カンヌとファミレス

 4月25日

 いろいろな矛盾や偏向があるにせよ、それでもカンヌ映画祭は、映画界のオリンピックだ。スポーツとちがって参加標準記録なんてないのだが、否、標準記録がないから、コネクションや人脈、同時代の社会がセレクションに反映する。他に方法がないのだから、文句を言っても仕方がない。

 今年の公式セクレションが発表された。すでに報道されているので確認して欲しい。驚くくらいに「日本映画」がない。三池崇史の『愛と誠』が深夜上映されるのと、学生映画のシネフォンダシオン部門に芸大大学院修了生の渋い作品、秋野翔一の『理容師』がセレクションされているくらいだ。日本映画でも、いろいろな作品に選ばれるのではないかという噂があり、それぞれのプロデューサーも頑張ったのだろうが、残念ながらコンペ部門には1本も選ばれなかった。

 日本映画バブルと日本国内では言われているのに、「国際化」は遠のくばかりだ。極東の4つの島々と周囲の小島群からなる小国では、自国の映画がかなりの率で享受されている。しかし、自国の作品が4つの島々から外に出ていかない。日本映画バブルの担い手の多くは、テレビ局とテレビ局のプロデューサーたちだ。テレビ・ドラマのヒット作と映画化したり、4つの島で売れている小説──多くがライトノベルと言われるもの──を映画化したりして、最初からマーケティングとしては「完璧」な商品が映画として出荷されている。そうした作品の作り手たちにも、まれに野心のある人たちがいて、自作を4つの島の外で行われる「国際映画祭」に出品したりするが、多くの場合、惨敗してしまう。まったく評判を呼ばないばかりか、他の地域からの出品作と比較されて、なぜこんな作品が作られるのかと途方に暮れられたりする。

 そうした作品のプロデューサーたちは、グルメのために敷居の高いレストランでの料理を作っているわけではなく、もともとファミレスの料理を作っているのだ、とうそぶいている。誰でも入れるファミレスの料理を作らなければ、誰にも食べてもらえなくなると心配しているからだ。ぼくもときどきファミレスに行くけれども、うまいと思ったことはない。単に空腹が満たされるだけだ。

 ところで、ファミレスっていったい何なんだ? 定義はあるのか? ウィキペディアによると明瞭な定義はないらしい。ただ「ファミリーレストラン家族連れに対応した業態ともされその料理の幅は老若男女に添ったものが提供されるまた多くの客に同時進行で食事が供されるよに広い店内が特徴的である料理の価格帯は概ね大衆的で質と量共に低価格で満腹感が得られる傾向が強」く、「多くの場合ファミリーレストランでは食品加工工場のよ設備を備えた調理施設であるセントラルキッチン集中調理施設や調理センターとも地域ないしグループ全体で一括して調理を行い完成直前の状態まで料理を仕上げたものを冷蔵ないし冷凍を行った上で各店舗に配送している各店舗では配送され店舗の冷蔵冷凍室にストックされた料理を湯煎や電子レンジオーブンで暖める焼くなどの加熱を行ったりいろどりの野菜などを添えて食器に盛り付け料理の最終的な仕上げを行い客に提供する」ということらしい。広い店内、老若男女、低価格、満腹感(満足感ではない)、セントラルキッチン等がキーワードになりそうだ。

 映画に当てはめてみると、広い店内とは、おそらくシネコンに対応し、老若男女とは、子どもと老人向きの物語ということであり、低価格というのは、遠くでロケしたり、高いセットを使わないということであり、話が分かりやすい上に、知っている物語といったものだろう。セントラルキッチンは、それぞれの店の作り手に任せず、同じ味を大量にということだろうから、映画だと全国津々裏々の映画館で見ることが可能という意味にもなるだろうし、最初からキャストと原作が決められていて、暖めるだけとも考えられる。ファミレスは、最初から料理人には興味がないのだろう。素晴らしい料理人をめざす人は、おそらくどこかで料理に感動したことがあるはずだが、ファミレスで料理に目覚めた料理人はいないだろう。人を感動させる料理が作りたいので「デニーズ」に就職する人はいないだろう。料理を作り手たちも、綿密なマニュアルが用意されるから、バイトで十分だ。つまり、ファミレスから、画期的な料理が生まれることがないのと同様、ファミレスのような映画が画期的な作品になることなど最初からない。ファミレスの料理が世界の料理のオリンピックに参加することがないように、ファミレスをめざした映画は、「国際映画祭」には関係がないし、ファミレス仕様の作品を任されたプロデューサーには、そもそも担当した作品が「国際映画祭」のセレクションにひっかかることになど興味がない。新しくメニューに入れたチーズハンバーグはどのくらい売れるのかにしか興味がない。

 カンヌ、ヴェネチア、ベルリンの三大映画祭は、ミシュラン、ゴー&ミヨー、ザガトかもしれない。ミシュランの3つ星は、パルム・ドールやグランプリに当たるだろう。「ロイヤル・ホスト」や「デニーズ」に、星を付ける審査員など軽蔑の対象かも知れない。そこで、日本で不幸なのは、本当のキュイジニエ(料理人)=映画作家だ。優れた料理人ならば、自分で店を出せば客が来てくれるが、映画作家が店=作品を作るには莫大な資金がかかる。出資する側は、ファミレスの経営には興味があるが、優れた料理には興味がない。日本で出資する人たちは、批評など読まないと豪語している。当たり前だ。ファミレスの経営者は、ミシュランなんて持っていない。そもそもミシュランで星を得るためにファミレスを経営する人はいない。

 でも、とても悔しいことに、日本には、優れた料理人=映画作家が複数いる。残念なことに、彼らへの出資者=プロデューサーがいない。優れた料理人に投資して、ゴー&ミヨーでもミシュランでもいいから高評価を得ようと目論むプロデューサーがいない。批評家には好評だったけれども、興行的には大失敗だったという言葉をよく耳にする。ぼくら映画批評を生業にする者たちへの皮肉と当てこすりだ。ぼくらは、この料理はすごくおいしかったと書き、その理由を示すのが仕事だ。おなかがいっぱいになるばかりでなく、おいしいものを食べたい人に味方している。小津のように、昔は西洋料理を作っていて、戦後は懐石に転向した人もいるが、まだスタジオが機能していた時代は、スタジオの中にも良い料理人がたくさんいた。良い料理人を励ますプロデューサーもいた。日本で、おいしい料理を食べる機会がなくなれば、ぼくら批評家は廃業するかパリのビストロ・ガイドでも書くしかなくなる。やはり、ぼくの町内に住む友だちがオリンピックに出て欲しい。そして、ぼくは友だちが活躍する場でサポーターとして応援する準備ができているのに……。