2011年9月28日
ポルトガルで開催されたユーロ2004は、オットー・レーハーゲルが率いたギリシャが優勝したことを覚えている人が何人いるだろうか? マンマークを中心にしたディフェンスからのカウンターでノーマークのギリシャが勝ち進み、ポルトガルが暑すぎるから、こんな「時代錯誤」のフットボールが勝ち進んでしまう、などと優勝しながらも、ギリシャが酷評された大会だ。思い出してみれば、ルイ・コスタやフィーゴといったポルトガルの黄金世代がチームの主力を張った最後の大会だった。ぼくも毎朝本当に眠い目を擦ってこのサイトに「日誌」を連載した。
そんな2004年の6月下旬から7月にかけての映像を思い出すと、フットボールのゲーム以外の映像ばかりが目に浮かんでくる。赤茶色の土、乾燥した空気、坂道──スイスの映画作家アラン・タネールが83年に撮った『白い町で』やヴェンダースが撮った『リスボン物語』の映像そのままだ──がそれらの映像を構成している。そんな中で、「日誌」には書かなかったけれども、あるスタジアムの映像が、そうしたポルトガルに典型的なランドスケープと共に思い出される。そのスタジアムではグループ・リーグのブルガリア対デンマーク戦とオランダ対ラトビア戦しか行われていない。どちらかと言えば──どちらかと「言わなくても」──些末なゲームが2試合行われただけだ。ゲームの内容はまったく覚えていないし、事実、その2ゲームのレヴューは書いていない。だが、ゴール裏には観客席はなく、一方に岩肌が露呈した山塊があり、もう一方には緩やかに下っていく草原があり、両サイドには急勾配のスタンドと中央が何本ものワイヤーで繋がれた大きな釣り屋根がスタンドを被っていた。伝統的なイングランドのフットボール専用競技場でもないし、陸上競技のトラックが存在している多くのイタリアの多目的競技場でもない、とても斬新な競技場だった。競技場の名前をエスタディオ・ムニシパル・デ・ブラガ、スポルティング・ブラガの本拠地である。
2005年のことだったろうか、スペインで発行されている高価だけれども、最高に美しい建築雑誌『El Croquis』を眺めていた。中には、マノエル・デ・オリベイラの『Casa do Cinema』もあった。上映ホールやいくつものミーティングスペースを備えた2階建ての現代建築。「すごいな。オリベイラのカーサは!上映ホールまであるんだ!」。ページをめくると何とエスタディオ・ムニシパル・デ・ブラガがある。Casa do Cinemaと同じ建築家の設計なのだ。エドワルド・ソウト・デ・モウラ、その名を初めて知った。彼の作ったブルジョワの住宅はどれもたゆたゆと光に溢れて、同時にこれ見よがしに存在感を誇示するのではなく、さりげなく周囲のランドスケープの中に収まり、違和感がまったくない。ブラガのスタジアムも山塊と丘の傾斜をそのまま利用していて、まるで山に包まれるように建っている。同じテイストがある。同じ建築家なのだから同じテイストがあるのは当然か!
そのエドワルド・ソウト・デ・モウラが今年度のプリッツカー賞を受賞した。彼に賞を手渡したのはバラク・オバマだ。「あなたの作品ではブラガのサッカー場がすごく好きだ」とオバマも言っていた。ソウト・デ・モウラもオバマのこの言葉はとても嬉しかったらしい。「ぼくの父はブラガのファンでね。昔はファシスト時代の馬蹄型のスタジアムが本拠地だったんだが、お金がなくてゲームを見に行けなかったと言っていたね。だから、このスタジアムの設計をオファーされたときはとても嬉しかったよ。(……)岩を掘ったんだ。60メートルぐらい掘り進んだ。そこに同じ量のコンクリートを流し込んだ。そうやってスタジアムを作った」。
別の記憶が甦る。昨シーズンのチャンピオンズリーグだ。何とスポルティング・ブラガがポルトガル・リーグで好成績を収めてチャンピオンズリーグに出場し、幸か不幸かアーセナルと同じプールに入った。ブラガのユニフォームはアーセナルのコピーだ。創設者たちが昔ハイバリー(アーセナル・スタジアムが出来る前の本拠地。渋くていいスタジアムだった)を訪れて感動し、俺たちもこんなチームを作りたいとユニフォームを同じにしたということだ。フットボールのやり方も去年のチームはアーセナルに似て、ショートパスを繋いでポゼッションを高めて、ゴール前でスピードアップするやり方。残念なことに、ロンドンのアーセナル・ホームのゲームでは、6-0でコテンパンにやられた。コピーが本家にはやはり勝てない。でもブラガに戻ると、アーセナルがもう勝ち抜けが決まっていたこともあって、2-0でアーセナルを敗った。夜のゲームで、岩肌は見えなかったけれども、山の中で照明に照らされたグリーンのピッチが奇妙に美しかった。
そのソウト・デ・モウラの講演会がぼくの勤務先であった。彼はブラガの競技場について、そして最近のプロジェクトについて語った。有名なミラノの『City Life』プロジェクトにも彼は参加している。「最初に参加している3人の建築家のタワー・マンションがもう完成していた。リベスキント・タワー、イソザキ・タワー、そしてサッハ・ハディッド・タワーがそれ。見ているとリベスキントのものが傾いていて危ないよね(笑)。ぼくのは、ちょっと端の方に、3つのタワーよりもちょっと低くした」。ずっとポルトを中心に仕事をしてきた彼のプロジェクトも、最近はこのようにイタリアやスイスにも広がっている。各プロジェクトの紹介を聞いてみると、安藤忠雄、妹島和世などの日本人の建築家も同じプロジェクトに参加している。映画では、「作家主義」に対して、「作家名主義」という言葉ある。多くの匿名的な作品群から共通点を探し出し、それが共通の映画監督の作品であることを確認する作家主義と、すでに巨匠のレッテルを貼られている人の作品をプロデュースするのが作家名主義。現代建築の大きなプロジェクトは、ほとんど「作家名主義」みたいだ。「ぼくがポルト以外で仕事をするのは、ぼくの意志で始まったことじゃない。グローバルな世の中なので、その結果に過ぎない。だから、ぼくは、高層をやるときにも、かつての仕事と同じようにアプローチしていく」。彼はそう言って、皮肉めいた笑顔を向けてくれた。彼のブラガのスタジアムについての話で印象的だったのは、ブラガのスタジアムの建築過程をスライドで見せてくれて、最後に、ギリシャの円形劇場のスライド見せて、「同じアイディアだよ」と説明してくれたことだ。ギリシャ時代に円形劇場に集まって芝居を見る人々と、今、スタジアムでフットボールを見る人々の同質性。そしてブラガのスタジアムとギリシャの円形劇場の形状的同一性。
休憩時間に外でタバコを吸っている彼と言葉を交わした。「ブラガのサポーターなんですか?」「君は?」「ぼくはアーセナルのファンなんです」「いいフットボールをするよね。でも今年はどうなの?」。彼はタバコを吸い終わり再び講演会の場所に入っていった。ぼくも一緒に中に入り、彼を中心に取り囲まれている椅子に腰を下ろした。今晩、円形劇場の中心にいるのはソウト・デ・モウラその人だった。