スタジオ・マラパルテの宮岡秀行さん、西原多朱さん、そして大里俊晴さんのご協力のもと、nobody issue25にて「リュック・フェラーリを探して」と題した「リュック・フェラーリ映画祭・アンコール」についての小特集を組ませて頂いたのは2007年のことだったけれども、つい先日、その取材の際にほんの少しだけ挨拶させて頂いた、ブリュンヒルト・マイヤー・フェラーリさんに再会する機会があった。それは椎名亮輔さんに邦訳された『ほとんど何もない』の著者、ジャクリーヌ・コーさんによるフェラーリの楽曲「Symphony dechirée(引き裂かれた交響曲)」を題材とした劇映画、『Contes de Symphony Dechirée』の試写会でのこと。2007年の取材後、お礼を兼ねて少しだけブリュンヒルトさんにメールで連絡を取ってからというもの、時折思い出しように彼女の署名入りのメーリングリストが届いていた。2009年にフェラーリの10枚組電子音響作品集がリリースされていたことは記憶に新しいけれども、その後のいくつかの作品リリースのこと、あるいはフェラーリにまつわる(行けるはずもなかった)様々な場所で行われるイベントの等々……。今回の試写会もそのメーリングリストによって告知されていたものだ。メールの送られてくるアカウントは、ここ最近あまりマメに確認しないようになってしまっていたため、もう少し気づくのが遅れていたら……と、少し反省。
上映時間の20分ほど前に会場となったアトリエに到着するも、エントランスのそれほど広くないスペースには、ブリュンヒルトさんやジャクリーヌ・コーさんの知人らしき人々がたくさん詰めかけている。ちょっと物怖じしてアトリエの前で佇んでいると、入り口近くにいたとりわけ明るい声色で話をしていた女性に「映画を見に来てくれたのかしら?どうぞ中へ入って!」と声をかけられる。その声の主がジャクリーヌ・コーさんその人であると知ったのは、上映直前の挨拶のときのことだった。大里さんへの追悼文集『役立たずの彼方に』には、ブリュンヒルトさんによる美しい手紙が納められている。短めの金髪に色鮮やかなファッションを軽やかに着こなすブリュンヒルトさんは、その言葉に滲む人柄と寸分違わない本当に清々しく優しい方だ。上映を待つロビーで彼女の姿を見かける。おそるおそる「こんばんわ、すみません、ブリュンヒルト・フェラーリさんでしょうか」と尋ねると、「ええそうよ」と満面の笑顔で答えを頂く。そこから、ほんの少しだけお話を交わした。取材のときのこと、大里さんのこと、追悼文集のこと……。詳しいことは覚えていないけれども、とても嬉しい気持ちになった。
さて、この日上映されたジャクリーヌ・コーさんの映画は、そのタイトル通りリュック・フェラーリの楽曲、「引き裂かれた交響曲」を主題、否、素材としたものだ。「引き裂かれた交響曲」の実際の演奏の様子を撮影した映像をその基盤に置いている(この映像作品は日本でも2009年に同志社女子大学にてジャクリーヌ・コーさんの講演とともに上映されていたようだ)。フェラーリのこの楽曲はおそらく初めて耳にしたためあまりはっきりとしたことは言えないけれども、様々なオーケストラ楽器が用いられながらも、決して「ひとつ」のハーモニーに収束しないような様々な響きが遊び合い(弦を擦るようなノイズが特に印象的だった)、静と動の中間のグラデーションをつねに維持し続けている、そんな楽曲だった。そしてそこから二次的に生み出されたこのフィルムもまた、そんな曖昧なグラデーションを生み出すような運動の内部にある。
決して広くはないホールの中で、ひとりひとりの演奏者の隙間を縫うようなキャメラワークによって捉えられた演奏風景。そこにまったく別種の映像が折り重なっていく。田舎の一軒家にヴァカンスに訪れたと思しき5人の女の子たち、その彼女たちの奔放な運動が被写体の中心だ。彼女たちは、もちろん台詞も何もなく、その自然に溢れた空間で自らの身体を躍動させ、晒け出す。ジャック・ロジェの『オルエットの方へ』を思い出さずにはいられない要素の数々だが、しかし実際そこに完成した映画はまったく別の趣を有している。というのもジャクリーヌ・コー曰く、「フェラーリ的な方法によって撮られた」というこのフィルムでは、一切の台詞も同時録音の音響もなく、「引き裂かれた交響曲」のサウンドトラックだけが音声的な側面を占有しているからだ。その上で、監督による「フェラーリ的」なる表現をどう捉えるか。
その最も明瞭な痕跡は、かつての大里さんの言葉を借りれば「俗っぽいエロティシズム」と言えるものになるだろう。序盤のワンシーンでは、裸の女性と服を着た男性が池の前に座り込む様子がフィックスで捉えられている。これはもちろんモネの「草上の昼食」のパロディだが、このシークエンスの瑞々しさには、ジャン・ルノワールの『草の上の昼食』(あるいは『ピクニック』)を、同時にパロディの対象とするかのような野心が滲んでいるように見えた。こうした試みを、一種の「悪ふざけ」だと見なす向きもあるのかもしれない。でも、そんな「悪ふざけ」への真摯で激烈な態度こそ、リュック・フェラーリという音楽家が実践した、命がけの創造行為の一端であったのではないか。フォンテーヌ・ブロー派の絵画に対する彼のパロディを思い出してもいい。つまり、ある種の俗悪なるものを崇高なるものの隣に、当然のようにふと並ばせてみせることがそれだ。
だからジャクリーヌ・コーのこのフィルムは、その意味でいわゆる「ミュージック・ヴィデオ」的であるとも言えるし、そうでないとも言える。音に由来するある種のステレオタイプなイメージの積み重なりの中に、ふと垣間見えるまったく別種のミニマルなイメージ。厳かで静かな教会の内部を、アスレチックを楽しむ子供たちのように動き回る女たちの歩み(加藤直輝監督の『渚にて』を思い出す)。窓ガラスに押し付けられた皮膚の歪みの生み出すマーブル。
そういった種々の映像と、フェラーリの作曲した楽曲、そのふたつによる二重奏が時に絡み合い、時に不協和音を生み出す。かつて目にしたジャクリーヌ・コーさんによるフェラーリのドキュメンタリーは、良くも悪くもごく形式的なドキュメンタリーの枠をはみ出さないものであるように感じてしまったが、今回の作品にはそれを遥かに超える冒険が詰め込まれているように思えた。本当に面白かった。ブリュンヒルトさんとコーさんによれば、どうやらこのフィルムは日本でも上映される計画があるらしい。その際には是非どうか、たくさんの方に目にしてもらいたい。