2011年1月25日
赤木圭一郎主演の『霧笛が俺を呼んでいる』(山崎徳太郎、1960年)の冒頭にも登場したことで、ある種の横浜を明瞭に伝えているバンド・ホテルが閉館して10年以上経った。学生たちと横浜の「国際ホテル」について調べている。ホテル・ニューグランド、シルク・ホテル、そしてバンド・ホテルが大桟橋近くの「国際ホテル」に当たるだろう。豪華客船が大桟橋に到着すると、乗客たちは、それら3軒のホテルの客になったという。渡辺仁設計のニューグランドは健在だが、坂倉準三設計のシルク・ホテルは、ホテルとしての営業を休止してかなりたち、バンド・ホテルは取り壊されてドンキホーテになっている。その3軒のホテルについて学生たちと調べてみると、そのうち2軒がなくなったのは、他の理由もいろいろあるものの、横浜が国際貿易港としての役割を終え、港周辺に「国際ホテル」など必要なくなったことがもっとも大きな原因だ。ホテルよりも客を呼べるのはドンキだ。唯一営業を続ける「国際ホテル」であるニューグランドにしても、学生たちが関係者にインタヴューしてみると、外国人の客などもうほとんど来ないのだ、という。「国際色豊かな横浜」なんてもう存在しない。ちょっと残念だけど……。
バンド・ホテルについて調べてきた学生が、横浜ローカルのケーブルテレビ局から、ある番組が収められたDVDを借りてきた。「横浜ミストリー」という番組だ。「ミステリー」じゃなくて「ミストリー」なのが、古い横浜っぽい。赤木圭一郎や石原裕次郎による「日活無国籍アクション」のほとんどの舞台が横浜だった。ナヴィゲーターの女性と、老紳士が港の見えるレストランで、赤ワインで乾杯している。そこへウェイトレスがスープを持ってやって来る。今回の「ミストリー」は「ハマジル」(「浜汁」?)というわけ。ぼくの年代なら、「ハマジル」は「横浜ジルバ」であることなど知っている。老紳士の案内で、「ハマジル」の謎が次第に解き明かされるというのが番組。しばらくして、この老紳士の名前がテロップで出る。ウィリー沖山さん。ウィリー沖山さんは、日本のヨーデルの第一人者(http://www.youtube.com/watch?v=lt09kSqY0cI)にして、ジャズ・ヴォーカリスト。ヨーデルとジャズを一緒にやっているってどういうことだろう。スイスでもなく横浜でヨーデル唄うってどういうことなのか?さすがに「無国籍アクション」の街、ヨコハマだ。このウィリー沖山さん、ウィリーというファーストネイムがあるのだから、アメリカ人の二世なのかというとれっきとしたジャパニーズ。Wikipediaによれば、1933年、横浜生まれとあるから御年77歳。
この年齢の芸能界の人々は、なぜ英米系のファーストネイムを持っている人が多いのだろう。ディック・ミネ、フランキー堺、バッキー白片、フランク永井、ケーシー高峰(ちょっと毛色が違うけど)、ロミ山田……ある時代、このようにファーストネイムがカタカナの人がとても多かった。もちろん、今でもいるけどね。テリー伊藤、滝川クリステル、葉山エレーヌ、ビビる大木、デイブ・スペクター(笑)……。本名の人を除くとだいたい芸人だよね(テリーさんは芸人じゃないんだろうけど)。だから、昔に比べれば、カタカナのファーストネイムはずっと少ないと思う。フランク永井だってロミ山田(けっこう好きでした)だって、どう見ても日本人だよ。ケーシー高峰を除くと、共通点はジャズを歌っていたということだ。それも「進駐軍のキャンプ廻り」っていうパターンが多いね。いかにも「オキュパイド・ジャパン」という感じ。この同じ時代をジャズやカントリーに生きた小坂一也に『メイド・イン・オキュパイド・ジャパン』(河出書房新社)という名著があった。つまり進駐軍のキャンプだとロミ山田でもフランク永井でもなく、Romy YamadaだったりFrank Nagaiだったりする。弘田三枝子や伊東ゆかりもキャンプ巡りをしていたというが、May HirotaとかYuka Itoでなかったのはなぜだろう?
