今回このブログを書かせて頂くことになった私たちがパリという場所に到着したのは昨年9月で、あまりに遅いスタートになってしまいましたが、ここ数回のエントリでは昨年後半の3ヶ月強のことをかいつまみながら記させて頂ければと思います。
まず私たちがパリという場所で右も左もおぼつかない時期にまず目にすることになったのは、そこに住む人々の真っ直ぐで飾りのない「怒り」だったのだと思います。
この秋、政府の年金改革案に対してフランス全土が怒りに震えていたことはどれだけの方がご存知でしょうか。年金制度の改革で財源確保を狙うサルコジ政権への反発は、公共交通機関やガソリンスタンドの大規模なストライキをその中心とすることばかりではなく、多くの中高生たちが授業をボイコットし、「活動家」としてデモに参加していることも話題になっていて、 「レ・ザンロキュプティーブル(アンロック)」誌の777号では「non,non et non! 」と題された今回の運動に伴う特集では、そういった学生たちの姿に大きくスポットが当てられていました。
ジャン=マリー・ストローブの『ジョアシャン・ガッティ』は、昨年モントルイユにて警察が発砲したフラッシュボール(ゴム弾)を浴びて片目を失った活動家/映画作家ジョアシャン・ガッティについてのフィルムでしたが、今回の運動の中では同じモントルイユで今度は高校生がその標的となり、その鮮烈な傷跡を刻まれた「顔」を、もちろんこの運動に参与する中高生たちの誰もが目にしているはずです。私の住むアパルトマン近くでもバスの進路を塞ぎその車体を蹴りつけ、警官たちと対峙する多くの若者たちの姿を目撃しました。
フランス全国高校生同盟(UNL)の総長、弱冠17歳のヴィクトル・コロムバニ(Victol Colombani)の姿は「アンロック」の特集内でも大きく取り上げられていましたが、様々な動画サイトでも彼の姿を見ることができます。とても小柄で線の細い体躯ですが、その声はとても堂々としていて真っ直ぐです。そして、彼の周囲に集まる高校生たちの表情がとてもいいのです。誤解を招く表現かもしれませんが、あたかも彼らは学園祭の準備をしているかのような雰囲気すらあるようにさえ見えるのでした。
もちろん実際に警官隊に対峙したりバスに蹴りをかましたりといった彼らの姿に「暴力」なるもののネガティヴな側面が見えなかったわけではありませんし、実際のところすべての学生たちが本当に「運動」それ自体に意識を持っていたのかどうかもわかりません。しかし、同時期にYoutubeなどで目にした、あたかもその参加者たちがすべてを主体的に選択しているかのように見せられた「反中/反日デモ」(若松孝二『キャタピラー』での婦人隊の行進を思い出さずにはいられませんでした)の、無意識に制度化された「儀式」に並ぶしかめっ面を見ることにつきまとう寒々しさとは対極のものが、この運動に参加する多くの若者たちの顔を見ることにはあったような気がしています(もちろん子供たちだけではなく、この制度の直接的な対象となる年長の方々の姿も私たちは幾度も目にすることになりました)。
もっと単純に、もっと直接的に怒りを表現することが、私たちには可能なはずなのではないでしょうか。「non」という言葉をより肯定的な方法によって、肯定の徴として使うこと…あるいは否定と肯定をまったく同じものとして使うこと…。