サラ・ポーリー『物語る私たち』。自分の出生の秘密を探るセルフ・ドキュメンタリーだと聞いていたので食指が動かなかったが、これはおもしろい。むしろセルフ・ドキュメンタリーなどというより、『ローラ殺人事件』や『デジャヴ』のような、そしてジェイムズ・エルロイの未解決殺人事件についてのルポのような、死んだ女の肖像を巡る物語であり、死んだ女に恋をする探偵たちの物語なのだと言った方がいい。若き日の父や母をまったくの別人が演じている回想シーンや、ナレーションの基調をなす父親からの手紙(そしてそれに演出をほどこす娘の姿をわざわざ映すこと)などは単なるけれんなどではなく、死んだ女への愛によって彼女を再びスクリーンの上で生きさせるための方法である。エルロイが『クライム・ウェイヴ』の中で次のように書いたような意味で、サラ・ポーリーはダイアン・ポーリーという女をここで生み出している。「わたしの好奇心と物書きの才能が母の死によって形づくられたことはわかっていた。ずっと前からわかっていた。それは冷ややかに論じられ、偽りのうちに客観化されてきた。わたしはその重みを充分に理解した。自分には認知と敬意という借りがあることを悟った。血のつながりという以上の意味で、自分を生み出したのが母であることを悟った。わたしは母なのだと感じた」。
キム・ドンリョン、パク・ギョンテ『蜘蛛の地』。朝鮮戦争時の米軍相手の娼婦たちと、その娘にあたる女性の現在を描く。
ここでもやはり、歴史を演じ直すことが問題になっている。しかしその方法がまったく納得いかない。かつて娼婦だった女たちの現在を描く前半部は、カメラに向かってインタビューを行うのでは聞き取れない言葉を聞くために、日常生活の姿を撮影しながらそこに手紙調のナレーションを重ねていっているのだろうか、それにしてはナレーションはやけに叙情的に過ぎるし、映像との重ね合わせがうまく機能していない、などと多少好意的に解釈しようと試みたが、その娘が母親の過去の痕跡をたどる後半部にいたって我慢も限界に達する。映像と言葉は、有機的に連結することも、衝突しあって異質なものを生み出すこともなく、ただ作家の都合のいいように貼り合わされているだけ。女たちを苦しめたものを「亡霊」と呼んでみるのも別にいいだろう。だがその「亡霊」は彼女たちひとりひとりがそれぞれに呼び出すべきものであって、作家の方が押しつけた「亡霊」を具現化するために彼女たちを利用するなんて卑劣極まりない。本気で腹が立った。
あまりにムカついたのでここで飲み屋情報。駅前のキャバクラが立ち並ぶあたりにあるバル「DonDonTei」は見た目はチャラいが、スパークリングワインがグラスで¥300で、質もわるくない。食い物はそんなに頼まなかったが、どれも手がこんでてうまいとのことだった。