このウィリー沖山さん、長いことバンド・ホテルの最上階にあったシェル・ルームの支配人をなさっていたという。シェル・ルームというのはナイトクラブだ。ブルーのネオンサインが光っていたという。いしだあゆみの「ブルーライト・ヨコハマ」のブルーはシェル・ルームのブルーだと言われている。五木ひろしの「横浜たそがれ」も淡谷のり子の「別れのブルース」もバンド・ホテルで生まれたと言われている。ナイト・クラブというのは、大人の男の人と女性が音楽やお酒をバックに踊ることですね。でも、だいたいジャズが背景だから、ビッグ・バンドを従えて、さっきのカタカナのファーストネイムを持っている歌手が出演することになっていた。そういえば、横浜には、ブルー・スカイとかナイト&デイといったナイトクラブもあって、ナイト&デイからは青江美奈がデビューしたんじゃないかな。つまり、シェル・ルームっていうのは、往年の大人たちの遊び場。東京からタクシーでやってくる人もいたらしい。なんか矢作俊彦の世界だね。
この「横浜ミストリー」には、このシェル・ルームの貴重なライブの映像が含まれている。映像提供はTVK神奈川テレビ。あそこなら持っているでしょうね。1984年の映像だ。バンド・ホテルに入っていくウィリー沖山さん。ブルーのネオンサインで光るサイン。自動ドアが開く。最上階へ上がると、そこはシェル・ルーム。タキシード姿のウィリーさん。今宵のゲストは? な、な、なんとトニー谷!ピンクの襟にスパンコールがきらきら光る白いタキシードですよ!短めでテカテカのオールバックに黒縁のロイド眼鏡。そして、もちろん左手にはソロバン!唄うは「ベッサメムーチョ」。これホントすごいです。こういうものを文字で描写できないぼくの力のなさに無力感がつのります。ビッグバンドをバックに、ごく普通にトニー谷流に「ベッサメムーチョ」を唄うだけなんですが、ソロバンの音がまるでマラカスみたいなんだな。
ご多分に漏れずこの大谷正太郎ことトニー谷も立派にファーストネイムがカタカナ。日劇ミュージックホールで働いていたころ、外人客に「おおたに」の「たに」を「タニー」と呼ばれ、それが「トニー」になったらしい。彼の芸については小林信彦が『日本の喜劇人』で分析し、村松友視は長大な評伝『トニー谷、ざんす』を書いている。トニーグリッシュという得意で特異な言語を操りながら人々を笑いに巻き込んだ。小林信彦は、初期のタモリとトニー谷のと同質性を語っているが、ユーチューブでトニー谷が登場した「今夜は最高」を見ると(http://www.youtube.com/watch?v=WZ2TtAjjmTk)小林説の正しさが証明される。本当に「オキュパイド・ジャパン」の象徴のような芸人だ。
「ハマジル」に戻ろう。ウィリー沖山さんが次に訪れるのは、横浜に唯一残るダンスホールの「クリフサイド」。まるで『ラスト・タンゴ・イン・パリ』のような空間だ。周囲をキャットウォークがめぐるホールに、ビッグバンドとダンスをする人々。貴重と言えば貴重な空間だが、ここでも、まだ驚くことがある。ダンスを踊っている人々の平均年齢は70歳くらいではないか。そして「ハマジル」を踊れる人がいると最後にウィリー沖山が訪れる野毛のダンス練習場。そこで「ハマジル」を指導するのも老人だ。
ちょっと哀しくなってしまう。「ハマジル」を元気に踊る老人がいて、老後の健康法を学んでいるわけではない。もうかつてヨコハマにあったものは、無形文化財のようなものになってしまった。時代が変わったのだとしか言いようがない。皆、歳を取って、かつてあったものが弱々しく残っているだけだ。元気な何かにリニューアルされていない。バンド・ホテルの昔が、ドンキホーテの現在に変わってしまったとしても、悲しむことはないのかもしれない。バンド・ホテルが元気がなくなって、ドンキはすごく元気だ。バンド・ホテルの扉は閉じられるべくして閉じられたのだ。ぼくが、最後にバンド・ホテルを見たのは前世紀の1996年のことだった。中華街で食事を済ませ、散歩しているとバンド・ホテルが目に留まった。ウィリー沖山さんが通った自動ドアをくぐって中に入ると、薄暗いホールの奥にフロントがあった。老人がひとりフロントにいた。パンフレットをいただけませんか? パンフレットね、どこかにあったな。老ホテルマンは引き出しの中からホコリだらけのパンフレットを見つけ出した。フウーッと息を吹いてホコリを払って、それがぼくの手に渡された。もうすっかり元気をなくしていたバンド・ホテルだった。