『スプリング・ブレイカーズ』の4人の女の子たちは、開放的というよりは呪術的なマイアミの狂騒の中で、しかし一度としてセックスをめぐる直接的なシーンに遭遇しない。レイチェル・コリンだけはそのオッパイをスクリーンに曝け出す点で例外かもしれないが、しかし彼女もまた「このプッシーは誰にもあげない」と宣言するわけで、やっぱり彼女にもそれは遠いものなのだ。このフィルムの「拳銃」をめぐるあらゆるシークエンスが、メタフォリックに彼女たちの性的なイメージを昇華させているのだと考えることはできる。しかしそれら拳銃=陰茎は、彼女たちには決して「正しく」接続されはしない。彼女たちはそれを咥えこみ捻じ込まれる側に立つのではなく、むしろ咥えさせ捻じ込んでやろうとする側に回るのである。ゆえに、フィルムの冒頭でノートにペニスのイラストを書きなぐってフェラチオの真似事をしていた、かつての「日常」の彼女たちのイメージは、もはや重なり合うことはない。スプリング・ブレイクの日々とは、彼女たちの退屈で鬱屈に塗れた日常を解消するための時間でも、胸に秘めた欲求を現実に反復してみせる時間でもないのだ。ゆえに彼女たちにセックスを実現する時間は訪れない。つまりスプリング・ブレイクは、有限性に基づいた「人生」と比較されうる「期間」のことではない。
このフィルムの代名詞ともいうべき、ジェームズ・フランコの「Spring Break, Forever」という囁きは、スプリング・ブレイクがすでに「永遠である」ことを示す端的な事実についての断言であって、「願望」ではいささかもない。「私の日常には同じことしか起こらない」から、このスプリング・ブレイクの「特別な時間」を「永遠にしたい」と語った、スプリング・ブレイクを「青春」と取り違えて生きた黒髪の女の子が、解き放たれるのは当然だ。「青春」をめぐるあらゆる物語が反復してきたことと同様に、『スプリング・ブレイカーズ』もまたその意味で正しい「青春」の時間を黒髪の女の子に託している。『アデュー・フィリピーヌ』(ジャック・ロジエ)のラストシーンを思い出す。どんなに切望しても「永遠でないもの」を「永遠にする」ことはできない。人生に訪れるふとした「中断」。それと同じものがあの女の子には刻まれたのだ。
では、『アデュー・フィリピーヌ』でその地を去る船上の男に手を振って、彼に「中断」を刻んだ「女の子たち」は、どこへ行ってしまったのか? もちろん彼女たちはいまだ自らの生み出したその「中断」のなかに、一瞬の「永遠」に置き去りにされたままだ。『スプリング・ブレイカーズ』は、まさしく「永遠」それ自体としての「中断」を生き続けるゾンビのようにジェームズ・フランコを映し出す。彼にはもはや総体としての「人生」など、何の問題ともならない。彼が生きるのは「一瞬」に内在して生み出される「永遠」であり、「中断」それ自体としての「永遠」であり、すなわち「スプリング・ブレイク」の時空でしかない。
ふたりのブロンド娘はこのゾンビから「永遠」そのものとしての「中断」を、「スプリング・ブレイク」を引き継ぐことになるだろう。その「春休み」は終わらない。そのことは、すなわち彼女たちが『アデュー・フィリピーヌ』の女の子たちの永遠の輝きを引き継ぐことでもあるだろう。乾いた引鉄の音色のごとき、鮮烈な一瞬の永遠。その永遠は「青春」、そして「人生」の彼岸にある。
田中竜輔