2010 (2)  IT'S ALWAYS FAIR WEATHER

 私たちがパリに到着したのは、ちょうどクロード・シャブロルの訃報からほとんど間をおかない9月の半ばで、彼の追悼記事を掲げた雑誌はどこのキオスクでも目にすることになった。諸々の手続きで慌ただしい時間の合間に、ソルボンヌ近くの映画館Reflet Medicisですでに始まっていたシャブロル追悼特集へと幾度か赴いた。『不貞の女』や『血の婚礼』などの60〜70年代の作品を中心に上映は行われていて、ちょうどその頃のステファン・オードランやミシェル・ブーケと同じくらいの年齢だと思われる年齢層の観客を昼間の上映回でも多く見かけた。

 多くの人々が様々な場所で記録に残してくれているように、パリが映画の都であるということはすぐに体感できた。シネマテーク・フランセーズではちょうどその頃エルンスト・ルビッチ特集が終盤を迎えていたものの、デルフィーヌ・セイリグ特集、デヴィッド・リンチ特集、「ブルネット/ブロンド」と名指された企画展/特集上映がすぐ先に控えていたし、「Pariscope」を覗けば、Action Christine等々の名画座での古典作品を中心としたプログラミングに目は釘付けになるし、すでに公開からだいぶ時間は経っていたがジャン=リュック・ゴダール『ソシアリスム』やマチュー・アマルリック『オン・ツアー』等々が幾つかの映画館ではまだ上映されていることを知ることができたし、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー『あやつり糸の世界』のような珍しい過去作品がリバイバルされることを知ることができる。ちょっとしたDVDショップを覗いただけでも日本ではほとんど発売されていない貴重なDVDがごく普通に棚に並んでいるし、本屋を覗けば映画関連の書物は数限りない……まったく凡庸なカルチャー・ショックを記述しているだけの文章になってしまっていることに、気恥ずかしさを覚えないわけではない。私は率直にこの街の映画をめぐる環境に圧倒されてしまっていたのだった。

 その環境とは、しかしその多彩なプログラムといった量的な問題だけのことではなかった。渡仏してからおよそ1ヶ月、徐々に生活も落ち着きはじめ、シネマテークにも通い慣れたころ、ヴィンセント・ミネリ『ブリガドーン』の上映があることを確認して駆けつけた。場内はほぼ満席で、久しぶりにこの奇形的なミュージカルを目にしながら、現在パリでもたびたびお世話になっている廣瀬純さんが、以前このフィルムについてこんなことを書いていたことを思い出した。

山間の谷にある小さなしかし喜びに満ちあふれたチネチッタ。この町にはうっすらと、しかし「絶対的なかたちで」霧がかかっている。鬱蒼と茂る木々をかき分けて、それをこっそりとのぞき見ること、窃視、盗聴……。70年代のシネフィル君たちが言っていたように、映画を見ることは、そんなにしみったれた行為なのか! メダカの学校じゃあるまいし。映画を見ることは、映画を覆う霧を腕ずくで払いのけることではないのか。腕ずくで。パラドキシカルな思考の腕力によって、ドクサの霧を払いのけること。ミネリの言う「愛すること」や「信じること」とは、まさにこのパラドキシカルな思考の腕力のことなのだ。 (カイエ・ジャポン映画日誌)

 パリに降り立って以来、日本で映画を意識的に見始めていた頃からどうしても心の片隅で感じてしまっていたちょっとした閉塞感ーー廣瀬さんの言葉を拝借するなれば「しみったれた」感ーーが、身体からどこか抜けたような気がしている。もちろんこれは私個人の単なる浮ついた錯覚に過ぎないのかもしれない。単純に良いように見える面だけを都合よく眺めているだけに過ぎないのかもしれない(おそらく、事実そうなのだろう)。けれども、パリという街は映画に対して本当に開かれているし、それゆえに映画もまたパリという街に対して開かれている、そういう実感を抜きにしてこの街で映画を見ることは、少なくとも私にとっては、ひどく難しいことに思えてしまう。

 たとえば、ホークス『紳士は金髪がお好き』に一緒になって笑い合い語り合う父親と娘、あるいはフィンチャー『ソーシャル・ネットワーク』の公開初日に連れ立って劇場を訪れるハイテンションの若者たち、あるいは大晦日だというのにドーネン&ケリー『いつも上天気』を見終わって笑顔で席を立つ家族連れ……そういった人たちと一緒に、ごく当たり前のように多種多様な映画を見る体験というのは何にも代え難い。そういった環境がほとんど当然のものとして持続させられている状況、それに対する私的な羨望は、いささか軽率な見方であることは自覚した上でも、ちょっと自制することができない。

 映画を見ることは世界に対する新しい視点を獲得することだして、そこにはもちろん作品との出会いがまず何よりも必要だ。しかし同時に、そこにはその時間を勝手に共有することとなる、私の見知らぬ無数の「観客」という匿名的集団との出会いもまた必要なのだ。映画を見るということに伴って当然の(しかしとても複雑な)この問いを、私はこのパリという場所で再び思考し始めている、そんな気がしている。

 年明けから『おお至高の光』『コルネイユ=ブレヒト』等々の上映に併せてジャン=マリー・ストローブが来場し、様々なゲストとともに活発なトークショーを敢行しているReflet Medicisにて、今日は「テレラマ」特集の一本、近く日本でも公開されるウェス・アンダーソン『ファンタスティック・Mr Fox』を見た。『トイ・ストーリー3』のおもちゃたちとは正反対のベクトルを持ったパペットたちのチグハグな造形とアクションを、西部劇さながらのワンショットやメロドラマ的なクロースアップを挟み込みながら、圧倒的な軽さをもって映し出すこのフィルムには本当に感動した。エンドロールで余韻に浸っていると、音楽に併せて座席が大きく揺れるくらいに身体を踊らせる目の前の席の女の子に気がついた。潤む目頭とともに思わず手と膝で軽くビートを取らずにはいられなかった。

 明日にはこの同じ映画館で、ジャン=マリー・ストローブとジャック・ランシエールとの対話が予定されている。