カンヌから帰ってからの2週間ほど、パリのいくつかの上映施設で、「ある視点」、監督週間、批評家週間の諸作が、いくつかの上映施設で特別上映されていた。その中で、カンヌでは見ることのできなかった作品をいくつか見ることができた。
「ある視点」部門オープニング作品、ガス・ヴァン・サント『Restless』は、死に至る病を背景にしたラブコメ(平たく言えば「難病もの」)という物語にやや鼻白んだものの、これが悪くない。その理由は、デニス・ホッパーの息子ヘンリー・ホッパーと、『アリス・イン・ワンダーランド』の記憶も新しいミア・ワシコウスカのカップルを、いかに魅力的に撮るかということに映画が徹していたからだ。余計なイメージショットに見えてしまう所も多々あるけれど、ぼーっと見ていると死という主題を扱っていることをほとんど忘れてしまうほど、彼らの姿は生き生きと画面に定着している。彼らの悲しい運命=物語は、ヴァン・サントにとってふたりを撮るための、ほとんど方便だったのではないかとさえ思う。画面とその繋ぎがあまりに緩く、これが『ジェリー』を撮った人の映画なのかと脱力したのも正直なところ。しかしこの「緩さ」なしにはこの映画は成立しなかったのだと、ラストのヘンリー・ホッパーを捉えた何気ない、しかし素晴らしいワンショットには感じさせられた。自己模倣の極みだった『パラノイドパーク』から『ミルク』への変化ほどのインパクトはないものの、これはこれで異様な作品であるように思う。それに加えて、今作において文字通り「ただそこにいる」存在としての幽霊を体現する加瀬亮には、どこか『デッドマン』のジョニー・デップのパロディのような歪さがあったことは気になった。それはこれまでのヴァン・サントの作品では感じなかったようなものだったが、いったいどんな演出がそこには介在していたのだろう?
移民問題を背景に、黒人の少年たちによる白人やアジア系少年たちへの「ゆすり」を、強烈な長回しで捉え続けることに徹した「監督週間」のRuben Ostlund『Play』。今回見たカンヌ関連の作品の中でもトップクラスにハードコアな作風で、無数の暴力が画面の内外から唐突に訪れる瞬間を捉えることに成功している。同じく監督週間作品のJean-Jaques Jauffret『Après le sud』と並べてみたくなる、派手さはないけれど力のある作品だ。しかしながら、疑問が残るところもある。長いワンショットは、ルノワール、あるいはタチの映画のように、確かに私たちの硬直しがちな「視線」を解放する。けれども、それらひとつずつのショットが蓄積していくと、当然そこには黒人の少年たちに対するある種のネガティヴなイメージが不可避的に生成されてしまうだろう。その点について、このフィルムはいささか自己批判的な視点を欠いているように見えたのだった。ショットの美学的な力に引きずられるがゆえに、モンタージュにおける倫理的な思考が欠如してしまっていると言えばよいだろうか……もちろんそれはこのフィルムの果敢な挑戦を踏まえた上での疑問であることは言い添えておきたい。
監督だけでなく若い出演者もたくさん会場に現れて、いつもとはちょっと違う空気をシネマテークに吹き込ませてくれた「批評家週間」のDelphine Coulin, Muriel Coulin『17 filles』。一時話題となった女子高生の「集団妊娠」を題材にした作品。スキャンダラスな物語にも関わらず、映画自体はなんと言うかとてもおおらかなものだった。オープニングの身体測定のシーンから、女の子たちは惜しげもなく下着姿を披露してくれるのだが、そこにエロティックな要素を搾取するような視点はまったくない。物語や説話やらといった「制約」をうまくかいくぐって、単純に女の子たちがみんな魅力的に撮られているという点だけで好感が持てる。作中にも出演しているノエミ・ルヴォフスキの『人生なんて怖くない』には及ばないけれども、青春映画の現代におけるひとつのヴァリエーションとして、悪くない作品だと思う。
ところでこのフィルムでは、説話上、必然的に介在するはずのセックス描写がほとんどない。それどころか男たちの姿というものはほとんど積極的に画面から排除されていて、たまに現れると道化かさもなくば暴力の象徴として、記号的にあっけらかんと処理されてしまうばかりだ。つまり悪く言えば、このフィルムは性差という絶対的な区別のもとで、ひたすらに閉じられてしまっている作品でもある。そんな中で、主人公の兄の姿だけには例外的な親密さがあり、ほとんど近親相姦的な関係として映し出されていたことが印象的だった。この要素がクロースアップされていたら、もう少し別の方向へとこの映画を開かせる可能性もあったかもしれない……と思いつつ、それが良いことなのか悪いことなのか、ちょっと判別に迷う。