Report from Cannes 02 | 5月17日

 2日目、クロワッサン×2、スクランブルエッグ、ベーコン、ヨーグルト、それからコーヒー。ホテルのビュッフェ形式の朝食をたっぷりと食べてから、10時15分発のシャトルバスに乗り込む。東京の映画祭でも同じことだし、そもそも当然のことだけれども、ひとつの映画祭でなるべくたくさん映画を見ようとすると、適切な時間に適切な量の昼食や夕食を取る時間を捻出するのは至難の業だ。朝早い時間か、夜遅い時間にしかまともに食事を取れない。本日のスケジュールも例に漏れず、合間にのんびり食事を取っている余裕はない。

1本目は、コンペ外作品ジョディ・フォスター『The Beaver』、のつもりが、会場を間違えていたことに上映直前の監督舞台挨拶の段階で気づく。もちろん退出なんか恥ずかしくて今更できない……。気を切り替えて、「ある視点」部門のOlivier Hermanus『Skoonheid』を見ることに集中する。
普段はごく普通のお父さん、一家の大黒柱で、材木会社を経営していて、妻の望むようにちゃんと家も建てた。そんなお父さんが、たまの休みに隠れ家めいたところでゲイの仲間たちとフリーセックスを楽しむ……という、決して珍しいものではないと思うけれど、それなりに過激な物語。その過激さが濃縮された激しいアクションを伴うシークエンスが、全体的には落ち着いた語りの合間合間に挿入される。おそらく作り手の側からすれば「ここを見てくれ!」という瞬間なのだろうけども、とはいえ破綻も何もないからまったくドキドキしない。それが人によっては美点なのかもしれないが、個人的には退屈にしか思えなかった。ただ、関係を迫ろうと狙っていた若い男(友人の息子であり、娘の恋人であり、このフィルム最大の被害者…)の交遊関係を目撃したときの、オヤジの哀愁漂うピュアな横顔はなかなか良かった。こういう表情は「オヤジ/ギャル」という関係だと、なかなか成立しにくいものなのではないかと思う。

ポランスキー『テナント/恐怖を借りた男』やドワイヨン『恋する女』などに出演していたエヴァ・イオネスコ『My little princess』、「批評家週間」作品。美しい小学生の一人娘をあたかも着せ替え人形のように扱って、「生活の糧」且つ「自己表現」としてのエロ写真撮影に熱中する、母親役のイザベル・ユペールの振る舞いが、どこか登場人物それ自体の「薄さ」を体現したかのような「紋切り型」の演技に意識的に留まっているように見え、その点に関してはとても興味深いものを感じた。ヴェルナー・シュレーターの『Malina』という「分身」を主題にした作品でのユペールのそれにどこか共鳴するようなクリシェ、というよりは“キッチュ”な振る舞いというか……。決して悪い作品だとは思わないが、こういう題材で映画に綻びが生まれないというのは、どうも寂しい気がする。ある意味でソフィア・コッポラ作品に対するアンチテーゼにも成り得るような作品であっただけに、残念。ユペールの友人アーティストを演じていたドゥニ・ラヴァンの体現する「汚れ」にこそ、真にこのフィルムを輝かせる可能性はあったのではないかと勘ぐる。

「監督週間」のブラジル作品、Karim Aïnouz『O Abismo prateado』。「ダルデンヌ以降」と一括りにしてしまうことにはやや抵抗があるけれど、被写体とキャメラとの間の「距離」をひとつの尺度とする、ある種のリアリズムの公式に寄り添っただけ、という感触以外ほとんど何も感じ入る所がない。それなりに見れてしまうので苦痛ではなかったし、激しいセックスや自転車での転倒からクラブでのダンスまで、主演女優の熱演に対しては頭が下がるが、そこにはある種の「スタイル」以上のものを、見出せはせず。

上映後、同じ作品を見ていた坂本安美さんと少しだけお話を。フィリップ・アズーリにもほんのちょっとだけお会いする。今見たばかりの作品に対する不満を口切りに、坂本さんに昨日のボネロの素晴らしさ(残念ながら会期中には見れなさそう……)や、日本でのことを伺いつつ、昨日のテシネについて何がそんなにダメだったのかと聞かれたり……。思い返すと、テシネは自身の方法を危険に晒しているという意味では、『O Abismo~』とは比較にはならないなと、話の中で少し反省する。

この日最後の作品は「ある視点」部門、エリック・クー『TATSUMI』。「劇画」の生みの親である漫画家辰巳ヨシヒロの作品を元にしたアニメーション作品。否、正確には、このフィルムは「漫画」そのものを「被写体」としたドキュメンタリー作品だと見なすべきなのだろう。辰巳氏自身の過去と、そして彼の生み出した劇画作品たちが、辰巳氏本人のナレーションを媒介に絡み合っていく。クリス・マルケルの『ラ・ジュテ』について ももちろん考えたけれど、それ以上に、一冊の本を被写体にして、監督サッシャ・ギトリ自身がひたすらそこに書かれた内容について語り続けるという、『ジャンヌ・ダルクからフィリップ・ペタンまで』という奇妙な作品を思い出した。時に色彩を、時に空間の差異を与えられながら、登場人物たちは決して自らの身体に与えられた「線」としての身体を放棄しない。「この作品については、既にストーリーボードが劇画の中で完成していたので、作業はシンプルなものだった」と監督本人は語るが、そのシンプルさを選択する勇気もまた、映画作家としてのひとつの資質にほかならないだろう。

この作品の最も素晴らしい点、それは、世界はやるせないほど残酷で、猥雑で、悲劇的で、恥知らずで、クソだらけであり、ゲロだらけだという辰巳ヨシヒロ作品における視座を、エリック・クーがほぼまったくフィルターをかけずに提示していることにある。終盤のワンシーン、どこかの街の本屋の中で、ゲロまみれの世界に絶望し続けた辰巳作品の登場人物たちが、自身や他の登場人物たちの描かれた漫画を手に、薄く笑みを浮かべている。このシーンを見たとき、どうしようもなく目元が潤んでしまった。無論、不満がないわけではないーーとりわけ音響的な処理に関しては安易な感は否めないーー、けれども、僕はそういった不器用さを含めてこのフィルムのことが大好きである。

帰り道、時刻は既に2時近く。この日一日ほとんど何も食べていなかったので、ここはクー作品に倣って、「ジャンク」としての世界を「食」で堪能して一日を終わらせるべきだと、マックでハンバーガーをテイクアウトする。ホテルまでのタクシーの運ちゃんに、「マクドナルド?」と聞かれたので「ウィ」と軽く答えた。「クセーよ、袋閉じろ」と怒られた。