会期も終了に近づくと、上映数自体が激減する。マーケットの上映を加えればそれなりの数があるけれども、そちらにはプレスパスでは当然のことながらなかなか入れてもらえない。その反面、賞の発表が近づいていることもあって、プレスルーム近辺に集まる人々の数はどんどん増えているみたいだ。星取りが掲載されている「スクリーン」や「フィルム・フランセ」の日報は、昨日までだったら夕方近くでも余っていたのに、この日は朝10時過ぎには全滅である。
毎日余裕がなくて映画のことばかり書いていたけれど、槻舘さんやクレモン君に誘われて、一日の上映が終わると色んなパーティに連れて行ってもらったりもしていた。とある場で、坂本さんに現「カイエ・デュ・シネマ」のステファン・ドロームを紹介して頂いたけれども、突然のことでまったくうまく話せず、正直かなり凹んだ。せっかく気を使って頂いたのに、ごめんなさい、坂本さん。
ところで、こうやって毎晩毎晩、深夜3時4時まで街中でおめかしして大騒ぎしている様子の只中にいると、別に映画のことなんかどうでもよくて、ただただパーティが好きなだけの人もたくさんいるんだろうな、とか思えてしまう瞬間も沢山ある。だから、あまり素直にその場を楽しめなかったことは告白しておきたい。もちろん、招待された映画作品の関係者たちにはその時間を心ゆくまで楽しんでほしいと思うけれど、しかしそれとは別に凄まじいズレを感じてしまったのです。
会期中、とある上映を待つ列で、日本のメディアの人たちと思われる人たちが少し後ろに並んでいて、結構なヴォリュームの話声が耳に入ってきたことがあった。
「席は取ってもらってるからなー、一応入らないと」「上映の前に挨拶があるから、それが終わったら出て行けばいいんじゃない?」「そうそう、今日は美味い中華にでも行こうか」「いや、せっかくだから白ワインに牡蠣でも食べようよ……」。
もちろん、「祭」なんだから各々好きなように楽しめばいいんだし、こういう場所でハメを外すのは全然悪いことじゃない。そもそも、旅先で美味しいものを食べることというのは、無条件に素晴らしいことだ。でも、彼らのような人たちには、多分「映画」そのものは「食」と比べれば遥かにランクが低い、「オマケ」みたいなもんなんだろうな。「映画祭」という場は、映画を無条件に祝福する場所では必ずしもあるわけじゃなくて、映画をどうにかして食い潰そうとする人々がたくさん集まる場所でもあり、それは「カンヌ」という場でも同じなのだろう。この感覚だけは、忘れてはいけないと思った。
さて、昨日お披露目となった残り少ないコンペ作品のひとつ、ペドロ・アルモドヴァル『La piel que habitode』へ。前作『抱擁のかけら』は巨匠の貫禄を漲らせた重みある傑作だったけれど、今作はちょっと様子が違って「ヘン」なアルモドヴァルのラインである。英語タイトルは『The skin I live in』、「私の住まう肌」と訳せるだろうか。多分、ネタバレのないままに見てもらうべき作品だと思うので、細かいことはまだ書かないようにしようと思うが、タイトル通り、映画の中心におかれるのは「肌」であり、その主題を通してアルモドヴァルは、今日における映画の存在論を『抱擁のかけら』同様問い直している。「ヘン」なアルモドヴァルと書いたが、しかし今作では色彩やら人物の造形やらといった点における過剰さは、その物語の過激さに比べて抑えられていて、「皮膚移植」という「表層」の「操作」に取り憑かれた男と、それに対して暴力的に身体を切り刻まれることになる「或る女」の関係が、よりヒッチコックに接近したサスペンスとして描かれていく(このフィルムのアントニオ・バンデラスは、『汚名』あたりの、ちょっとイカれたケイリー・グラントに接近していたような気もする)。
このフィルムにおいて実に興味深いのは、「同じ人間が異なる人間になる」ことと「異なる人間が同じ人間になる」という、ふたつの「分身」に関わる問いが、物語の論理と映像の論理との間において、見事にパラレルなものとして成立していることにある。それを解説してしまうとネタバレになってしまうのだけれども、それを最終的に同時に肯定するものが「肌の上の肌」としての、たんなる一着の「ドレス」であるということは記しておきたい。そして、そのドレスに伴った結末の描写におけるあまりの「薄っぺらさ」は、『抱擁のかけら』のラストシーン、何のことはない劇中で撮影されたラブコメ作品のワンシーンの異様な「軽さ」と同様に、逆説的にアルモドヴァルの演出の凄みを感じさせられる何よりの瞬間だったように思う。
コンペ作品、ヌリ・ビルゲ・ジェイラン『Once Upon a Time in Anatolia』。2000年代カンヌ常連の作家だけれども、日本でまともに紹介されたことはほとんどなかったはず。僕にとっても初ジェイラン。映画は、殺人を犯したひとりの男が、自分が殺した男を埋めた場所を捜して、警察や検死医たちとともにアナトリアの荒野をパトカーでひた走り続けるロード・ムーヴィー的な前半部と、その男の「検死」をめぐる後半部で構成される。広大且つ寂寞とした風景を捉えた緊張感溢れるショットと、目の前で起こっている事態とはおそらく何の関係もないような登場人物たちの会話。おそらくはそのふたつの要素の関係性に何かを見出そうとしたフィルムであるのだろうが、それなりに笑えてしまう俳優たちのコメディタッチな身振りや台詞が、どうも中途半端な「妥協」のように見えてしまう感は否めない。どうせならば、ゴリゴリのハードコアに突っ切ってもらいたかったものだが、これは身勝手な感想だろうか。
ところで、殺人犯の男が死体を埋めた場所を発見することになるのは、映画が始まってから90分近くも経ってからのことである。「ここだ」という台詞に併せて場内から「おめでとう!」的な拍手が巻き起こり、場内は爆笑だった。ある意味、こういうリアクションを起こせることは凄いことだと思った。けど、ねえ……。