Smile by Elvis Costello

2011316

 

 『ヒアアフター』が上映中止になったという。もちろん東北関東大震災の影響だ。『ヒアアフター』のサイトには、「本編内には本震災を連想させる内容があり、この度の震災被害の被害状況を鑑み、上映を中止することにしました」とある。(http://wwws.warnerbros.co.jp/hereafter/news/)こうした自粛は、自粛の連鎖ででもあるかのようにいろいろな場面で見られる。樋口泰人のように急いで劇場に駆けつけ、もう一度『ヒアアフター』を見る律儀な態度が正しい態度だと言えるだろう。(http://www.boid-s.com/archives/2615887.html)樋口泰人も書くとおり、このフィルムは「事後」の映画であって、まさしく、震災に被災し、死に対面した人たちのこれからが語られている。人と人とが、大きな災禍の後、どうやって結びついていくのかこそ、この映画そのものであり、そして、今、被災地にいる人たち、そしてぼくらの現在と未来である。

 このフィルムを見たばかりのぼくにとって、ここ数日、テレビで放映される映像は奇妙に既視感のあるものだった。『十戒』をはじめ海が真っ二つに砕けるような映像は、「映画で」何度も見たことがあったからだ。もちろん南三陸市や宮古市を襲う津波の映像は、『ヒアアフター』の冒頭の映像よりも凄かった。当たり前のことだが、未曾有の津波の大きさは、プロフェッショナルが撮影したものでなくても、視聴者撮影の映像でも十二分に伝わってきた。避難所にいる老婦人も瓦礫の山を前にして、まるで戦争映画の戦後の映像を見ているようだ、と語っていた。戦争も津波の体験したことのないぼくらは、現実に起こった周囲の出来事に既視感を感じるとき、「まるで映画のようだ」と嘆息する。映画を現実を測る基準にしてしまう。「映画のように」世界を見てしまう。セルジュ・ダネーがずっと前から語っていることだ。

 「事後」ではなく「渦中」の映像は、徹底して物語を欠いている。信じがたいくらいの大きな波が押し寄せて、有無を言わせず、すべてを呑み込んでいく。視聴者の撮影したそうした映像の背後には、事象を解説する物語などない。怒声や叫声、言葉にならない音声──それらも津波の怒号のような大音響にかき消されていくだけだ。そんな物語を欠いた悲惨な映像を「我欲が招いた天罰だ」と解説する知事が、ぼくらの東京の代表者であることを、ぼくは心から恥ずかしく思う。一度、口に出した言葉は撤回しようが謝罪しようが元に戻るものではない。まして、ぼくらは彼の口からそんな言葉が出るのに呆れてしまうと同時に、彼ならばそんなことを考えているのだろう、と納得してしまう。しかし納得してはいけないのだ。彼が立候補を表明した日に地震と津波が起こった。4月10日が東京都知事選挙であることをぜったいに忘れないでおこう。

 悲嘆、哀惜……そんな言葉ばかりが気になる。ぼくの知人のスポーツライターは気仙沼出身だが、まだ近親者の安否が分からず涙する場面が映る。阪神大震災のときもそうだったが、直接ではないけれども、知人から少し辿れば、被災している方々の固有名に行き着く。ぼくの知人の妹さんの安否が分からないでいるわけだ。南三陸市、陸前高田市、宮古市、気仙沼市、大船渡市、そして釜石市……人人との関係は連鎖していく。テレビのモニターの向こう側で「重油が足りません。ガソリンがありません」と訴える人たちとも、ぼくらは関係を持っていることになる。そして、地震と津波が発生してから5日目。乾パンと水でもつのは2日、カップ麺でもつのは5日という中井久夫の言葉を読んだばかりだ。彼は1週間すると美味しい食事をしないと精神的に苦しいと書いていた。被災地で公民館に集まり、小さなコミュニティを作り、いろいろなものを持ち寄って自主的に食事を作っている人たちが報道されていた。瓦礫を燃料に、鍋を乗せ、暖かい味噌汁とごはんが美味しそうだった。「箸一本もなくなった。残ったのは命だけ」と険しい顔を向ける老婆と、おばさんたちが作った味噌汁とごはんをいただき、優しい笑顔を向ける消防団のおじさんたちは対照的だった。

 そう、その地震から、津波から5日間経過した。避難所の生活の苦痛を訴える人々の背後で、互いをつつき合いからかい合い、ジャンケンを始める子どもたちの映像が見え始めた。会津若松市で放射能測定をし、被曝していないことを確認して「安心しました」と語る父親の両側で、父親の手を片手で握り、もう片方の手で、微笑みながらVサインを出し続ける男の子のやんちゃそうな兄弟が映っている。『ヒアアフター』の冒頭から、映画は、アッバス・キアロスタミの『そして人生は続く』に移ってきたようだ。被災者たちは、丘の上に大きなアンテナを立てて、W杯の中継を聴こうとしていた。被災している人々だって、W杯のフットボールの実況を聴くことで、別の世界と繋がっている。周りには確かに多くの死があった。けれども水は少しずつ引いていった。瓦礫の間を、細い道路が通うようになった。もうカップ麺はつまらない。暖かいご飯を美味しいおかずと味噌の香りが漂う味噌汁が欲しくなる。フットボールはどうなっているんだろう?長友は元気かな?インテルは自粛なんてしていなかった。腕に黒い喪章は巻いていたけど、精一杯のゲームをしていた。「少しでも元気を与えることがぼくの仕事ですから」と長友佑都は微笑んでいた。「がんばろう!神戸」と書かれたヘルメットを被ってバットを振り続けたオリックス時代のイチローを思い出す。スマイル!

 朝、勤務先へ向かうクルマの中で聴くラジオから、エルヴィス・コステロが唄う『スマイル』が流れてきた。「スマイル/君のハートが痛んでいても/スマイル/君のハートが壊れかけていても(……)/スマイル/泣いていてなんになるだろう/君が微笑みさえすれば/人生にはまだ価値があるって分かるだろう」とても単純な歌詞だ。でも、いい唄だった。