10/12 Act of shooting act

ジョシュア・オッペンハイマー『殺人という行為』。朝からけっこう混んでいる。インドネシアで1965年のクーデター後に起こった共産主義者の大量殺戮を、実際にそこで殺人を行っていた人物を集めて映画化しようとするプロセスを追う。
まずあらすじを読むとどうしてもリティー・パニュの『S21 クメール・ルージュの虐殺者たち』を思い浮かべてしまうが、見てみると全然違うものだとわかる。ものすごく乱暴に言ってしまえば、登場人物たちの「キャラクター」によっておもしろくは見れる。だが"Act of killing"とはいったいなんなのかを、演じ直すことを通じて理解することがこの作品の狙いなのだとすれば、やはりこれは『S21』に遠く及ばないと言うほかない。むしろ、ひとりの人物が選挙に出る場面で、「インドネシアでは選挙のたびにワイロがばらまかれるし、集会にどれだけ人が集まってもそいつらはみんな金をもらって、仕事のつもりで集まってる。舞台の上に上がる人々も幸せそうな顔をしているが、安っぽいソープオペラの登場人物を演じているのと変わらない」と言うが、この言葉の方がインドネシアの歴史における"Act of killing"を的確に言い当てている気がした。映画館のダフ屋をやっていたチンピラが、MGMやパラマウントの映画から「クールな殺し方」を学び、西部劇や犯罪映画の出来の悪いパロディとしての共産主義者虐殺を作り上げること。その当事者はその過去を隠したりなかったことにしたりはせず(新聞社で働いていたひとりの人物を例外として)、むしろ誇らしげに語る。この作品にかなり強い疑念を覚えずにいられないのは、彼らの語る行為の仕方、彼らの語り口を、誇らしげで自慢気なものから罪悪感と恥の意識に充ちたものへと変えることが、作品の到達点におかれているようにどうしても見えてしまうからだ。この映画のもっとも主要な登場人物は、映画のかなりはじめの方で、「別に楽しくてやってたわけじゃない。歌とダンス、酒とタバコとマリファナと、ほんの少しのエクスタシーでハイになりながらやっていた」と語り、実に見事なチャチャチャのステップを踏んでみせる。その同じ人物が映画の最後、まったく同じ場所で今度は、耐えきれない自責の念と罪悪感から吐き気すら覚えながら「ほんとはこんなことはしたくなかった」とつぶやくとき、まるで映画のはじめには隠されていた「真実」のようなものが暴かれた、という感じに描かれているように見えてしまう。だが、彼のチャチャチャのステップよりもわき起こる吐き気の方がより「真実」であり、より「リアル」であるなどと断定する権利が、いったい誰にあるというのだ?
続いてアヴィ・モグラビ『庭園に入れば』。手法としては基本的に近年の他のモグラビ作品でも用いられている、小さなカメラのフィックスショットに向かってモグラビが話すというやり方がベースとなってはいるが、アリ・アルアズハリという共作者を迎えた今作ではそこに多大な豊かさが導入されているように見えた。単に被写体としての彼の動きや言葉のおもしろさがあるというだけではなく、彼の言葉を呼び水として引き出されるモグラビ家の歴史(なんとイタリア人だった!)、彼がやたらと声をかけるせいで登場人物のひとりとなってしまう第二のカメラのカメラマン・フィリップ、そして彼の娘のヤスミン、そうした多様な事柄がフレームの中に呼び出されていく。そうしたことが、テレビの画面の中の「アラブの春」のニュース映像とも、ほんのかすかなつながりを持っているような気がした。
酒井耕、濱口竜介『なみのこえ』。この作品についてはまた別の場所で詳しく書く機会もあるだろうし、というかそもそも東京帰ってからも見れるのにわざわざ山形で見なくてもとも一瞬思ったが、こんだけでかいスクリーンで見れることもそうそうないだろうとやっぱり見ることにした。で、見て正解だった。会場のけっこうな人数の観客が、長年連れ添った夫婦の軽妙なやりとりで湧き、がんこな漁師の親子の「ちがうず」「んねず、ちがうず」「絶対んだず」という応酬で大爆笑する。こうした体験を郷里で経験すること、それも郷里からさほど遠くはない場所の人々を描いた映画で経験するのは、格別のものだった。
それにしても、『なみのおと』もそうだが、長年連れ添った夫婦ものの奥さんがいずれも素晴らしい。こんな嫁をもらいたいもんだ。