - 金, 05/02/2014 - 07:33

ハリウッドにおけるギャング映画の全盛期は1930年代。戦後はギャングが登場する場合も彼らを追及するFBIとかの側にヒーローの地位が移る(映画史の勉強が面倒なら、とりあえず『J・エドガー』見て)。「「ギャング映画」を[……]殺人メロドラマのたぐいと了解するにせよ」云々の意味が伝わりにくかったかもしれないので、念のため。

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