18日最後の一本は、園子温『恋の罪』。監督週間会場の熱気は非常に高い。現在、国際的な関心を最も寄せられている日本人映画監督の一人であることは間違いないし、その強烈なスタイルを国内の興行に関しても自身の武器としてポジティヴに活用できるという意味においては、非常に「巧い」作家なのだと正直に思う。
小説家とのセックスレスな夫婦生活に生きる自身に疑問を感じる若い妻(神楽坂恵)は、ふとしたきっかけで素人AVに出演することになり、そこで自らの変身願望の可能性を見つける。そして彼女が出会った色情狂の大学助教授かつ「立ちんぼ」の女性(冨樫真)は、「言葉とは身体」であり「言葉には意味が必要」であると言い、自らの「言葉=身体」の「意味」を獲得するために、自身の身体を一発5000円の売春行為に捧げ続けている。彼女たちが勤しむ、「セックス=労働」による「自己実現」は、そのまま『恋の罪』というフィルムそれ自体の論理であるように見える。彼女たちが自らの衣服を脱ぎ捨てるのは、自らの裸体それ自体に潜在する可能性を追求するためではない。それは、既に用意された世界に仮構された、「キャラクター」という新たなフレームを身に纏うための「通過儀礼」であり、それはまさしく「自己実現」の殻を被った「売春」行為にほかならない。
廣瀬純に倣えば、園子温は紛れもない「シネキャピタリスト」の一人であるだろう。イメージたちを極限まで労働させ疲弊させ、その剰余価値を搾取することで自身の世界を構築することに、おそらく一遍の戸惑いもないのではないか。もちろんそこには『愛のむき出し』の満島ひかりのような例外的な輝きを勝ち取る可能性がないわけではない。このフィルムにおいても、たとえばスーパーの実演販売の台詞を口ずさみながら鏡の前で懸命にポージングをとる神楽坂恵の姿は、例外的にある種の「演技」なるものの真実を曝け出す前兆を見せているかもしれない……けれども、最終的に僕はこのフィルムの息苦しさにまったく首肯できない。なぜ「裸体」を「裸体」として肯定できないのか、なぜ「売春」を「売春」として肯定できないのか、なぜ「セックス」を「セックス」として肯定できないのだろうか?
失言を理由にカンヌからの追放を命じられてしまったスキャンダルばかりが話題になっているけれども、19日の1本目、ラース・フォン・トリアー『メランコリア』は、実際かなりの力作だ。「スクリーン」や「フィルム・フランセ」などの星取りでもかなりの高評価を集めている。映画は、ダンスト演じるジャスティンの結婚式での顛末を描いた前半部と、シャルロット・ゲンズブール演じるクレールの家族とジャスティンとの最後の数日間を描く後半部の2部構成。異様な反響を巻き起こした『アンチクライスト』をタイミングを逃して未見のままだし、そういえば『マンダレイ』も見ていなかったのでトリアーを見るのは『ドッグヴィル』以来のことになってしまうけれど、俳優たちの素晴らしさに本当に魅せられた。シャルロット・ゲンズブールも、シャーロット・ランプリングも、ジョン・ハートも素晴らしかったけれど、しかし誰よりもキルスティン・ダンスト! 一緒に見ていた坂本さんや槻舘さんも絶賛していたけれど、「ダンストってこんなに凄い女優だったか?」と、いちファンである僕も本当に驚いた。
いつもながらのことだが、本作においてもトリアーは作り手である自身のエゴ=悪意の刻印を忘れていない。しかし本作においてそれは、『奇跡の海』から『ダンサー・イン・ザ・ダーク』、そして『ドッグヴィル』へと至るサディスティックな「神の視座」の変遷からはやや距離を置いて、月に並んで夜空に浮かび上がる惑星「メランコリア」をCGで映し出したロングショットの中に、決して起こりえないはずの「ハレーション」を合成する、というささやかな徴に留まっている。もちろんトリアーらしい悪意に変わりはないと思うけれども、同時にそこにはどこか「慎み」めいたものの萌芽を感じた。基本的にはいつもと変わらない方法論で撮られた『メランコリア』だけれども、その「慎み」のありようは、今作におけるキルスティン・ダンストの素晴らしさにも関わっているのではないかと勘ぐる。が、今はまだ考えがまとまらない。そのことは、このフィルムの印象的なオープニング(あたかもフランドル絵画のような幻想的な質感を有した、実写映像をCG加工したと思しきいくつかのスローモーション映像)とも関係がある……のだろうか。
続けて「ある視点」部門、ホン・サンス『The day he arrive』。『メランコリア』の直後だということもあるけれど、心底ホッとした。重くて暗くて辛い映画ばかりを見続けながら思い悩む私たちのことを、映画はこんなにも素晴らしい「軽さ」を生きることができるんだよと、ホン・サンスは軽く鼻で笑い飛ばしてくれているかのようだ。4本の作品を撮った後田舎へと引っ込んでいた映画監督の男が、ソウルへの数日間の旅行へ出かけ、そこでいくつかの再開と出会いと別れを経験する……。いつもと同じ「任意」の時間と場所を舞台にした、まったくたわいもない出来事の続く世界が、なぜこんなにも面白いんだろう! けれども今作のホンさんは、いつもよりなんだかロマンティックだった気がする。女優さんに綺麗な人が多かったこともそうなんだけど、それに加えてモノクロ撮影が効いている。降りしきる雪の中で、やや唐突に始まるキスシーンは、ちょっと身震いするくらい素晴らしかった。そういえばこの日の夜、いい感じに酔っぱらっていたホン・サンス監督を街中で見かけた。映画の登場人物まんまであった。
コンペ作品、河瀬直美『朱花の月』。想像を遥かに超えた酷さに愕然とするばかり。単純に出来が悪いだけならば笑って済ませれば良いが、キャメラの前に存在する「他者」を、一義的で恣意的なプロパガンダのために「利用」するこのフィルムの卑劣さ、醜悪さには本当に辟易する。トリアーを追放した映画祭関係者たちは、いったいこのフィルムのことをどう見ているのだろうか。
監督週間、Jean-Jaques Jauffret『Après le sud』。周りの評判はあまり芳しくなかったけど、僕はこの作品を大いに支持したい。5人の登場人物たちがすれ違っていた「ある日」の出来事が、個々の登場人物たちのエピソードとして分割されて語られていく。『エレファント』のようなその語り口に関心は集まっているようだが、個人的にはそれよりもひとつひとつのスポットの「当て方」に目を惹かれた。些細な身振りや出来事に寄り添って、ひたすらにロッセリーニ=バザン的な「待機の姿勢」を堅持するという、ここ数日見た若い作家たちの作品に決定的に欠けていたこの感覚を、このフィルムは自身の拠り所にしている。こういった態度がやや「アカデミック」な趣に過ぎると一緒に見た槻舘さんやクレモン君は言っていたけれど、僕はむしろその誠実さを買いたい。安易なイメージの捏造を試みるのではなく、ただただそこに「ある」ことを徹底する、俳優たちの姿がとてもよかった。