2011年1月3日
新宿の映画館を出ると午後も1時半を回っていた。昼食に急ぐ時間だ。東京の映画館の初回上映は11時過ぎが多くてかなわない。それに最近の映画は上映時間が長いので、11時に始まる初回が終わるのは、早くて1時半。初回が11時20分、終映が14時15分なんて場合はどうすればいいのか。レストランのランチタイムはたいがい14時までなので、空腹対策を最初から立てておかねばならない。映画の上映はパリだと14時、16時、18時みたいな感じが多いし、よほどのことがない限り、昼食をパスすることなど考えられない。日本の映画館は、従業員のことは考えても、観客にはフレンドリーではない。
とりあえず「ちょっと洋食!」の気分だった。幸い末広亭のとなりにある「あずま」がまだ開いていた。三が日のラスト。末広亭の前は長蛇の列だ。「正月はやっぱり寄席!」って感じなんだろう。いろんなものが変わってしまった新宿でも、末広亭周辺はテナントは代わってもビルの佇まいがけっこう昔のまま。それに「あずま」はぜんぜん昭和! 創業63年とか言うが「老舗」感がない。敷居が低く、ひとり客でも問題なく入れる普通の安い洋食屋だ。単にずっと存在している。銀座にも「あずま」(どっちが本店なんだろう?)があるけれども、同じ雰囲気。でも、近年、洋食屋は希少価値。ぼくが住んでいる祐天寺にも「冨久味」という洋食屋があったが、弁当屋になってしまった。だから、自宅から洋食屋と言えば、中目黒の「パンチ」、三軒茶屋の「アレックス」、武蔵小山の「いし井」にチャリを飛ばすしかない。大しておいしくはないが「あずま」でハンバーグを食べていると、いろんなことを思い出してしまう。
すぐそこの明治通りの位置から考えると、ここはちょうど、かつて新宿文化があった場所の裏手に当たるだろう。今はユニクロやH&Mが並んでいる辺りにかつて「伝説の映画館」新宿文化があった。もちろん、新宿文化がなければ今のぼくなんていない。ゴダール、寺山修司、黒木和雄、実相寺昭雄、羽仁進、タルコフスキー、ブニュエル……ちょっと思い出しただけでも、これらの固有名を初めて知ったのは、この「映画館」だった。詳細は、平沢剛がこの「映画館」の支配人だった葛井欣士郎に聞き書きした『遺言 アートシアター新宿文化』(河出書房新社)を参照して欲しい。ロビーにたくさん詰めかけていた観客の中に高校生だったぼくもいた。この映画館は、かつては植草甚一も支配人を務めた由緒ある場所で、葛井欣士郎が支配人を務めた12年間(1962年〜1974年)は、新宿文化も新宿そのものも、もっとも熱かった時代だ。当時から比べると、この界隈も、末広亭に並ぶ人々を除いて、人通りがひどく減っている。だが、ゴダールやブニュエルや、そして、田原総一郎の唯一の長編映画『あらかじめ失われた恋人たち』でずっと裸でいた桃井かおりよりも、この「映画館」で、ぼくが思い出すのは、映画よりも舞台だ。葛井欣士郎が「目頭を熱くした」と語る、清水邦夫作、蜷川幸雄演出の『泣かないのか泣かないのか1973年のために』の超満員の観客席にいたぼくは、「目頭を熱く」どころではなく、号泣していた。そして、ぼくが観客席にして、舞台の上にいないのはどうしてだろう?って、舞台の上にいた石橋蓮司や蟹江敬三にものすごく嫉妬していた。たとえば大島渚の『新宿泥棒日記』だったら、紀伊国屋書店の中も、花園神社の紅テントの中も、西口広場も、明治通りにも同じ喧噪があったけれども、この時代になると、号泣とか喧噪は街にはなくなり、もう新宿文化の舞台の上だけがその最後場所だと思えた。
