こちら、パリでは年末の雪景色とは異なり晴天が日々続いている。もちろん1月中旬にはチュニジアからの移民達によるデモやそれに続くエジプトの話題を新聞各紙は日々取り上げていたするので、外の暖かい空気とは裏腹に何かしらの火種があるように思う。そんな中、1月下旬よりティエリー・ジュスの長編2作目『Je suis un no man’s land』が公開されている。公開日当日の日刊紙リベラシオンの映画欄では映画批評家フィリップ・アズーリ氏による批評があり、彼は監督と同郷のジャック・ドゥミ(両監督はナント出身)の色彩とモーリス・ピアラの『母の死』( 原題は『La Gueule ouverte』)の自然主義的な要素が混ぜ合わされた作品であり、かつフランスの音楽レーベルであるトリカテルレコードのポップスやピエール・エ・ジルのクリップを見ているようだと評している。映画と音楽、これらはティエリー・ジュスの関心の大部分を占め、それが自身の監督作品に必ず反映されているというのは、それまでのフランス人ギタリスト、ノエル・アクショテの一日を撮影した短編『ノエルの一日』から前作の長編第1作『Les Invisibles』までの一連の作品を見れば明瞭だろう。
物語は主人公であるミュージシャンであるフィリップ(フィリップ・カトリーヌ)は自身が幼年時代を過ごした街でのコンサートを終え(ステージングや衣装はフィリップ・カトリーヌの最近のライブのような一風変わったものになっている)、あるグルーピーの自宅に誘われることから始まる。彼女の自宅から逃げ、真夜中の田舎道を彷徨い彼の両親の住む家にたどり着く。明るい青に塗られた自分の部屋で昔着ていた水色のジャージと丈の短いオレンジのTシャツを着て、緑豊かな田舎道を車やスクーターで走る様子とゆるいリズムのシャンソンの組み合わせがほのぼのとして良いなと思う反面、どこにでもあるPVのような感じで、冒頭に述べたティエリー・ジュスの作品における音楽の扱い方とは何やら違う感じがある。例えば、前作の『Les Invisibles』ではミュージック・コンクレートとフリー・インプロヴィゼーションのインプロヴィゼーションのプロセスがひとつの重要な側面を担っており、彼らの「ある音を探す」行為が物語と対位法的に描かれていたのに対し、この作品ではひとりのポップスのミュージシャンを主役に据えているにもかかわらず、彼の演奏シーンはひとつしか映されない(もちろんこのシーンは『Les Invisibles』の感動的なラストの演奏に匹敵するほど感動的なのだが)。しかし、この作品の物語の構成をポップスの楽曲の構成と置き換えて考えてみると、どうやらティエリー・ジュス作品の重要なテーマである映画と音楽の関係性がこの作品『Je suis un no man’s land』においてもあるのではないかと田舎のバーでのシーンの演出を見ながらふと考えてしまった。このシーンでは、勘定を終えたフィリップが車で走っていて森の方へ差掛かった瞬間、また出発したシーンへと戻ってしまう。このシーンが複数回繰り返される。このシーンの繰り返しを一般的なポップスの曲構成のAメロ→Bメロ→サビの繰り返しのあるパート部分と置き換え、冒頭のコンサートからグルーピーに誘われ、彼女の自宅から両親の家に逃げ込むまでがイントロの部分に、ラストへと向かう一連のシーンをポップスでいうところの転調してからのサビの部分と置き換えて考えてみるとこの作品の構成がポップスの構成と酷似していることに気づくだろう。
かつて音楽家リュック・フェラーリは自身の作品の一部をla musique anecdotique (逸話的音楽)と呼び、私たちが「あ、あの音だ」と即座に想像可能なもの使用して(あるいは利用して)自身の楽曲を作曲し、ある種の物語を構成していた。ティエリー・ジュスの前作『Les Invisibles』での2人の音楽家の取り組みはフェラーリが死去する直前の活動と類似するものであり(実際、ノエル・アクショテは生前のフェラーリと共演しアルバムを1枚リリースしている)、そのような意味では『Les Invisibles』ある種のフェラーリへのオマージュでもあった。また、ティエリー・ジュス/ノエル・アクショテの映画におけるコラボレーションはフェラーリ(『大いなるリハーサル』シリーズ)、フレッド・フリス(『Step Across the Border』)に続く現代音楽と映画に関する音楽ドキュメンタリーの系譜の中に位置しているものであったが、『コードネイム・サッシャ』から始まるジュス/カトリーヌのコラボレーションはジュス/アクショテとは異なる音楽と映画のコラボレーションであるポップスと映画のコラボレーションの系譜(ミネリ、ドゥミ、スコセッシ、ジャームッシュ)の中に位置している。「映画と音楽」あるいは「音楽と映画」の関係を主題として作品を撮る映画作家は多くいる。しかし、この映画と音楽を仕切る「と」の領域で撮り続けている映画作家はあまりいない。本作のタイトル、『Je suis un no man’s land』が示す日本語でいうところの「私」を示す“Je”は主人公カトリーヌことをもちろん指し示すが、同時に監督であるティエリー・ジュス自身のことも指し示している。彼らのいる地域のことはよく知らないが、フィリップ・アズーリ曰くとても気持ちの良いところらしい。僕もそう思う。