なんでぼくは大学生なんだろうな? このまま、「体制の犬」(すごく当時の表現ですんません)になっちゃうのかな? いろいろ考えた。同時に、やっぱり舞台ってすごいな、安全な観客席よりも危険に満ちた舞台の上の方がぜんぜんいいや!って思えた。でも、そんなことを考えたのは、そのときが初めてじゃない。もっと前に高校生の時に、同じ場所で見た──正確に書くと、新宿文化の地下にあった蠍座で見た──ロマン・ヴェンガルテンの『夏』(ニコラ・バタイユ演出)を見たときに、そんなことを初めて感じた。清水邦夫の荒々しい世界と正反対の凪のような夏の一日を描いたその戯曲に出演していた加賀まりこを見たときのことだ。そのころの加賀さんとニコラ・バタイユ氏を撮った石黒健治さんの写真を見ることができる。(http://ishigurokenji.com/report/report_078.html。すごく綺麗でしょう!)舞台に関わる仕事をしたいと強く思った。(そういえば、ぼくも役者としてニコラ・バタイユ演出の舞台に出たことがあるんだけど、それはまた別の話。)
上演から数年後に、白水社から『世界の現代演劇』叢書が出て、その第6巻に『夏』の翻訳(大間知靖子訳)が収められている。ロマン・ヴェンガルテンという固有名がしっかり頭に入った。ちなみに同じ巻にはベケットの『芝居』(高橋康成、安堂信也訳)、アラバールの『大典礼』(利光哲夫訳)なんかも収められている。1970年代の初頭には、こんな叢書が堂々と出版されていることが今から考えると信じられない。こと演劇に関しては、外国の前衛劇が翻訳出版されて、それが叢書になるなんて、今の「内向き」のジャパンじゃ考えられないからだ。だいたい白水社は「新劇」という演劇雑誌も出していたし、80年代の初頭、ぼくもその雑誌に劇評を連載していた。(演劇人からの反響は反感ばっかりだったけど。)
ロマン・ヴェンガルテンは1926年生まれの作家で、最初はソルボンヌで哲学を学んだが、アルトーの影響で演劇を志し、『アカラ』という戯曲でデビューしている。もっとも彼の作風はアルトー的な荒々しさというより(そちらは『泣かないのか泣かないか1973年のために』の清水邦夫みたい)、師匠筋のロジェ・ヴィトラック譲りの詩的な作風だった。演出もやっていてヴィトラックの『ルー・ガルー』もやったし、自作の『雪』(1979年)の演出なんてすごく良かった。パリのポッシュ・モンパルナス座で初演を見た。なぜだかニコラ・バタイユの『夏』を思い出した。『雪』は、ちょうど『夏』の反対にあるような、でも同じ静かな力学の働いている戯曲だった。同じ作家だから当たり前かも知れないが、40年近くの年月を隔てて、同じ空気感のある世界を現前させるのは、やはり芸術家だからだ。そのロマン・ヴェンガルテンは2006年に80歳で亡くなっている。彼の1996年のポートレートをサイトで見つけた。http://fr.wikipedia.org/wiki/Fichier:Romain_Weingarten_vers_1996.jpg。目をはだけたシャツと背後のカーテン、そして、おそらく校正中の原稿が印象的な写真だ。このポートレートを撮った人の名前がある。Isabelle Weingartenだ。映画ファンなら見覚えのある名前だろう。ロベール・ブレッソンの『白夜』、そしてヴィム・ヴェンダースの『ことの次第』……。イザベル・ヴェンガルテンは、ロマンの娘だ。ヴィム・ヴェンダースの4人目の妻として2年間を過ごした後、彼女は写真家になり、監督や俳優、女優たちの素晴らしいポートレートをたくさん残している。そういえば亡くなった川喜多和子さんが、イザベルはいい写真家になったわね、と言っていたことを思い出す。あれは、同じ新宿のゴールデン街にある映画関係者が多く集い店でのことだった。